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第二部 エスペローサ編 第一章 虜囚
9 食膳(2)
しおりを挟む次に目が覚めると、また違う部屋に移されていた。
明るく華やかな広々とした部屋だった。
調度も、先ほどの「禁錮の間」とは雲泥の差である。天蓋付きの寝台に凝った彫刻をあしらった文机と椅子。楕円の鏡のはめ込まれた鏡台に広いテーブル、柔らかそうなソファ。
華麗な刺繍のカーテンが揺れている窓辺には、人の背丈ほどもありそうな大きな竪琴が置いてある。こちらもとても優美なデザインだった。
「ここ、どこ……」
またしても、同じ台詞を言う羽目になる。
なんだか全体的にトロイヤードの「正妃の間」を彷彿とさせる設えで、シュウは嫌な予感がした。
まさかここには、あの「お可愛いらしいですわ!」連発の女官たちはいないだろうけれども。
それにしても。
「おなか、すいたなあ……」
すきっ腹に手をあてて、シュウはぼふっともう一度寝台に倒れこんだ。
よく考えてみると、拉致されてからこっちまともな食事をしていない。あのエスカルド山脈を越えてトゥラーム兵に運ばれたとき、苦い水のようなものを何度か口にはさせられたが、自分で食事をしたことは一度もない。あれが一体なんなのかは分からないが、食事代わりになる効能でもあるのに違いない。
違いないけれども。
「おなかが一杯になるわけじゃ、ないもんね……」
と、シュウが溜め息をついた時。
軽く扉を叩く音がして、あの幽鬼のような女官の一人がするりと部屋に入ってきた。無言のままで一礼し、寝台上でも食べられるようになのか、シュウの前に料理の載った座卓のような膳を差し出してくる。
(うわ……)
それは見るからに豪華な食事だった。一般の国民たちには一生口にすることができないであろう山海の珍味がところ狭しと盛られている。その皿がまた、どれも凝った草花の紋様で華やかに彩られていた。
トロイヤード王宮での食事はもちろん、貧しい村とは比べ物にならないほど良かった。けれども、だからといってここまで贅沢なものではなかった。質実剛健を旨とするあの王宮で、それはむしろ恥ずべきこととさえ考えられていたように思う。
国民がまだまだ貧しい中、王侯貴族ばかりが贅沢をするなど愚の骨頂。君主の風上にも置けぬ。あの王朝には、そうした思想が貫かれていた。
……ともあれ。
「い、いただきます……」
ほかほかと湯気をたてるおいしそうな料理を前に、空腹の絶頂にいるシュウがそれを我慢するのは無理な相談だった。まだまだ食べ盛りの年齢でもある。
添えられた匙を手にして、まずは手始めにそっとスープを一口飲もうとした、その時。
荒々しく扉が開いて、冷たい一陣の風が飛び込んできた。
「食べるな! シュウ!」
シュウがはっとする間もなく、目の前の料理が膳ごと弾き飛ばされた。それらはすべて宙に舞って寝台の脇に散らばり、美しい絨毯に染みを作った。
ナリウスだった。
珍しく息を切らしている。美しい銀髪が少し乱れていた。
「ナ……ナリウス様……?」
匙を手に持ったまま呆然としているシュウと目が合うと、ナリウスはその匙をも奪い取って床に投げつけた。それをまるで汚らわしいものでも見るように睨みつけ、すぐさま振り向くと自分についてきた兵に命じる。
「その女を捕らえよ!」
料理を運んできた女官はあっという間に両側から二人の兵士に捕らえられ、無言のままに部屋の外に引きずっていかれた。
その場に残った兵士に向かい、ナリウスは冷たい瞳のまま言った。
「地下牢で厳しく詮議させよ」
氷の嵐が吹き荒ぶかのような冷厳な声だった。
「死ななければ、何をしてもいい。必ず黒幕を突き止めよ!」
兵士が深々と頭を下げて出てゆくと、やっとナリウスはシュウを見た。
その氷の瞳には、言い知れない闇が渦巻いているように見えた。
「あ、あの……」
「毒だ。シュウ」
ナリウスが吐き捨てるように言う。
(え……?)
シュウは耳を疑った。
「迂闊だぞ。毒見もされていないものに安易に手をつけるなど。……気をつけよ」
ナリウスはなぜか本当に怒り、また心配しているようにすら見えた。言葉遣いがいつもの柔らかさを失っている。
「あ……の、本当に……?」
それでもシュウはまだ信じられなかった。
ナリウスはシュウの瞳を真っ直ぐ見据えて、一度だけ頷いた。その瞳の色を見る限り、冗談などではありえなかった。
(毒……? 誰かが、僕を殺そうとしたっていうこと……?)
だれが、いったい、何のために……?
促々と静かな恐怖が背中を這い上がってくる。
ここはやはり、あのエスペローサの王宮なのだ。
ナリウスはそれ以上のことは何も言わず、すぐに話題を変えた。
「妹が呼んでいる。君に、礼が言いたいそうだ」
ということは妹姫は、あれからだいぶ回復したのだろう。治療の途中で気を失ってしまったので、そうと分かってシュウはほっとした。
「何か、感謝の品も贈りたいと言っているが──」
「あ……いえ、そんなことは──」
「必要ないです」と言いかけた時。
きゅるるるる、とシュウのお腹が盛大に鳴った。
「…………」
ナリウスの目が丸くなる。
(……!)
シュウは瞬時に耳まで真っ赤になった。
「あっ、え、えっと……これはっ……!」
意味なく腹部を押さえてみたりするが、完全に聞かれてしまったのは明白だった。
ナリウスはしばしシュウを眺めて固まっていたが。
ぷっ、と噴き出すささやかな音が聞こえて、シュウは驚いた。
──ナリウスが、笑っている!
白い手袋をした片手を口元にあてて、シュウから顔を背けてはいるが。
なんだか信じられない光景を目にしている気がして、シュウはじっとその横顔を見つめてしまった。
彼が笑うと、強固だった氷の仮面が解けたようになって、なんとも華やかで美しかった。まさに、花の顔である。
見ていると、なんだかシュウも嬉しくなった。
「良かったですね、ナリウス様」自然にそんな言葉が出た。
「……え?」
ナリウスは早くも元の固い表情に戻ってしまって、シュウを見返した。
「ナリウス様が、妹さんとまたそうやって笑えるようになって……良かったです」シュウは、にっこり笑って心から言った。「あ、もちろん僕が途中で気絶しちゃったので……。もう少し治療が必要なんですけどね?」
「すみません」と頭を下げるシュウを、ナリウスは少しのあいだ不思議な物でも見るような顔をして見つめていた。
やがてシュウの手を取り、寝台から降りるのに手を貸してからナリウスが言った。
「ともかく、食事にしよう。そなたの腹の虫も、アイリスも、どうやら待ってはくれぬらしいからな」
いつのまにか、シュウを呼ぶその言葉が「君」から「そなた」に変わったことに、シュウはまったく気がつかなかった。
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