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45 鮮烈な光
しおりを挟む俺がイリアスと共にクロノス大聖堂へ駆けつけたとき、そこはすでに“戦場”の空気をまとっていた。
かつて荘厳だった大聖堂は赤い火光に照らされ、まるで血を浴びたように鈍く光っている。
近づくだけで熱気と焦げた石の匂いが肌を刺し、崩れた回廊からは絶えず瓦礫がくずれ落ちる音が響いていた。
事前に大聖堂の警備に当たらせていた魔道士団の先行部隊が、既に爆発によって発生した火災の消火活動を始めていた。
外で被害を抑えようとする叫びと指示が飛び交い近隣住民の避難誘導は騎士団によって急ピッチで進められていく。
この場に立った瞬間、俺の肌は焼けるようにざわついた。
大聖堂内部から吹き出している禍々しい魔力のせいだ。
「団長!」
駆け寄ってきた部隊員が息を荒げながら報告する。
「大聖堂周辺道路の封鎖は完了しています! 爆発で魔道士団の数名が負傷しましたが、命に関わる怪我ではありません! 近隣の市民の避難も進んでいます!」
「……よくやってくれた」
ほんの一瞬だけ、胸の緊張が解けた。
しかし、視線を大聖堂の奥の礼拝堂へ向けた瞬間、その安堵は霧のように消えた。
その場所は、もう“礼拝堂”と呼べる姿をしていなかった。
かつて祈りの光が差し込んでいたステンドグラスは粉々に砕け、白い大理石の床は中央に向かって陥没し、地面がえぐり取られたかのような巨大な穴が開いていた。
穴の縁は黒く焦げ、紫がかった魔力が脈動しながら滲み出ている。立っているだけで精神を削られるような鋭さを帯びている空間を一歩一歩進む。
そして、その穴の底にさは横たわる“異形”がいた。
──劫炎獄龍
古き神話の中にしか存在しなかったはずの厄災が、封印の残滓をまとって横たわっていた。
“生きている”とも“死にかけている”とも言えない異様な姿。
鱗は黒曜石の破片のように裂け、ところどころ剥がれ落ちた皮膚の下で黒い血管が脈動している。翼は瓦礫の下で折れ曲がり、翼骨だけが突き出す。纏わりついた禍々しい魔力が蛇のように蠢き、床石を腐食させていた。
封印の年月が肉体を痩せ腐らせ、その代わりに“魔力だけ”を異常なまでに肥大させた、そんな化け物だった。
古龍が息を漏らすたびに、黒紫の魔力が津波のように押し寄せ、皮膚がチリチリと焼けるような錯覚が走る。普通の人間なら、この場にいるだけで命を落とすだろう。
イリアスが隣で低く呟いた。
「……団長。封印は半壊です。この魔力漏出量はすでに限界を超えている」
「ああ。そうだな」
声に出した瞬間、喉の奥が痺れた。それほどまでに、劫炎獄龍の魔力は“毒”のような圧を持っている。
封印が完全に破られれば、王都どころかこの大陸の地図が書き換わるかもしれない。
市街地の避難は進んでいるが、この魔力の濃度が解き放たれれば数刻で王都全体を覆う。一度完全に目覚めれば、災害という言葉ではすまない規模の破壊が起きるだろう。
その未来を思った瞬間、脳裏に浮かんだのは笑っているユイの顔だった。
(……何も伝えず来てしまったが、ユイは怒るだろうな)
もし彼女がこの場に来てしまったら、確実に生死に関わる。その未来だけは、なんとしても拒みたかった。彼女が怒れるほど元気でいてくれるなら、それだけでいい。
「団長……やりますか」
イリアスが静かに問いかける。
「もちろんだ。ここで押さえ込む。覚醒する前に叩くぞ」
古龍の魔力がまた脈動し、礼拝堂全体が低く唸った。嫌な汗が背中を伝い落ちる。
ここから退けば、王都は滅ぶ。何もかもすべて全て失われる。だからやるしかない。
「総員──展開準備!」
十数名の精鋭魔道士が素早く散開し、礼拝堂の残骸の中で定位置を取る。
全員の魔力を込めた大規模魔法陣がゆっくりと浮かび上がり、光の筋が複雑な幾何学を描き始める。
魔力の線は一本一本が重く、流すたびに魂を削られるような感覚。だが、気を抜けばすぐに古龍の魔力に踏み潰される。
詠唱と魔力が高まり、礼拝堂の空気が光と闇で二分されるような張り詰めた緊迫が生まれる。
しかし同時に、劫炎獄龍の魔力も急激に膨れ上がり、魔法陣を押し返すように襲い掛かってくる。
足元がみしりと悲鳴を上げた。
(……くそ、覚醒が早いな)
呪術の進行は、俺たちの想定より数段早い。封印が完全に崩壊するのは時間の問題だ。
古龍の魔力は、練り上げる俺たちの魔力を容赦なく圧迫してくる。古龍が完全に目覚めれば、もう手が出せない。このまま時間を掛ければ、討伐は絶望的になるだろう。
一瞬、胸に“不可能”という言葉が浮かぶ。だが、すぐに打ち消す。
ユイの笑顔と、泣きそうな顔と、怒った顔が一気に胸の奥に押し寄せる。
「全員、魔力を最大まで練り上げろ!! ここが勝負だ!!」
声が礼拝堂に響き渡り、魔道士たちの魔力が一斉に高まる。
魔法陣が白光に近いほどの輝きを放ち、ひたすら魔力を練り上げ続ける。
王都を守るために。
仲間を守るために。
そして──
ユイが、明日も笑っていられる世界を守るために。
大地が震え、光が爆ぜる。
古龍がゆっくりと、その巨大な頭をもたげ始めた。
◆ ◆ ◆
私は身体を押し上げる魔力の流れに身を任せながら、王都の夜空をひたすら駆けた。
大聖堂に近づくほどに、空気の質そのものが変わっていく。胸を押しつぶすような、禍々しい魔力の圧。
息を吸うたび肺の奥まで痺れが走り、背中を冷たい汗が伝う。
遠目に見える大聖堂では、魔道士団の水属性部隊が必死に消火を続けている。白い蒸気が夜に溶け、火の粉がちらちらと王都に舞っていた。
街は混乱の渦中にあった。
突然の爆発に避難する人々、不安と恐怖が渦巻く中、騎士達が必死に避難誘導している。
(……カイルさんは、この人達を守るために行ったんだ)
胸が、きゅっと締め付けられた。
──カイルさんは、いつも一人で抱え込む。
彼はいつも冷静で近寄りがたいほど落ち着いているけれど、本当は誰よりも優しい。
何か頼まれれば、眉をひそめながらも結局は全部手を貸してくれる。
真面目で、妥協を知らないほど勉強熱心なところも尊敬してる。
私が作ったご飯を、美味しそうに食べてくれるあの小さな笑顔も。
耳に低く響く声も。
優しく見つめてくれる青灰の瞳も。
たまに不意に触れる指先のぬくもりも、その仕草の一つ一つも。
私のことを気にかけてくれる態度も、言葉の端々に滲む優しさも、気づけば、好きすぎて苦しくなるほどに彼の全てが愛おしい。
でも、彼がひとりで全部を抱え込んで、何も言わずに背負い込むその姿──それだけは嫌いだ。
守られるだけなんて、私は望んでいない。私も彼の力になりたい。隣に立ちたい。一緒に戦いたい。
(私も守るんだ。みんなを。そして、カイルさんを)
街のざわめき、混乱する人々の声、漂う黒炎。目に映る光景が私の心を締めつける。だが、ためらいはない。全ての風が、私の背中を押してくれた。
大聖堂の近くに降り立つと、禍々しさがさらに肌を刺す。崩壊した大聖堂は、痛々しい姿を晒していた。
入口を封鎖していた魔道士団員に慌てて静止される。
「危険です! 中には入れません!!」
私は地面すれすれから強く跳ね上がり、魔道士たちの頭上を飛び越えて、大聖堂の内部へと駆け込んでいった。
内部へと足を踏み入れた瞬間、肌を焼くような魔力の奔流に、ちりちりと全身が痛む。焼けるような痛みが首筋から腕へ、そして足先まで一気に広がる。呼吸すらままならないほどの重圧。
かつて荘厳だった礼拝堂は、すでに廃墟と化していた。壁は崩れ、天井は半ば落ち、中央には巨大な穴。そこから溢れ出す異様な魔力が、空間そのものを歪ませている。
視界の奥に、大きく展開された魔法陣が見えた。十数人の魔道士が汗をにじませながら魔力を注ぎ込み、練り上げられた魔法陣が眩い白光を放っていた。
その中に、カイルさんの背中があった。
高い壁のように頼もしい背中。緊張と決意をまとった姿。ただそれを見るだけで胸が熱くなった。
(ああ……よかった。間に合った)
風が私を包む。そのまま彼に駆け寄ろうとした瞬間、カイルさんが振り向き、驚愕に目を見開いた。彼の瞳は、強い動揺と焦りに満ちていた。
「ユイ! なぜここに来た!!」
カイルさんが絞り出すような声で叫んだ。その横を通り過ぎるまさにその瞬間。
私は、彼に向けて満面の笑みで想いを伝えた。
「カイルさんのことが、大好きです」
それだけを告げ、迷いなく古龍が蠢く巨大な穴へと飛び込んだ。
私の背後からは、驚きと絶望が入り混じったような叫び声が聞こえた。
風がうねり、魔力が皮膚を焼く。髪が逆立ち、鼓膜を揺らすほどの波動が耳を貫く。
そのすべてを押し流すように魔力を編み上げ、ただひたすらに集中する。
この身がどうなってもいい。そう思えるほどの強い想いが、胸の奥を熱く満たしていく。
カイルさんが守ろうとした王都を、みんなを、そして彼自身を守るために。
穴の底では劫炎獄龍が巨大な頭をゆっくりと持ち上げた。腐臭混じりの禍々しい息を吐き、その黒紫の魔力は空気そのものを腐らせるように蠢く。
その膨大な魔力に抗うように、私は全霊を込めて魔力を練り上げた。
手から、胸から、背中から、柔らかなピンク色の魔力が、まるで命の輝きのように溢れ出す。温かいのに鋭く、優しいのに強烈で、涙が出そうになるほどの感情をまとっている。
侯爵家の魔導書に記されていた、最強の対魔力術式を反芻する。
それは《虚無領域》の上位互換。
虚無領域は「魔力の仕組み」を消し去る概念破壊の魔法。だがその上位の術式は、そのさらに上をゆく。
魔力、時間、空間。それらを全て「定義される前の世界」へと引き戻し、存在した痕跡そのものを原初へ還す、世界の理に干渉する神域と呼ばれる領域の魔法。
(今の私なら……絶対にできる)
胸の奥に灯った、あまりにも強く、あまりにも暖かい感情。
想いが、魔力の核へとまっすぐに注ぎ込まれていく。
涙が溢れそうなほどの気持ちが、魔力となって両手に宿った。
「……届け、私の想い」
私は静かに目を閉じ、全身の魔力、命の輝きを、一つの呪文に込めた。
『全ての起源たる虚無よ、現世の理を反転させよ──
《原初虚無・起源還元》』
呪文が響いた瞬間──
世界が揺れた。
凄まじい魔力が身体から放射状に解き放たれ、ピンク色の光は瞬く間に黒紫の瘴気を飲み込み、押しつぶし、消し去っていく。
光は古龍の巨大な身体を包み込み、存在そのものを逆再生するように分解し始めた。
黒曜石の鱗はひび割れて消え、腐敗した皮膚は剥離し、肥大化した魔力の核は音もなく崩壊する。
巨大な存在が、音もなく、光の粒となって霧散していく。まるで世界から「存在の記録」が剥がれていくように。
一秒、二秒と、世界が止まったかのような静寂が訪れ、そして──劫炎獄龍は、最初からこの世に存在しなかったかのように、跡形もなく消え去った。
禍々しかった魔力が完全に消えた瞬間、張り詰めていた痛みも、肌を刺す圧も溶けていく。
ただ、静かな解放感だけが全身を掛け巡った。
(……成功、したんだ)
わずかに穴の上を見上げると、崩れた礼拝堂の縁から魔道士たちの歓喜の声が聞こえた気がする。その声は震えていて、涙のようにも、笑い声のようにも聞こえた。
でも、私の身体は──動かない。
全身の魔力を使い果たした身体は重力に引かれ、ずるりと下へ落ちていく。着地のための余力は残っていなかった。
けれど、なぜだろう。心は不思議なほど穏やかで。成功したことが嬉しくて。迫る地面への恐怖すら、もう感じなかった。私は安堵の笑みを浮かべつつ、静かに目を閉じた。
だが、地面に叩きつけられる衝撃は、いつまでも来なかった。
その代わりに、私の身体は暖かくふわりとした感触に包まれた。重い瞼を少しだけ開く。
そこには、今にも泣き出しそうなカイルさんの顔があった。
私の身体を震える腕で支えながら、その青い瞳は嵐のように揺れている。成功したことを喜んでくれると思ったのに、なぜ彼は泣いているのだろうか。
──どうして泣いてるの?
そう聞きたかったのに、声が出ない。
彼に問いかけることもできず、私の意識は暖かな腕の中で、深い闇の中へと沈んでいった。
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