ちゃんちゃら

「ちゃんちゃら」58話

「ちゃんちゃら」58話


「車で送って行こうか？」
「大原さんにも言ったけど、大丈夫だって」
　海斗はそう言って別荘の玄関を出る。大地は玄関の床に立ち、心配の眼差しでこちらを見ていた。すぐ横を見ると大原も全く同じ顔をしていたので、海斗は笑みを浮かべながら玄関のドアを閉めた。

　海斗は自動車の運転免許を持っていなかったので、大地より早く家を出て、バスで通勤をする。お金が入ったら免許を取得してみようかな、と考えながらバス停でバスを待つ。通勤の時間なので、サラリーマンや学生など色んな人がバスの中へ入り込んで行く。座る場所が無かったので、海斗は手すりに捕まりながら立っていると、一人の妊婦がバスの中に入ってくる。というのも、彼女はマタニティマークを鞄から下げていたからだ。彼女が満員の中、堂々と優先席に座る様子を海斗は物憂げな表情で眺めていた。海斗は無意識に下腹部を撫でる。周りの人は海斗が腹痛に見舞われているのではないかと怪訝そうな目で見てくるところで、最寄駅の車内アナウンスが流れた。海斗は我に返り、自然と下腹部から手を離し、降車ボタンを押した。

　バスから降りて少し歩くと、自分が面接をした工場が見えてくる。段々と鼻周りに油の臭いが漂ってきた。ショルダーバッグを掛け直し、海斗は工場の正門を潜っていった。
　受付を通り、作業着を人事の人から貰って、ロッカーで着替える。ロッカーに取り付けてある小さな鏡で自分の顔を確認してからロッカー室を出ると、一人のふくよかな男が汗をハンカチで拭きながら立っていた。
「えぇと、浜田海斗くん？」
　海斗は頭を下げる。すると、ホッとしたようにハンカチを仕舞って、こちらへ大きな身体を揺らしながら男が寄ってくる。
「見学でチラッと見たんだけど、自信なくて。品質保証部の土中です。えぇ、班長やってます。よろしくね。」
　そう汗を拭きながら話す男は、面接に合格した後の工場見学で見かけた顔だった。恐らくこの人が自分の上司となる男だろうと海斗は察した。

　土中が懸命に海斗の歩幅に合わせながら案内しようとするので、海斗は少しゆっくり歩いた。海斗がこれから検品する部品を製造している工場を通り過ぎ、隣の建物の扉を土中は「よっこいせ」と口に出しながら開ける。
　中を覗くと非常に小ぢんまりしていて、数人の人間がコンテナに入った部品を眺めたり、何やら測っている様子だった。海斗が見入っていると、土中が軽く手を叩く。
「あー皆さん、この間、言っていた新人の子が来たので、紹介しますよー。こっちに集まってー。」

　検査していた人間はたったの三人で、一人だけ勢いよくこちらへ歩いてくる。残りの二人は気怠そうにのろのろと数秒遅れてこちらへやってきた。
　土中が海斗を紹介しようとしたが、その前に一番乗りでやってきた若い女性が手を上げながら名乗り出る。
「私、水城と申します！私もここへ来たばかりなんです。一緒に頑張りましょう。」とニコニコ笑いながら海斗に握手を求めてくる。その勢いに若干仰け反りながらも海斗は彼女の手を握る。大体自分と同じ歳くらいで笑顔が似合うところは、まるで雫のようだった。
　土中は面食らいながらもようやく自分のペースで話せそうだと一回咳払いをして一人の男を掌で差す。
「こちらは流川くん。」
　流川という男は前髪が長く、目が悪いのか、分厚い眼鏡をかけて俯いている。名前を呼ばれると、彼は俯いたまま頭を下げた。流川の態度に土中は渋い顔をしたが、すぐに隣の金髪の女性に掌を移す。
「こちらが池田さん。ここの中では一番長くいる先輩だよ。養成も彼女から教わってね。」
　明るく努めようと話す土中とは打って変わって池田という先輩はこちらを見もせず、ずっと自分の爪を眺めている。爪はこちらからでも分かるくらい黒いネイルがギラギラ光っていて、それに加え長かった。それを見た土中は慌てて「ちょっと！」と声を掛ける。
「困るよ、池田さん。つけ爪は危ないからやめてって言ってるのにー」
　しかし、池田は全く気にする素振りすら見せず、空返事をする。
「はーい。」
　そして、ついに海斗の番になったらしく、土中が海斗の名前を呼ぶ。海斗は小さな声で「よろしくお願いします。」と言ったが、水城以外は皆海斗に興味など全く無い様子だった。