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番外編
黒瀬隼という深淵
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俺は、栄えある神奈川県選抜チームのコーチ──小早川太蔵。
まだ若輩の三十代前半。胃痛に悩む胃弱体質の、しがない体育教員だ。
公開練習を見守りながら、キャベジンの瓶にそっと触れた。
――やりたくない。
くそっ、こんな責任背負いたくなかった……!
俺が選抜コーチになった理由は単純。
強豪校の“副コーチ”だから。
と言っても、実際に強豪たらしめているのは監督の指導力で、
俺は雑務と責任だけ押し付けられる、いわば罰ゲーム要員だ。
朝から晩まで、週末返上、休みゼロのブラック勤務。
しかも、選抜コーチに選ばれた監督は仕事を丸投げし、夏休みまで丸々返上。
ブラック過ぎねえか……!?!?
「先生」
「……何だ?」
練習を抜け、俺の前に現れたのは、
“氷のエース”の異名を持つ黒瀬隼だった。
俺は反射でキャベジンを握りしめた。
「これ……届けに行ってきます」
差し出されたのは、見覚えのない学生の定期入れ。
――いやいや、定期を落としたら普通は戻ってくるだろ。
っつーか、今は公開練習の真っ最中じゃねえか。
「ダメだ」
その瞬間。
黒瀬の瞳から、すうっと光が消えた。
俺の意識が、瞳の奥の底なしの暗闇に引きずりこまれる。
冷たく、音もなく、落ちていく。
ドクン――心臓が跳ねた。
「先生……ひとつだけ、お伝えしたくて」
闇の中で、声だけが落ちてくる。
「今日、一人の少年が定期入れを落として、困っていました。普段は電子マネーで移動する子で……だから定期入れが唯一の手段でした。歩いて帰れると思ったその子は、箱根の峠に入っていきました」
黒瀬の声が、どんどん静かに沈んでいく。
その声とともに、落下がいっそう加速する。
胃が浮く。
空気がうすくなる。
「でも。夜になっても帰ってきませんでした。次の日も……また次の日も」
「……やめろ」
「警察は“大人の判断ミス”を疑います。少年の命を左右できた、大人。助けられたはずの少年を、見捨てたあなたを」
「俺は……そんなつもりは……!」
「三日後、湖のそばで──遺体となって見つかります」
ひゅっと喉が締まり、息ができない。
嫌な汗が背中をつたう。
「抵抗した跡。事件性が高い、と判断されます。そして世間は、あなたを……責め立てます」
「やめ……やめてくれ……!」
「家族も離れます。学校からも処分され……人生は、崩壊します」
ズン、と底に着いたような感覚。
もう……絶望しかなかった。
その時――
その底が俺を呑みこんでいく。
まるで生きたまま地の奥へと引きずりこむように。
身体を動かそうとしても……指一本、動かせない――
「数年後……あなたは、湖の水際で浮かんでいるのが見つかります。ポケットには、たったの数円だけ。殺されたのか……自ら水に沈んだのか……」
「……っ」
「でも……今なら間に合います」
黒瀬の瞳に、
ほんのわずかに光が戻った。
それだけで暗闇がふっと消える。
肺に空気が流れ込み、凍っていた神経が戻っていく。
助かった……のか?
「行って、いいですね?」
震える足を叱咤し、立ち上がる。
「……行け……! ……絶対に……絶対に救ってくれ!」
俺は少年を助けてほしかったのか、それとも……自分自身を救ってほしかったのか。
黒瀬はざわつく会場から立ち去った。
あいつが見えなくなった瞬間、
俺は椅子に崩れ落ちた。
震える手でキャベジンを取り出し、ひと粒噛みくだく。
口にくもる苦味を押し流すように、ふぅーっと息を吐いた。
……あいつ、あんなに喋れたんだな。
まだ若輩の三十代前半。胃痛に悩む胃弱体質の、しがない体育教員だ。
公開練習を見守りながら、キャベジンの瓶にそっと触れた。
――やりたくない。
くそっ、こんな責任背負いたくなかった……!
俺が選抜コーチになった理由は単純。
強豪校の“副コーチ”だから。
と言っても、実際に強豪たらしめているのは監督の指導力で、
俺は雑務と責任だけ押し付けられる、いわば罰ゲーム要員だ。
朝から晩まで、週末返上、休みゼロのブラック勤務。
しかも、選抜コーチに選ばれた監督は仕事を丸投げし、夏休みまで丸々返上。
ブラック過ぎねえか……!?!?
「先生」
「……何だ?」
練習を抜け、俺の前に現れたのは、
“氷のエース”の異名を持つ黒瀬隼だった。
俺は反射でキャベジンを握りしめた。
「これ……届けに行ってきます」
差し出されたのは、見覚えのない学生の定期入れ。
――いやいや、定期を落としたら普通は戻ってくるだろ。
っつーか、今は公開練習の真っ最中じゃねえか。
「ダメだ」
その瞬間。
黒瀬の瞳から、すうっと光が消えた。
俺の意識が、瞳の奥の底なしの暗闇に引きずりこまれる。
冷たく、音もなく、落ちていく。
ドクン――心臓が跳ねた。
「先生……ひとつだけ、お伝えしたくて」
闇の中で、声だけが落ちてくる。
「今日、一人の少年が定期入れを落として、困っていました。普段は電子マネーで移動する子で……だから定期入れが唯一の手段でした。歩いて帰れると思ったその子は、箱根の峠に入っていきました」
黒瀬の声が、どんどん静かに沈んでいく。
その声とともに、落下がいっそう加速する。
胃が浮く。
空気がうすくなる。
「でも。夜になっても帰ってきませんでした。次の日も……また次の日も」
「……やめろ」
「警察は“大人の判断ミス”を疑います。少年の命を左右できた、大人。助けられたはずの少年を、見捨てたあなたを」
「俺は……そんなつもりは……!」
「三日後、湖のそばで──遺体となって見つかります」
ひゅっと喉が締まり、息ができない。
嫌な汗が背中をつたう。
「抵抗した跡。事件性が高い、と判断されます。そして世間は、あなたを……責め立てます」
「やめ……やめてくれ……!」
「家族も離れます。学校からも処分され……人生は、崩壊します」
ズン、と底に着いたような感覚。
もう……絶望しかなかった。
その時――
その底が俺を呑みこんでいく。
まるで生きたまま地の奥へと引きずりこむように。
身体を動かそうとしても……指一本、動かせない――
「数年後……あなたは、湖の水際で浮かんでいるのが見つかります。ポケットには、たったの数円だけ。殺されたのか……自ら水に沈んだのか……」
「……っ」
「でも……今なら間に合います」
黒瀬の瞳に、
ほんのわずかに光が戻った。
それだけで暗闇がふっと消える。
肺に空気が流れ込み、凍っていた神経が戻っていく。
助かった……のか?
「行って、いいですね?」
震える足を叱咤し、立ち上がる。
「……行け……! ……絶対に……絶対に救ってくれ!」
俺は少年を助けてほしかったのか、それとも……自分自身を救ってほしかったのか。
黒瀬はざわつく会場から立ち去った。
あいつが見えなくなった瞬間、
俺は椅子に崩れ落ちた。
震える手でキャベジンを取り出し、ひと粒噛みくだく。
口にくもる苦味を押し流すように、ふぅーっと息を吐いた。
……あいつ、あんなに喋れたんだな。
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