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第二部 エスペローサ編 第一章 虜囚
12 アイリス
しおりを挟む翌朝。
部屋に運ばれた「お毒見済み」の朝食をとった後、シュウはエスペローサ風の衣服に着替えた。
昨夜ほどの正装ではないが、水色の地に、袖口と襟元および前たてに金糸で刺繍の縁飾りを施した爽やかなデザインの上衣である。そこに白いマントを流し、白いキュロットと黒い長靴を履くのは昨夜と同じだ。
シュウが自分で選ぶわけではないが、この王宮の物静かな女官たちが手際よく選んでは着せつけ、なんと髪まで整えてくれる。
一応、これでも囚人であるはずなのだが、この扱いの丁寧さはなんなのだろう。
ともあれその姿で、シュウは監視兵二人とともにアイリスの部屋に向かった。
一日ゆっくり休めば、大抵は体力も戻り、手の能力も回復する。
それでも、アイリスの身体を蝕んでいる病魔はなかなか手強いもののようで、シュウは今日だけではまだ完治には至らないだろうと踏んでいた。
……それにしても。
(昨夜のあれって……)
歩きながらも、考えてしまう。
昨夜のナリウスとの一件については、シュウもあれこれと思うところがないではなかった。だが、なにしろ相手があの謎めいた美貌の王であるため、一旦考えるのを放棄していたのだ。
たとえ思い切って本人に理由を聞いてみたところで、「ちょっとした気まぐれ」だの「他意のない悪戯」だのといくらでもはぐらかされてしまいそうだったし、なによりシュウ自身、それをはっきりさせてしまうことに、ある種の怖さも感じたからである。
◇
後宮に入る少し手前の広間の前で、シュウは見るからに身分の高そうな男たちに行きあった。文官であるらしく、豪華な刺繍飾りのついた長めの長衣に身を包んでいる。どうやら、宰相だとか国務大臣だとかいった身分の者たちであるようだった。
一人は眼光の鋭い太った中年男だ。髪も眉も黒々として、それが油で撫で付けたようにてらてらと光っていた。もう一人はごま塩頭の初老の男で、逆に針金のように痩せており、雰囲気からも凍った鉄棒のような感じを受けた。
二人はシュウの姿に気付くと、いかにも不躾な視線でじろじろとシュウの体を舐めるように見回した。そのくせ、二人ともさも「汚らわしいものを見た」といった風で、持っていた扇で口を覆い、眉を顰め、こそこそと何事かを囁き合っている。
シュウは一瞬その異様な雰囲気に呑まれそうになったものの、何もしないで通り過ぎるわけにもいかず、彼らの近くで一礼をした。
「……ふん」
あからさまに蔑んだように鼻を鳴らして、黒髪の男が踵を返した。ごま塩頭の方もそれに続く。
二人の姿を見送って、シュウはヴォダリウスを思い出していた。
初めのうちこそ、警戒心から厳しい視線で見つめられ、少し怖い人かと思った。しかし、かのトロイヤードの宰相閣下は、優しく、温かく、慈愛と知恵とに満ち溢れていた。そして、自分のことを「爺と呼べ」とまで言うほどに、シュウのことを可愛がってくれた。
聡明でありながらもそのことを鼻に掛ける風は微塵もなく、飄々と、軽々と、その老年期を謳歌しているようにさえ見えた。
あの老人が、シュウは今、ひどく懐かしかった。
(会いたい……な。ヴォダリウス様……)
少しだけ足を止めて考えたが、気を取り直し、またシュウは歩き出した。
◇
「シュウ様のお越しである。アイリス殿下へお取次ぎを」
監視兵の一人がそう告げると、アイリスの部屋の前に立つ女官が礼をして、一旦部屋に入った。
(……ん?)
気のせいだろうか。ほんの一瞬、室内から少し慌てたような、さざめく女声が聞こえたようだ。が、まもなく扉が開かれた。
シュウはすぐに室内へ足を踏み入れ、アイリスに一礼した。
「おはようございます、殿下。今朝のお加減はいかがですか?」
寝台の上のアイリスは、薄桃色の寝巻き姿のうえに可憐な白いガウンを羽織っていたが、頬を真っ赤にさせてこちらを見た。
「おはようございます、シュウ様。朝早くから、わざわざご足労をお掛けいたしました。どうぞよろしくお願い致します……」
少し緊張したような声で挨拶が返ってくる。
室内は昨日とは一転していた。今では分厚いカーテンは引き開けられ、窓も開かれて、ずいぶん明るい雰囲気になっている。昨日は気づかなかったが、窓辺にはシュウの部屋と同様に、大きな床置きの竪琴が置いてある。
シュウは室内を軽く見回して、戸惑った。
「えっと……。ナリウス様は、まだでしょうか?」
「あ、はい」
ナリウス不在のまま勝手にアイリスの身体に触れるのは、いかにもまずいように思われた。そしてそれは、恐らく間違いではない。相手は未婚の女性なのだ。ましてやこの国の王族である。それも、あの国王の最愛の妹君──。
「急ぎの書類が届いたとかで、少し時間がかかるそうです」アイリスがひどく申し訳なさそうに言った。
「そうですか……困りましたね」シュウは苦笑して、女官に勧められたソファに座った。
アイリスは寝台の上で何かいろいろと考えあぐねるようにしていたが、やがてぎゅっと両手を握り合わせてようやく言った。
「シュウ様? あの……申し訳ないことを致しました」そして、深々と頭を下げた。
「え?」シュウは意外な言葉に目を丸くした。
「他の者たちから聞きました。わたくしのために、本当に色々と……兄が、貴方さまと……他の方々にも、むごいことを──」
「ああ……」
この姫は、こんな病み上がりの身で、そのことに胸を痛めているのだ。さきほどからずっと、気の毒なほど申し訳なさそうに項垂れている。
この件について、当人に直接の責任はない。とはいえ、彼女自身が一連の事態の紛れもない原因ではあるので、そう考えるのも無理はない。実際、このことですでに何十人、いや、ことによると何百人もの命が失われ、ほかでもないトロイヤードの国王が、この城の地下牢に収監されるという事態を招いているのだ。
しかし。
「どうぞ、私のことはお気になさらないでください。何も、殿下のせいではありませんよ」
自身もただの囚人であるシュウとしては、そう言って微笑むぐらいのことしかできない。
「兄上様も、殿下をご心配のあまりになさったことでしょう。それだけ、殿下がお大事なのです」
が、アイリスはきゅっと唇を噛んでシュウを見返した。「……ちがいますわ、シュウ様」
「え?」
見れば、アイリスが悲しげに俯いている。
「兄上が大事なのは……わたくしではありません」
きっぱりと言われて、呆気に取られた。
(それって、どういう……?)
と思う間に、アイリスの目にあっというまに涙が溢れた。それが見る間に、ぽろぽろと零れ始める。
「で、殿下……!?」
シュウは慌てて立ち上がった。いったい、何がどうしたというのだろう。
周囲の女官たちもひどく慌てて、両手で顔を覆ってしまった彼女に手巾など差し出しては、あれこれと宥める言葉を掛け始めた。
しかし、ここで男のシュウが彼女の肩を抱いて慰めに入るわけにも行かない。
だからといって、ここでこうしてぼうっと立っているだけなのも、なんだか申し訳ない気がした。
(うーん……どうしたら……)
困って、仕方なく周囲を見回す。
と、あるものに目が留まった。
(そうだ──)
シュウは、そのままさりげなく窓辺のほうへと歩いていった。
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