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第二部 エスペローサ編 第一章 虜囚
11 抱擁(2)
しおりを挟む「ときに、シュウ」
「はい?」
食事が終わってアイリスを部屋に送り届けてから、突然ナリウスがシュウを呼んだ。シュウの私室へと抜ける、後宮の廊下である。背後には、少し離れて警護の兵が二人ついて歩いている。
「そなた、なぜ何も求めない?」
「……は?」
薄氷のようだった彼の瞳は、随分と穏やかな色になっている。ナリウスは言い足した。
「つまり……対価を」
「え?」シュウは首をかしげた。
「対価」。つまりは見返りのことだが、シュウには彼の言葉の意図がすぐには分からなかった。
「これほどのことをしておいて、代わりに何が欲しいとも、何をして欲しいとも、そなたからまだ一切聞いていないはずだが。……何か、思うところがあるなら言ってみよ」
「あー……」
なるほど、そういうことか。
「えっと……」シュウはちょっと苦笑し、自分の手のひらを見ながら言った。「この能力を使うとき、そういうものを貰ってはいけないと……母から、きつく教えられたので」
ナリウスが少し意外そうな顔をした。
「つまり、これを生業にはするなと? そなたの母君が」
「ええ、まあ……そうです」それは何故かと問うているナリウスの瞳を見て、シュウはまたちょっと考えた。「やってみたことがないのでわかりませんが……。多分、お金や物を貰ったりして治療をしようとすると、きっとうまく行かないんじゃないかと──」
ちなみに、トロイヤード王宮の医務棟で貰った給金は医務官としての通常業務に対して正当に支払われていたので、これに当たらなかったのだろうと思われる。
「…………」ナリウスが顎に手をやり、少し考える風に沈黙した。「『心から、助けたいと思わなければ救えない』──。そなたの想い人の言葉だったな」
シュウはちょっと赤くなった。
「想い人」。
面と向かって言われると、なんだか気恥ずかしい単語である。
「そういうことか。なるほど理解した。……しかし」ナリウスは少し言葉を切った。「こちらから、飽くまでも感謝の一環として何かを返すのは許されよう。そなたがいま望むことは何だ? なんなりと言って欲しい。それだけのことを、そなたは私たちにしてくれたのだから」
シュウはその言葉を聞くや否や立ち止まった。
それまでリズミカルに廊下にこだましていた靴音が、かつんと止まる。
そして、真っ直ぐにナリウスの瞳を見あげた。
「『地下牢のあの人の解放』。……それ以外は、何もいりません」
即答だった。
そして、途端に渋面になったナリウスを見てふわりと笑った。
「……無理ですよね? だから、いいんです──」
ナリウスが困ったような瞳でシュウを見返した。
「……無粋だったな。許して欲しい」
またしばらく歩いてから、ふと、シュウが思い出したように言った。
「それより……気になっていたんですけど」
「何だ?」
シュウは再び立ち止まり、じっとナリウスを見つめ返した。
「あのう……。気のせいかも知れませんが、最初にお会いした時と、随分その……話し方が──」
「ようやく気がついたのか」ナリウスが片頬を上げた。今では、彼にもこうした軽い微笑がすぐに出るようになっている。「気に入らないか? そなたが元に戻して欲しいというなら──」少し言葉を切る。
「いつでも戻してあげるよ? それが君の望みならね」
(なるほど。使い分けていらっしゃる、と──)
シュウはげんなりした。
本当に、いろいろと食えないお人である。
「どちらが好きだ?」
「うーん……」
重ねて問われて、考える。
シュウを「君」と呼ぶときのナリウスは、冷酷で、わがままで、どこか少年じみた幼さを感じさせた。そしてそこがある種の狂気をにおわせて、ひどく恐ろしくも思われた。
(やっぱり……)
「そうですね……。今のほうが、僕は好きです」
そのほうが、前よりも遥かに品があってずっと王様らしいと思う。それに、これはナリウスに言うわけには行かないが、ちょっとレドの話し方にも似ていた。
と、急にナリウスが静かになった。
(……?)
不思議に思って隣を見上げると、ナリウスが口元を片手で軽く覆うようにして立ち尽くしている。やや戸惑ったような顔にも見えた。
「…………」
長い沈黙。
(……ん?)
「あの……ナリウス様?」
声を掛けると、やっとナリウスが目を上げた。
「ああ……いや。なんでもない」
すでに、二人はシュウの部屋の前まで来ていた。
部屋の「護衛兵」が扉を開けた。もちろん、実態はシュウの監視兵である。
シュウはナリウスに一礼した。
「では、僕はこれで……。今日は、ご馳走様でした」
「ああ。明日も、アイリスをよろしく頼む」
「はい。おやすみなさい──」
……が。
シュウが部屋に入り、扉が閉まろうとしたその時。
ナリウスが扉の隙間からするりと入ってきたかと思うと、あっという間にシュウの身体を後ろから抱きしめた。
「……え!?」
項のあたりに顔を埋められ、シュウは動転して固まった。
あの、不思議な花の香りがする。
(な、なに……??)
が、すぐにその手は離れてゆき、シュウが振り向いた時にはもう、ナリウスは忽然と消えていた。
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