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第十三話 お心にほんのり甘みを
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「お帰りなさい、クラウス」
夜、ランプの灯る応接間で。
リシェルは一人、椅子に腰掛け、本を手にしていた。
けれどそのページは、しばらく前からめくられていない。
指先はただ、同じ行を繰り返しなぞっていた。
窓の外では風が木々を揺らし、時折カーテンの端がふわりと持ち上がる。
けれどその静けさは、嵐の前のようにも思えた。
「ただいま戻りました、お嬢様」
クラウスが無音で頭を下げる。
闇夜を切り裂いて戻ったとは思えぬほど、その身なりは整っていた。
黒の燕尾服の裾に埃ひとつない――足跡を残さないのが、この男の作法だった。
「お怪我などはありませんのね?」
「ご心配には及びません。少々、古い書庫を漁っただけですので」
「……そう……」
リシェルの声には、ほんの一滴だけ、安堵の色がにじんでいた。
彼女のまつげが伏せられ、カップに落ちる影がかすかに揺れる。
その静寂の中に、紅茶が注がれる音だけが、部屋に薄く広がる。
「先ほど、王女殿下がいらしたわ」
クラウスの手がわずかに止まった。
仮面の奥――表情の読めぬ顔は動かない。
だが、息が一瞬、静かに留まった。
「……それで、何かございましたか?」
「……式でのこと、わたくしの応対にお礼を頂いたあと……
あのフェリシアという娘。
……王女殿下も違和感を抱いておられると……それから……」
クラウスはカップを受け皿にそっと置く。
陶器が音を立てぬよう、まるで霧を撫でるかのような所作だった。
「……それから?」
カップの縁に触れた指が一度だけ止まり、爪が白む。
問いの言葉に、リシェルのまつげがわずかに揺れ、一瞬だけ、視線が泳ぐ。
……ほんの一瞬のうろたえ。それを、自覚とともに抑え込む。
冷静さを取り戻した彼女の声は、まるで何もなかったかのようだった――けれど。
「いえ、なんでもありませんわ」
そして、差し出されたカップの縁に指を添えながら――静かに問う。
「……何か、分かりましたの?」
「はい」
クラウスはほんの少しだけ、言葉を選ぶように沈黙した。
「……お嬢様におかれましては、お心の準備を……」
そして、丁寧な手順でカップに角砂糖を一つ落とす。
「クラウス?」
「失礼しました。少々、現実にも甘みを足しておきました」
リシェルの唇が、かすかに緩む。
クラウスはカップの中で音もなくスプーンを回し――
「フェリシア嬢は、戸籍上“春先の三ヶ月ほど”存在していなかった形跡がございます」
「……! それは、どういう……」
「生まれた村は火災により消失。両親の記録はなく、最初の就労先は三ヶ月前に突然出現」
リシェルの瞳が細くなる。
それは冷静なまなざし――だが、その奥に宿る鋭さは、宝石の刃のようだった。
「まるで……その時に作られた存在のように?」
「ご明察です。
さらに、“ミレイ”という名で舞台役者として活動していた痕跡がございます。
“フェリシア”という名で王子殿下に接近したのは、つい最近のことです」
クラウスの声は、変わらず淡々としていた。
だが、よく聞けば――言葉の底に、微かな熱が滲んでいた。
クラウスの手元、かすかに力が入る。
それは、侮辱された“主”への忠義か。
それとも――もっと別の、深く暗い感情か。
「一つ、気になることがございます」
「……気になること?」
クラウスは目を伏せてしばし沈黙した。
「お嬢様、お心の準備は?」
「ええ、問題ありませんわ」
リシェルは紅茶を一口。これは――確かに甘い。
けれど――やがてクラウスは目を上げ、静かに告げた。
「彼女の村が火災で焼失したのは五年前――
お嬢様のご両親――公爵夫妻が失踪された時期と一致します」
ランプの灯が、ふたりの瞳にゆらりと影を落とした。
夜、ランプの灯る応接間で。
リシェルは一人、椅子に腰掛け、本を手にしていた。
けれどそのページは、しばらく前からめくられていない。
指先はただ、同じ行を繰り返しなぞっていた。
窓の外では風が木々を揺らし、時折カーテンの端がふわりと持ち上がる。
けれどその静けさは、嵐の前のようにも思えた。
「ただいま戻りました、お嬢様」
クラウスが無音で頭を下げる。
闇夜を切り裂いて戻ったとは思えぬほど、その身なりは整っていた。
黒の燕尾服の裾に埃ひとつない――足跡を残さないのが、この男の作法だった。
「お怪我などはありませんのね?」
「ご心配には及びません。少々、古い書庫を漁っただけですので」
「……そう……」
リシェルの声には、ほんの一滴だけ、安堵の色がにじんでいた。
彼女のまつげが伏せられ、カップに落ちる影がかすかに揺れる。
その静寂の中に、紅茶が注がれる音だけが、部屋に薄く広がる。
「先ほど、王女殿下がいらしたわ」
クラウスの手がわずかに止まった。
仮面の奥――表情の読めぬ顔は動かない。
だが、息が一瞬、静かに留まった。
「……それで、何かございましたか?」
「……式でのこと、わたくしの応対にお礼を頂いたあと……
あのフェリシアという娘。
……王女殿下も違和感を抱いておられると……それから……」
クラウスはカップを受け皿にそっと置く。
陶器が音を立てぬよう、まるで霧を撫でるかのような所作だった。
「……それから?」
カップの縁に触れた指が一度だけ止まり、爪が白む。
問いの言葉に、リシェルのまつげがわずかに揺れ、一瞬だけ、視線が泳ぐ。
……ほんの一瞬のうろたえ。それを、自覚とともに抑え込む。
冷静さを取り戻した彼女の声は、まるで何もなかったかのようだった――けれど。
「いえ、なんでもありませんわ」
そして、差し出されたカップの縁に指を添えながら――静かに問う。
「……何か、分かりましたの?」
「はい」
クラウスはほんの少しだけ、言葉を選ぶように沈黙した。
「……お嬢様におかれましては、お心の準備を……」
そして、丁寧な手順でカップに角砂糖を一つ落とす。
「クラウス?」
「失礼しました。少々、現実にも甘みを足しておきました」
リシェルの唇が、かすかに緩む。
クラウスはカップの中で音もなくスプーンを回し――
「フェリシア嬢は、戸籍上“春先の三ヶ月ほど”存在していなかった形跡がございます」
「……! それは、どういう……」
「生まれた村は火災により消失。両親の記録はなく、最初の就労先は三ヶ月前に突然出現」
リシェルの瞳が細くなる。
それは冷静なまなざし――だが、その奥に宿る鋭さは、宝石の刃のようだった。
「まるで……その時に作られた存在のように?」
「ご明察です。
さらに、“ミレイ”という名で舞台役者として活動していた痕跡がございます。
“フェリシア”という名で王子殿下に接近したのは、つい最近のことです」
クラウスの声は、変わらず淡々としていた。
だが、よく聞けば――言葉の底に、微かな熱が滲んでいた。
クラウスの手元、かすかに力が入る。
それは、侮辱された“主”への忠義か。
それとも――もっと別の、深く暗い感情か。
「一つ、気になることがございます」
「……気になること?」
クラウスは目を伏せてしばし沈黙した。
「お嬢様、お心の準備は?」
「ええ、問題ありませんわ」
リシェルは紅茶を一口。これは――確かに甘い。
けれど――やがてクラウスは目を上げ、静かに告げた。
「彼女の村が火災で焼失したのは五年前――
お嬢様のご両親――公爵夫妻が失踪された時期と一致します」
ランプの灯が、ふたりの瞳にゆらりと影を落とした。
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