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43 赤の衝動
しおりを挟む「ご挨拶よろしいかしら?」
ヴィオラ殿下の声に、周囲のざわめきが一瞬だけ静まる。私は少し息を整え、カイルさんの腕から距離を置きながら、殿下に視線を向けた。
カイルさんは一瞬身構えたが、すぐにいつもの冷静な表情に戻り、一歩前に出る。
「これはヴィオラ殿下。まさか殿下がこちらへお越しくださるとは。ご紹介させていただきます。こちらが、以前お話ししていた異世界から来たユイです」
彼の言葉が終わるのを待って、私はドレスの裾を軽く持ち、深く優雅に一礼した。
「恐れながら、ヴィオラ殿下にご挨拶申し上げます。わたくしはユイと申します。殿下にお目にかかれ光栄に存じます」
「わたくしはラザード公国の第一公女、ヴィオラよ」
ヴィオラ殿下は簡潔に、しかし有無を言わさぬ威圧感をもって名乗った後、真っ赤な瞳が私の表情を探るように細められた。
「あなたがユイさんなのね。少し、二人きりでお話ししませんこと?」
カイルさんは眉をひそめ、「私もご一緒させていただいても?」と伝えたが、ヴィオラ殿下はきっぱりと遮った。
「いいえ。ユイさんと二人きりでお話したいんですの。カイル様はこちらでお待ちくださいな」
私は戸惑いながらも、頷くしかなかった。カイルさんは、言葉を発さずに軽く視線を送るだけで、何を考えているか読み取れない。私の背中を押すようにして送り出してくれた。
「まぁ、女性同士のお話し合い? 素敵ですわね。わたくしもご一緒してもよろしいかしら?」
優雅な声とともに現れたのは、深い紫色のドレスを纏ったマリアベル様だった。
しかしヴィオラ殿下は、一瞬視線を私に向け、淡い笑みを浮かべながら断った。
「ユイさんと二人きりでお話がしたいんですの。ごめんなさいね」
「それは、残念ですわ。何かありましたら、お声掛けくださいね」と、マリアベル様は柔らかく告げる。けれど、その眼差しは圧があり、ヴィオラ殿下に「簡単には干渉できない」と知らせるものだった。殿下は小さく鼻を鳴らすだけで、それ以上の反応はない。
ヴィオラ殿下に促され、私は静かにバルコニーへ向かう。側近の数名は少し離れた位置に控えており、警戒の眼差しを光らせている。風が顔に触れ、緊張で硬くなった肩を一瞬ほぐしてくれた。
殿下は、給仕から受け取ったグラスを優雅に揺らしながら、核心を突いてきた。
「早速ですが、ユイ。カイル様とはどんな関係で侯爵家に滞在しているの?」
彼女の視線がじっと私を捉える。ほんの一瞬息を詰めたが、迷うことなく答えた。
「私は、カイルさんの客人として侯爵家に滞在させていただいている者です。特別な間柄ではありません」
ヴィオラ殿下の赤い瞳が、一瞬鋭く細まった。
「それならば、侯爵家に滞在し続けるのはおかしな話でしょう。異世界人だからといって、カイル様の庇護に甘えて、彼の周囲にいつまでもまとわりつくのはおやめなさい」
その冷酷な忠告に、自分の無力さを改めて突きつけられた気がした。私は軽く視線を上げ、殿下の目を見据えた。
「確かに、ご迷惑をかけている状況かもしれません。ですが、彼の口から『離れろ』と言われない限りは、私は側にいたいと思います」
私が自分の気持ちを正直に答えた瞬間、バルコニーのただでさえ冷たかった空気が、一段と下がるのを感じた。
「ほんと、目障りな存在ね」
ヴィオラ殿下はポツリとつぶやくと、軽蔑の色を込めて私を見た。
「大人しく引っ込めばいいものを。あなたといい、カイル様といい、なんでこんなにも思い通りにいかないのかしら……あの男なら側に置いてやってもいいと思ったけど、もういいわ。私に従わない人間なんて要らないもの」
彼女は小さく息をつくように呟き、手にしていたワイングラスを、まるで興味を失った物を扱うように指先からふっと離した。
赤い液体を含んだグラスは、軽い音を立てて石床に落ち、グラスは鋭く砕け散った。床には血のような飛沫を残す。
ヴィオラ殿下はまったく気に留める様子もなく、ドレスの袖元からガラス製の小さな小瓶を取り出した。
蓋が開けられると、怪しげな青白い煙がふわりと漂う。彼女は不敵な笑みを見せ、その液体を私めがけて容赦なく投げつけた。
液体は私にかかる直前、空気中で目に見えない壁にぶつかったようにすべて弾かれ、液体だけが静かに床に散る。
私は落ち着きを払ったまま、静かにつぶやいた。
「……これは、精神干渉系の薬ですね」
薬が弾かれたことへの驚愕と、その薬の正体を即座に言い当てた驚きが入り混じり、彼女の赤い瞳が大きく見開かれた。
「へぇ……弾いた上に、薬の成分まで分かるのね」
「この程度の防御なら問題ありません。私は薬草も扱います。ここ最近の出来事もあり、しっかりと勉強しましたから──この香りと色、魔力の反応から、どのような効果か見当はつきます」
「ふん。それくらいの力はあるのね。だけど、この会場全体ならどうかしら」
ヴィオラ殿下は嘲笑とともに、ホール内部をちらりと見やった。私は落ち着いたまま、彼女の言葉を否定した。
「何も起こらないと思います」
「え?」と彼女の表情が崩れる。
「この国には優秀な魔道士団、騎士団がいます。本日の夜会の警備体制は完璧に整えられているはずです。もしも、何かが仕掛けられていたしていたとしても、何も問題ないはずです」
そう言い終わるのと同時に、バルコニーの影から複数の魔道士団員たちがゆらりと現れた。その中には、ゼルフィの姿もあった。
「ヴィオラ殿下。少しお話を伺いたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
魔道士団員が冷たい視線を向けながら、ヴィオラ殿下に詰め寄る。
「ふん。色々とバレていたというわけね」
ヴィオラ殿下は諦めたように鼻で笑った。魔道士団の中から、カイルさんが前に出た。
「殿下。会場に仕掛けられていた精神干渉系の薬品は、全て回収済です。これより、別室で詳細なお話を伺いたいので、ご同行願えますか」
彼が冷徹な声で告げると、ホール側から騎士団員たちも現れ、一瞬でヴィオラ殿下の側近たちを取り囲む。彼女は驚く様子もなく、ふふふと愉快そうに笑い始めた。
「でも、これで終わりじゃないわ。あなたたちが分かったのはここまででしょう?」
彼女は嘲笑と勝利の確信に満ちた不敵な笑みを浮かべた。
私が「えっ」と困惑した声を上げた瞬間、空が裂けるような轟音とともに、遠くに見えるクロノス大聖堂から爆発が起こった。
炎が天高く舞い上がり、火柱が夜空を赤く染める。爆風が微かに街を揺らし、衝撃波が窓を震わせる。爆発の余韻が地面を震わせるほどの衝撃となって伝わり、その場にいた誰もが、息を呑んだまま動けなくなった。
バルコニーにいた魔道士団員も、ホール内の貴族たちさえも、次々に動揺と恐怖の声をあげ始める。
カイルさんは、その火の手を静かに見つめていた。その横顔は、驚愕とも恐怖とも違う。強烈な焦燥と、どこか“覚悟していたものを確認した”ような、痛ましい諦観が宿っていた。
「……最悪のタイミングで来たな」
その呟きは怒りとも苦渋ともつかず、何かをずっと警戒し続けていた者の、張り詰めた糸が切れた瞬間のように聞こえた。
(どういうこと……? まさか予期していたの?)
理解できずに戸惑っていると、血相を変えた一人の魔道士団員が、バルコニーへ慌てた様子で駆け込んできた。
「団長、大変です! イーグス枢機卿が、貴族牢から消えました!」
その報告に、魔道士団員の表情が一瞬で凍りつく。
ゼルフィでさえ、顔色を変えた。カイルさんは表情を固くし、短く鋭い声で訊いた。
「状況を報告しろ」
「はっ……!」
団員は喉を鳴らし、息を荒げながら続けた。
「見張りによると、枢機卿は突然苦しみ出した次の瞬間、全身が黒い霧のように分散して、そのまま空気に溶けたと。その場に残されていたのは衣服だけでした!」
衝撃的すぎる報告に、私は思わず息を飲んだ。しかしカイルさんは、短く目を閉じ確信を帯びた声で言った。
「呪術の媒介はイーグスだったか」
(媒介? どういうこと……)
頭が追いつかず混乱していると、カイルさんはゆっくりとヴィオラ殿下の方へ向き直った。炎の赤が照らし出す彼の表情は、冷たく研ぎ澄まされていた。
「すべて、あなたが仕組んだことですね。ヴィオラ殿下」
ヴィオラ殿下は、頬を赤く照らす炎光の中、ゆるりと微笑んだ。
「まぁ。どうして私だと?」
「その背後の存在も、動機も。ここに至る筋道も……すべて、あなたの動きと一致する」
「あら……証拠はあるのかしら?」
彼女は白い指を顎に添え、楽しげに首を傾げた。だが、カイルさんやゼルフィの視線は、揺るぎない確信を示していた。
ヴィオラ殿下はふと視線を遠くへ向けた。クロノス大聖堂を呑み込む炎と黒煙。その光景を見ながら、ぞっとするほどの恍惚と笑みを深める。
「うふふ……ほら見なさいよ。時代は戻るの。元の姿に。神を縛りつけるなんて、人間の分際で出来るわけないのよ!」
「なぜこんなことを」
カイルさんの声は、怒号に近いほど鋭かった。しかしヴィオラ殿下の顔と笑い声は次第に狂気に満ちていく。
「あなた達が、異世界人が、神を無理やり縛り付けるからいけないのよ! 世界を在るべき姿に、私たちが戻しただけよ!」
その声はもはや常軌を逸していた。カイルさんはヴィオラ殿下を見る事なく、低い声で指示を飛ばす。
「ヴィオラ殿下と側近を拘束。別室で事情を聞く」
魔道士団員たちが一斉に動き、抵抗する暇もなくヴィオラ殿下と側近を取り囲む。彼女は捕えられながらも、なお不敵に笑っていた。
カイルさんは、イリアス副団長に短く指示を与えた。
「イリアス。編成どおり、魔道士団をクロノス大聖堂に出せ。残りの警備隊は王城内に残れ。それから、騎士団と協力して住民の避難誘導を優先させろ。二次被害を出すな」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
(大聖堂で一体何が起きてるの?)
胸の奥に広がるのは、言葉にならない不安と凍りつくような困惑だった。
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