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第二部 エスペローサ編 第一章 虜囚
13 ナリウス
しおりを挟む午前中に急に入った仕事を片付け、ちょっとした指示を臣下に与えてから、アイリスの部屋に至る廊下を急ぎ足に向かっていると、微かに竪琴の音色が聞こえてきた。
(……だれが?)
思ったのは、まずそのことだった。
この静かな城の中で、そんな音が聞こえるのは本当に久しぶりだった。
ナリウスはかすかに首をかしげ、歩きながらもそれに耳を傾けていたが、やがてそれが他ならぬアイリスの部屋から聞こえることに気がついて驚いた。
母が亡くなって以来、彼女がそれに触れたことはない。
また、聞こえてくる旋律も、幼少から聞き知ったものとは異なっている。
どこか物悲しい、しかし懐かしくも美しい旋律だった。
時おり聞こえる歌声も、アイリスのそれではなかった。
国王の姿を認めて扉を開こうとする女官を片手で制し、ナリウスは少しだけ開いた扉の隙間から中を窺った。
──そして、目を奪われた。
貴人が、窓辺で竪琴を弾いている。
金色の髪がさらさらと朝の日の光をうけて輝いていた。
翡翠の瞳はその手元に視線を落とし、長い睫が伏せられている。
薄い水色の上衣も純白のマントも、美しく整ったその横顔も、なにもかもが一幅の絵の中で完璧に融合している。
何人も、その世界を穢すことは許されないかのようだった。
ナリウスは、気付かれぬようにそっと扉を押し開け、中に入った。
が、それは気にするまでもないことだった。
部屋の中にいるアイリスも女官たちも、シュウに目と耳を奪われている。誰ひとり、ナリウスには気付かなかった。
しばし、穏やかな《旋律の時》が流れた。
やがて、曲が終わって貴人が目をあげ、ナリウスを見て目を丸くした。
「ナリウス様。いらっしゃっていたんですか?」
「人が悪い」と言わぬばかりの物言いに、ナリウスは少しだけ割りに合わない気持ちになる。あの演奏を途中で止められる者が、この世のどこにいるものか。
「これは、お兄様──!」
アイリスも女官たちも、あわてて一様に礼をしてきた。
「……演奏の邪魔を、したくなかったものでね」
シュウに向かって皮肉混じりに答えてから、ナリウスはにこやかにアイリスに向き直った。
「ご機嫌は麗しいようだね、アイリス。今朝の体調はいかがかな?」
「は、はい。シュウ様のお陰で、今朝は本当に気分がいいですわ、お兄様……」
なぜかしどろもどろになりながらアイリスが答えた。言葉のとおり、不思議なほどに顔色がいい。というよりも、少し良すぎる。つまり赤面しているのだ。
「……」ナリウスはちらりとシュウを見た。
「……はい?」
竪琴の隣でにこにこしながら、我が麗しの囚人は首をかしげている。
……何も分かっていない顔だ、あれは。
ナリウスは安心する。これほどの容姿をしていながら、この青年、こういうことには非常に疎いらしい。
(レド王もご苦労なことよ──)
心中で、ちょっと要らぬ心配をした。
この分でいくと、昨夜自分が彼にしてしまったことも、彼の中ではあまり深く考えられていない可能性が大である。
だがそれに、安心すべきか、落胆すべきか。
いまだに、なぜあんなことをしてしまったのか、自分自身にすら説明できずにいる。
「では、殿下」シュウがあらためてアイリスに申し出た。「ナリウス様もいらっしゃいましたし、今日の治療を始めましょうか?」
「いやです!」
突然アイリスが叫んで、一同が沈黙した。
「……えーと……はい?」
困った笑顔のまま青年が固まっている。見れば、アイリスは子供のように頬を膨らませてすっかりご機嫌斜めだった。
「ひどいですわ、シュウ様! わたくしのことを、いつまでも『殿下』、『殿下』と……! お兄様のことは、ずっと前からお名前でお呼びになっていらっしゃるのに……!」
ああ、そこなのか、問題は。
「お兄様とシュウ様が仲睦まじくていらっしゃるのはわかっています! でも、でも……!」
「……へ?」
シュウが完全に「意味不明」といった顔になる。「ここまでの一体どこのどの時点で、二人が『仲睦まじい』ことになったんだ?」と思っているのだろう、そうだろう。本当に分かりやすい奴だ。
などと考えていたら、シュウがきっとこちらを睨んだ。
「なにをニヤニヤなさっているんですか、ナリウス様? ちゃんと、妹君に説明してさしあげてください!」
突っかかってくる美貌の囚人のことはきれいに無視して、ナリウスはにっこりとアイリスに微笑んだ。
「その通りだよ、アイリス。なにしろ、昨夜はそなたも見ていたものね? 私が手ずから、気を失ったシュウ殿を部屋まで送り届けるのを──」
「な……?」
シュウが驚いて、ぴくりと身を引く。
それを目の端で確認してから、最後の駄目押しを言い放った。
「それも、花嫁を抱くやりかたでね?」
しばしの間。
「…………!!」
言葉の意味をやっと理解したらしく、彼の顔が一気に茹で上がる。
「な……っ、な……!」
その顔を、ナリウスはゆっくりと鑑賞した。
それを見て、アイリスはもちろん、いつもは蟻が這うほどの音もたてない女官たちまでがくすくすと楽しげな忍び笑いを漏らした。
……こんなことは、本当に久方ぶりだ。
彼の存在は、いまやこの城に射し込んだ一条の光だ。
彼の周りには、人が集まり、笑顔が集まる。
氷に閉ざされた城の中で、そこだけが春の陽だまりになる。
彼をあの国から奪うと決めた時には、まさかこんな事になるとは思いもよらなかった。
アイリスが死の床に就き、もはやすべての望みが絶たれたかに思われた時、かの国に忍ばせている間諜から、ある青年の不思議な噂を聞いたのが始まりだった。
トロイヤード宮の医務官には、不思議な力があるのだという。
彼が現れてからというもの、彼の働く医務棟では一人の死者も出なくなった。どんな瀕死の重傷者でも、彼が医務棟に現れた翌日には驚くべき回復をするのだという。理由はだれも知らなかった。
ただ分かっていたのは、彼がまだ若い青年で、体中に包帯を巻いた奇妙な姿であるということと、なぜかその国の若き王から、非常に丁重な扱いを受けているということだけだった。
自分は、アイリスが助かる縁となるなら、世界中のどこからでも、またどんなものでも取り寄せるつもりだった。
どんな一縷の望みでもいい。縋れるものなら縋りたかった。
が、その噂を聞くまでは、まさか人を掠め取ることになろうとは思わなかった。
それでも、作戦を立て、十分に準備し、実行に移した。
そのことに寸毫の迷いもなかった。
……そして、作戦は成功したのだ。
トロイヤードの現国王という、驚くべきおまけまで付けて。
(……だが)
まったく考えてもみなかった。連れてこられた当の青年に、これほど驚かされることになろうとは。
包帯の下にあったのは、まさに目を見張るような、清らかな美しい顔だった。
そして目を覚ましてみれば、彼は一見ただか弱いように見えながら、地下牢であれほどのことをして見せるほどの強い意志と、まっすぐな瞳を持っていた──。
あのことがなければ自分は、今でも彼をあの「禁錮の間」に閉じ込めて、思うさま彼の心も身体も痛めつけ、思うが侭にその手の能力を利用させてもらおうとしていたことだろう。
アイリスのため。自分のため。そして、王国のために。
そんなことしか考えていなかった。
今ではそんな己自身を、どこかで恥じてすらいる自分がいる。
(……欲が、出たか)
そうかも知れぬと思う。
それが何のための欲なのか、まだ自分でも判然とはしない。
しないが、このことだけは分かる。
もはや、この青年を手放したいとは思えない。
その手の力の、あるなしに関わらず──。
シュウがまだ少し赤い顔で、こほんとひとつ咳払いをした。
「では……『アイリス様』。あらためまして、今日の治療を始めましょうか?」
「はい! シュウ様」アイリスがにこにこして頷いた。
(しばらくは、退屈しないで済みそうだ……)
穏やかな朝の光の中で、ナリウスは一人、そんなことを考えていた。
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