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侍から用事を頼まれた少年の話──『新著聞集』より
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先に大きな橋が見えてきた。
この大橋は当時の武蔵野国と上総国の両国をまたいでいため、両国橋とよばれていた。まだ子供といってもとおる権蔵には、ここを越えると江戸をでてしまうような気にさせられてしまう。だが、明暦の大火で亡くなった者を弔った回向院をとおりこしても、前を進む侍達が歩みをとめる気配はない。
このあたりは大火事のあとに埋め立てがすすみ、大小の旗本屋敷が整然と居並ぶ新たな武家地となって、まっすぐ続く黒塀、その向こうに見える赤松、木斛の木々が、騒がしい町人地とはことなる落ち着きを通りに醸している。
だがこの辺りに出入りしたことのない権蔵には、その静けさがかえって心をざわざわざせる。
──このどれかの屋敷だな。
心のうちでそうひとりごちて、もう侍達をふりきって逃げだそう、という馬鹿げた思いつきをなんとか押さえ込むのに必死となっている。
ところが両国橋を渡って、十町も武家地をまっすくに進み、いくつもの辻番所をとおりすぎたというのに、「さあ、ここだ、御苦労であったな」と二人の侍はいいださない。大きな堀が見えてきて、はじめて北向きに道を折れたが、それは橋をわたって、さらに東へと進むためであった。
「もう、すぐでございましょうか」
歩みをひとり止めて侍たちに呼びかけたために、前を歩いていた二人には、その権蔵の弱々しい声は、聞き逃してしまいそうなほど小さく聞こえた。ふり返った二人のまなざしに、それが通り一遍のものとはいえ、今までのような温かさはない。
馬面は無言で権蔵のもとにきて、銭を差出す。一分金が二枚。
だが、なんならこれまでに貰った銭の全部を返してもいいとすら考え出していた権蔵にはなにも響かない。たったこれだの仕事にここまでの大枚をはたく理由がさっばりわからず、もうこれ以上この人たちに関わるのは危ないという気持ちがかたまっている。
本所といっても、すでにここは武家の屋敷もまばらで、そのあいだに種まきを終えて踏まれるのを待っている麦畑が混じり込んでいる。これより先は、百姓たちが暮らしている村の景色がずらりひろがっていくのみで、あたりにいっさいの人のすがたは見えない。権蔵は人に悪さをする狐狸たちの跋扈(ばっこ)する江戸人外の地に足を踏み入れてしまっていた。
だが、この二人がキツネやタヌキであったなら、どれほど幸運であったろうかと、権蔵はのちに何度も考えることになる。
熊男は、馬面の差出した銭に権蔵がうつろにしか反応しかしないと分かると、馬面と権蔵を挟み撃ちするように寄っていった。するりと権蔵の背後から左右の脇に手を射し込み、両の腕(かいな)で権蔵を絞り上げた。痛みとあまりの力強さにおびえをなして、逃げだそうという権蔵の気持ちはしゅるしゅるとしぼんだ。
力なく熊男に抱えられている権蔵にむかって、馬面はどこからか持ち出した剃刀をひけらかした。それをみて、権蔵の眼は大きく見開かれ、熱にうかされたようにふるえだした。
「これ、震えるでない。手元がくるうではないか」
馬面はそういって、権蔵の前髪を掴むと、剃刀を手前にすべらせた。結わえられた髪の束が足下に落ちて、権蔵は涙がとまらす、ひくひくと泣き続けた。
馬面はそんな権蔵に対して馬面は
「黙れ、動くな」、と一喝して、頭をはりつけた。
「もっと、危ないぞ」
そういって、月代を剃り上げ、:髪だけは元服をすませた形に仕上げてしまった。権蔵は、そのときになって、褌が湿って、太ももの内側もべったりと濡れそぼっているのに気づいた。失禁していた。
みかけは大人にされてしまったのに、粗相してしまうと、情けないやら、恥ずかしいやらで、もうどうとでもしてくれという、投げやりな気持ちとなった。
そこから、男たちは権蔵を引っ立てるようにして、道を進み続けた。
この大橋は当時の武蔵野国と上総国の両国をまたいでいため、両国橋とよばれていた。まだ子供といってもとおる権蔵には、ここを越えると江戸をでてしまうような気にさせられてしまう。だが、明暦の大火で亡くなった者を弔った回向院をとおりこしても、前を進む侍達が歩みをとめる気配はない。
このあたりは大火事のあとに埋め立てがすすみ、大小の旗本屋敷が整然と居並ぶ新たな武家地となって、まっすぐ続く黒塀、その向こうに見える赤松、木斛の木々が、騒がしい町人地とはことなる落ち着きを通りに醸している。
だがこの辺りに出入りしたことのない権蔵には、その静けさがかえって心をざわざわざせる。
──このどれかの屋敷だな。
心のうちでそうひとりごちて、もう侍達をふりきって逃げだそう、という馬鹿げた思いつきをなんとか押さえ込むのに必死となっている。
ところが両国橋を渡って、十町も武家地をまっすくに進み、いくつもの辻番所をとおりすぎたというのに、「さあ、ここだ、御苦労であったな」と二人の侍はいいださない。大きな堀が見えてきて、はじめて北向きに道を折れたが、それは橋をわたって、さらに東へと進むためであった。
「もう、すぐでございましょうか」
歩みをひとり止めて侍たちに呼びかけたために、前を歩いていた二人には、その権蔵の弱々しい声は、聞き逃してしまいそうなほど小さく聞こえた。ふり返った二人のまなざしに、それが通り一遍のものとはいえ、今までのような温かさはない。
馬面は無言で権蔵のもとにきて、銭を差出す。一分金が二枚。
だが、なんならこれまでに貰った銭の全部を返してもいいとすら考え出していた権蔵にはなにも響かない。たったこれだの仕事にここまでの大枚をはたく理由がさっばりわからず、もうこれ以上この人たちに関わるのは危ないという気持ちがかたまっている。
本所といっても、すでにここは武家の屋敷もまばらで、そのあいだに種まきを終えて踏まれるのを待っている麦畑が混じり込んでいる。これより先は、百姓たちが暮らしている村の景色がずらりひろがっていくのみで、あたりにいっさいの人のすがたは見えない。権蔵は人に悪さをする狐狸たちの跋扈(ばっこ)する江戸人外の地に足を踏み入れてしまっていた。
だが、この二人がキツネやタヌキであったなら、どれほど幸運であったろうかと、権蔵はのちに何度も考えることになる。
熊男は、馬面の差出した銭に権蔵がうつろにしか反応しかしないと分かると、馬面と権蔵を挟み撃ちするように寄っていった。するりと権蔵の背後から左右の脇に手を射し込み、両の腕(かいな)で権蔵を絞り上げた。痛みとあまりの力強さにおびえをなして、逃げだそうという権蔵の気持ちはしゅるしゅるとしぼんだ。
力なく熊男に抱えられている権蔵にむかって、馬面はどこからか持ち出した剃刀をひけらかした。それをみて、権蔵の眼は大きく見開かれ、熱にうかされたようにふるえだした。
「これ、震えるでない。手元がくるうではないか」
馬面はそういって、権蔵の前髪を掴むと、剃刀を手前にすべらせた。結わえられた髪の束が足下に落ちて、権蔵は涙がとまらす、ひくひくと泣き続けた。
馬面はそんな権蔵に対して馬面は
「黙れ、動くな」、と一喝して、頭をはりつけた。
「もっと、危ないぞ」
そういって、月代を剃り上げ、:髪だけは元服をすませた形に仕上げてしまった。権蔵は、そのときになって、褌が湿って、太ももの内側もべったりと濡れそぼっているのに気づいた。失禁していた。
みかけは大人にされてしまったのに、粗相してしまうと、情けないやら、恥ずかしいやらで、もうどうとでもしてくれという、投げやりな気持ちとなった。
そこから、男たちは権蔵を引っ立てるようにして、道を進み続けた。
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