【完結】あなたの正しい時間になりたい〜上司に囚われた俺が本当の時間を見つけるまで〜

栄多

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あなたの正しい時間になりたい

中堅広告代理店・有川デザインオフィス

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東京、午後4時。
中堅広告代理店・有川デザインオフィスは忙しさのピークを迎える。
社内のデザイナーはそれぞれが抱える案件でPCにかじりついていたり、印刷所にデータを入れる入稿寸前でクライアントから修正指示が入って真っ青になっていたり、様々な人間が行き来していた。

「澁澤ぁぁぁー!島村印刷の夏目さん来てくれたぞ!再校正上がってきたぞー!」
「あっ、ハイ、ありがとうございます!すぐ行きます!」

澪緒もその多忙なデザイナーの一人。
澪緒は名前を呼ばれ慌ただしく立ち上がり自分のデスクに置いたカフェラテを飲み干す。
椅子にかけてあった黒のジャケットを羽織り、ノートパソコン、スマホ、赤のボールペンを握る。
打ち合わせ室へ向かう途中、壁にかかったホワイトボードの予定表を視界に入れる。
1番上に名前のある副島は直行直帰。

『あなたの正しい時間になりたい』
いくら好きだからって、あんな重いこと言うんじゃなかった。
本日何度目かの後悔。

澪緒は今日の副島の予定にほっとしながらも、どこか肩透かしを食らったような気分だった。
謝ろうか、何事もなかったように笑顔でいるか。朝、麦の声で目を覚ましてから通勤電車に乗る間中ずっと悩んで、副島から連絡が来てないか何度もスマホを見たりしながら会社のタイムカードを押したのに。

副島のアンサーは、直行直帰。

わざとじゃないことは分かってる。
行き先には遠方のクライアントの名前もあったし、先輩デザイナーの名前の横にも同じクライアントの名前があった。
多分出社前に営業から直に電話がきて、急遽、同行が決まったんだろう。
けど副島から一番に声がかかるはずの澪緒に声がかからなかったことが、副島からの答えである気がした。

しかし多忙な広告代理店で悠長に物思いにふけってるヒマはない。
澪緒は努めて平静を装いながら打ち合わせ室のドアをノックして入室する。


「自画自賛するようでなんですが、今回は澁澤さんにも満足していただけると思います」
再校正を持ってきてくれた印刷所の夏目は、自信満々にそう言った。

先日のポップアイドルのポスターの件だ。
夏目が持ってきてくれた再校正は澪緒の目からパッと見ても職人のプライドを感じるような素晴らしい仕上がり。
「すごい!前回より凄く服の青がきれいに出てる」
「頑張りました」
「ですよね。こんなきれいに仕上げていただいて…ありがとうございます!想像以上の仕上がりです!」

仕事の喜びを味わう瞬間。
それはデザインに心血を注いできた自分と同じ熱量で力を注いでくれたプロの技術で、自分が想像していた以上に素晴らしい成果物を生み出せた時。

「この色校正をお戻しするの、来週の火曜でいいんでしたっけ?」
「そうですね。火曜の夕方ごろ戻していただければ。バイク便でも結構ですし、お時間ないようでしたらまた私が受け取りに伺います」
「クライアントにももう一度確認してもらいますので弊社に来て頂けると、ありがたいかもです…!」
それまでサポート役として横についていた澪緒の先輩である井上が口を開く。

「すいませんね、うちの澁澤すっかり人気者で忙しくて。澁澤を指名してくるクライアントも増えてきてるんですよ」
「ああ、ですよねぇ」
「人気者なんて、そんな。俺井上先輩がいてくれるから何とかなってます」
「何言ってんだよ、お前の方が独立するの早いぞ、絶対」
「俺は会社員っていう身分気に入ってるんです。しばらくはここにいます」
本当は、ここにいないと副島との接点が途切れてしまうから。
「それに俺、1人じゃポンコツです。井上先輩いるおかげでなんとかなってます」
「知ってる。お前1人で出張の新幹線のチケット取れないもんな」
「やめて。もう覚えたから」

「確かに副島さんの活躍でだいぶお忙しいご様子ですよね。副島さん、また官公庁のコンペ通ったと伺いました。素晴らしいですよね」
「ありがたいけど、いま少し副島部長に負担かかりすぎてるんですよ。ただでさえ忙しいのにクライントだとか社外の女子から合コンに誘われたりしてるし。ほんと立場上断りづらいし参ってんですよね。既婚者なのに。なぁ?澁澤」
立場上、断りづらい。
それはイコール、合コンに参加してるってこと。

「あっ…いえ、そんな事は…」
穏やかだった打ち合わせ室に、一瞬沈黙が訪れる。
澪緒は必死に笑顔を作ったが、どうしても明るく返せない。
井上と夏目が視線を交差させる。
急に言葉を詰まらせた澪緒を見かねて、ベテランの夏目が冗談混じりに助け舟を出す。

「人手不足はどこも深刻な問題ですもんね。うちの印刷所も社員の定着率はいいんですけど、成長分野でもないから新卒や中途が入ってこなくてね。もう社長と会社の敷地でかき氷屋でも始めるかなんて言ってるんですよ。ハハハ」
「ああ、中途といえば、ウチに中途の営業が入ってきたんですよ。柏木という男なんですけど。めっちゃイケメンです。今日入社前の契約に来てるんでこの打ち合わせが終わったら夏目さんにも紹介します」
「是非よろしくお願いします。澁澤さんももうお会いになられてるんですか?」
「いや、俺はまだ」
「そうですか。御社も、少しでも楽になるといいですね」

少しでも楽になるといいですね。
夏目がせっかくいたわりを込めた声で澪緒に言葉をかけたが、今の澪緒にその親切心を推しはかれる余裕は、残っていなかった。


 夏目を見送り、色校正を作業台のテーブルに置く。澪緒から思わずため息が出る。

「澁澤、ちょっと疲れたか?」
「いや、そういうんじゃなくて。安心したら脱力しました。…副島部長って合コンに誘われたりするんですか?なんか俺と天と地の差。いいなぁ、モテ男は」
「数合わせみたいなもんだけどな。写真見るか?」
社内のトップディレクターである副島が、目の前の可愛い系男子のデザイナーの澪緒と不倫しているとは思いもよらない井上は親切心からその合コンの写真をスマホに表示させ澪緒に見せた。

澪緒はその写真を見て後頭部をカナヅチで殴られたような衝撃を受けた。
合コンというより大人の食事会。
ベージュ系で統一された落ち着いた室内、背後に見える夜景に混じる、東京タワー。
相手の女性が着ている服のランクからなかなか良い場所、良いセッティングであることが伺い知れる。
4対4。
本気の火遊び可。
そういう集まりだった。

「副島さんスラッとしててちょっと知的な感じするし、キメすぎないかっこいいスーツ着てるし、黒ブチ眼鏡だし、身長180㎝だし。いかにも女子が好きな男って感じなんだろうなぁ。あーうらやま」
そういう女性たちを馬鹿にする事はできなかった。澪緒自身も、副島のそういうスタイリッシュなところに惹かれたから。

「澁澤もそのうち声かけられるようになるって。お前、どんな女がタイプなんだ?」
「顔より何より忙しい俺とデートする時間を確保できる職業の女子がいいですかね」
「あー、だよな」
二重人格のようにすらすら答える自分に心底嫌気がさす。
社会人になってから何度もついた嘘。リピート。コピペ。
「俺ら、繁忙期の勤務時間なんてむちゃくちゃだもんな。公務員合コンなんてどうだ?彼女ら夜勤は無いぞ」
「いいですね。親にも紹介しやすい」
自分が自分でなくなっていくような感覚。
でも構わない。
生きるスキル。
処世術。
そうやってこの世を生きている同類はこの世に腐るほどいる。

でも、誰か助けてと思う。

「あ、副島部長の奥さんSNSアップしてる。こないだ夫の出張に同行しちゃいました、だって!いいのかなー!」
「副島さんなら許されそうですね」
「だよな、あの人ホント人徳だよなぁ。結婚してから何人と浮気してんだろな?俺も早く野球ファンの彼女欲しいー!」
「いいですね、彼女とプロ野球観戦。俺も憧れる」

助けて。
誰か。
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