亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃

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Main story ¦ リシェル

fin.

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 ふと、瑞々しい柑橘の香りが鼻先を掠めたような気がした。そして、真っ直ぐに見つめるアイスブルーの瞳の奥に、オレンジ色の丸い何かがふわりと浮かび上がったような気も。

 ――だからこれは、あなたの為というより、私の為に食べて。

 遥か遠いあの日の、懐かしい一言を思い出して、私は感慨に耽りながらゆっくりと瞬く。まさかあんな台詞をなぞってくれるだなんて、意外だった。だってあれはあまりにも一方的な、当時のルシウス曰く「身勝手で押し付けがましい」台詞だったから。
 でも、だからこそなのかもしれない、と、右頬を包む彼の手の上にそっと掌を重ねながら思う。あの時の言葉が、私たちの始まりのだったのなら。彼が紡いだ言葉は、私たちの新しい始まりを告げるものなのだろうから。

「なあ、リシェル」

 ことん、と、前髪の付け根辺りに彼の額が軽くぶつかって、人肌の穏やかなぬくもりが、じんわりと肌に広がってゆく。その心地よさに心が堪えきれず、重ねていただけの彼の手を、ぎゅっと握り締めた。指の一本一本を絡め、縋り付くように。

「他の誰でもなく、俺の傍で、俺の為に生きてほしいんだ」

 過去へは戻れない、と、ルシウスは言うけれど――。そっと目を伏せ、睫毛に張り付いた雫がぽろぽろとこぼれるのを感じながら、懐かしい記憶に思いを寄せる。過去へは戻れない、と言うけれど。もし何かの奇跡が起きて、たった一度でも過去へ戻れるとしたら。私は間違いなく、彼と出会ったあの日へ戻りたいと願うだろう。拝礼者の少ない教会の、更にひと気も動物の気配もまるでない裏庭。そこに置かれた丸太に座る無愛想な少年と出会った、あの大切なかけがえのない日に。

 そしてあの日に戻って、全てをやり直したいと思う。それは決して、初恋が実らなかったからだとか、アルベルトに愛されなかったからだとか、そんなことでは決してない。ずっと傍にいて、ずっと支えてくれて、ずっと見守ってくれていて。色んなことをして遊んで、時にな馬鹿なことをして笑い転げ、たくさんたくさんお喋りをして。きっとアルベルトや、実の姉以上に心を通わせていた大事な人と、もっとちゃんと向き合う為に。私がこの目で見ていなかったものを、今度はちゃんとしっかり自分自身の目で見て。彼の与えてくれていた優しさを知って。私が本当に大事にしなければならなかったのは誰だったのかを、ちゃんと受け止める為に。

 でも――。ゆっくりと瞼を持ち上げ、今出来る限りの精一杯の笑みを浮かべながら、握り締めたルシウスの掌に、そっと頬を擦り寄せる。過去へは戻れない。でも、これから新しい道を選んで、一から始めてゆくことは、出来る。前を向いて。いつも傍にいて、いつも私を支えてくれていた、たったひとりの人とともに。

「だから今度は――俺を、選んでほしい」
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