最後の女

蒲公英

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 帰宅したら、茜が寝ていた。
「おかえりー。今、ごはん出すー」
 だるそうに布団から這い出してきた茜は、顔が赤い。ついでにゴンベも這い出して来たのは、ご愛嬌である。
「なんだ? 具合悪いのか?」
「ちょっと熱っぽい……出来合いで、ごめん」
「計ったのか?」
「計ると、動けなくなるもん。寝てたから、ちょっとはマシ」
 確かに前日、軽く咳はしていた。
「いいから、熱計って寝てろ。メシくらい、自分で食うから」
 茜に体温計を押し付け、秀一はシャワーを浴びるために服を脱ぎ始める。多分、風呂の用意はしていないだろう。少々肌寒いが、ひとりの時は滅多に浴槽に漬かることもなかったので、別に問題はない。

 居間兼食堂に戻ると、茜は皿を並べていた。秀一の分しか出ていないので、本人に食べる意思がないことはわかる。
「何やってんだ、寝ろ。体温、何度あったんだ」
「……三十八度。だって今日、まだ秀さんと喋ってない……」
「一日の報告する小学生かっ! 寝ろっ! 襖開けといていいから!」
 寝室との境目の襖を開けて茜を布団に押し込み、秀一はもそもそと食事した。元来、早メシ早ナントカが芸のうちって性質の男だから、食事は早い。
「あ、今日って木曜? 連ドラ……」
「録画しといてやる! 寝ろ、バカ!」
 茜の布団に、ゴンベが潜り込んでいくのが見えた。

 隣の部屋から、軽い咳が聞こえる。コップ酒を用意しようと立ち上がった秀一は、その気配に耳を済ませる。骨組みは華奢でも意外に丈夫な茜は、出会ってから今まで寝込んだことなんてない。尤も、秀一も寝込むような風邪をひいたことなんてないから、家には止瀉薬と頭痛薬がある程度で、熱が出ても冷やす手立てもないのだ。
「寒い……秀さん、毛布もう一枚……」
 茜が布団の中から言う言葉に違和感を感じ、頭の中で反芻した。すでに掛け布団の下に毛布を足し、中に毛付湯たんぽ(ゴンベ)まで入っているのだ。
  寒い? これから熱が上がるのか? さっき、三十八度って言わなかったか?
 慌ててもう一枚毛布を出しながら、頭の中で夜間診療している病院を検索する。無縁の場所のデータは入っていないので、普段打ち捨ててある電話帳を開いた。
「頭、痛くないか」
「痛くない……でも、寒い。足とか手とか、寒い」
 これ以上、熱が上がる前触れだ。

 風邪だから大丈夫だと言い張る茜を着替えさせ、車のエンジンをかける。普段の倍の時間をかけて支度した茜は、ひざ掛け毛布持参だ。熱があるはずなのに、顔色が青い。足元がふらふらしているように見える。普段病人を見つけない秀一には、ちょっとうろたえるような状態である。救急病院まで一気に走って受付につくと、結構な混雑ぶりだ。受付でもう一度体温計を渡され、肩に毛布をかけた茜に付き添う。
 ピピ、と信号音が鳴り、体温を確認した茜から体温計を奪い取った。
「八度九分? しんどくないのか?」
 愚問である。しんどいから、病院に来たのだ。その間にも軽い咳は続き、二時間かけての夜間診療は治療までは行われない。ますますぐったりして震える茜を車に乗せ、解熱剤だけもらって帰る。

 感染っては困るからと別々の部屋で寝ることすら、秀一には不安だった。ゴンベはどこかに遊びに行ったらしく、帰宅するといなくなっていた。解熱剤で少々楽になった茜の寝息を確認して、秀一も眠りにつく。そんな高熱の出る風邪なんて、秀一は知らない。しかも、軽い咳以外は症状がないなんて、おかしいじゃないか。

 翌朝、茜を病院に連れて行くのだと会社に連絡を入れると、軽い笑い声が戻ってきた。
『わかりましたー。午後から現場直行って、連絡しときまーす。お大事にー』
 事務のお姉ちゃんの含み笑いの意味は、秀一にはわからない。

「マイコプラズマ肺炎ですね。抗生物質で治りますが、しばらく外に出ないで、家の中でもマスクしててね。お父さんに感染したら困るからね」
 診察室にまで入っていった秀一と茜を等分に見て、医師はそう言った。
「あと、ゴミ箱のティッシュの始末は、お父さんがしてはいけませんよ。娘さんご本人で」
「お……お父さん?」
 熱が安定して上気したままの顔の茜が、思わず聞き返す。
「違うんですか?」
「夫です!」
 その剣幕に驚いた医師が、秀一の顔をまじまじと見てから、茜と見較べて口を噤んだ。
「い、いや、診察室にまで一緒に来るなんて、ずいぶん心配性のお父さんだと……申し訳ありません」
 秀一の仏頂面は毎度のことだが、医師には怒っているように見えるらしい。ふたりが診察室を出るまで、しきりと恐縮して頭をぺこぺこ下げていた。

「仕事行ってくる。メシは買ってくるから、何もするな」
 冷蔵庫に口当たりの良い食品を詰め込み、秀一は安全靴の紐を締める。きつく言っておかないと、茜はまた家事をはじめそうな気がする。
「いいな? 何もしなくていいから、寝てろ」
 そう言い捨てて、玄関を閉めた。

 現場に入ると、ちょうど昼休みだった。仕事仲間たちの弁当を横目で見ながら、秀一もコンビニエンスストアのおにぎりのパッケージをむしる。
「三沢ちゃんが熱出して、慌てたんだって?」
「慌ててなんかねえよ、病院に連れてっただけだ」
「またまたあ。大人相手に、普通そんなことしないって。タクシーで行かせて、おしまい。歩けないほど高熱だったの?」
「いや、でも九度近く……」
 じゃ、ない。解熱剤で体温が下がった分、朝は動きやすそうだった。タクシーを呼べば、ひとりで病院の往復なら可能な程度に。
「平野さん、新婚だもんね。若妻が可愛くて仕方なくても……うわっ!なんでっ!」
「うるせえっ!」
 喋りすぎる年若い同僚にヘッドロックをかけ、締め上げた。

 そうだよ、茜が重大な病気だったらどうしようかって、昨晩から不安だったんだ。悪いか。
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