最後の女

蒲公英

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 熱が下がった後もしつこい咳が続き、茜は家の中でもマスクを着け続けなくてはならなかった。二週間も飲み続ける薬にうんざりしながら、アルバイトにも行けずに家の中にいる。つまらないとは思っても、接客メインのファーストフード店で、マスクをしているわけにはいかない。やけに疲れやすくなっているのは、まだ治癒しきっていない証拠である。
「キスしたいな……」
 飛沫感染だから、それはご法度だ。子供に多い病気だとはいえ、大人に感染しないわけじゃない。社内恋愛だったからこそ、秀一が体調を崩せば現場に支障があることも知っている。咳の続く苦しさを秀一に分けたいわけじゃない。だから茜は、マスクの下でこっそりと呟く。
「キスしたいんだもん」

 テレビを眺めている秀一の胡坐の中に、茜は腰を降ろす。
「邪魔だってば」
「指定席だもーん。うっかりしてると、ゴンベにとられちゃう」
 感染したら困るからと食事中も別の方向を向いているくせに、そこは譲れないらしい。時々、秀一の膝で寝ているゴンベを押しのけて、茜はその場所に座ってしまう。
「知り合いの家で、犬が猫にやきもち焼くとか言ってたな」
「犬じゃなくて、妻!」
「似たようなもんだ」
 子供でもできれば、茜もこうしてはいられない。今のうちだけだからな、なんて甘やかしている秀一も、悪い気分じゃないのだ。幸い筋肉質の秀一の太腿は、茜の体重くらいは平気で支えられる。マスクの上から覗く目は、秀一を和ませる。

「……ポリエチレンラップかなんかすれば、大丈夫かなあ」
「何がだ」
「唇にラップすれば、キスしても感染らない?」
 マスクしたままの茜が大真面目な顔で秀一に問いかけ、秀一は一瞬何を言い出したのかと茜の顔を見た。
「なんでそんなこと、する必要があるんだ」
「……したいから。うん、ラップ持ってこよう」
 立ち上がりかけた茜の腕を、秀一は思わず掴む。唇にポリエチレンをつけてキスするなんて、想像しただけで間抜けだ。
「したきゃ、すりゃあいいだろう! バカか!」
「だって」
 感染しないように気を遣ってくれる茜は、ありがたいと思う。けれど、イイ年をしてってのは、頭の片隅にあるのである。
「症状が出るまで隣で寝て、病院でも寄りかかってたろうが。感染ってるんなら、とっくに感染ってるだろうよ」
「そんなん、わかんないじゃない。やっぱりラップ……」
「いいからっ!」
 茜の顔からマスクを毟り取り、秀一は茜の口を塞いだ。抗うように秀一の胸を押す仕草をした茜の身体は、すぐにやわらかく力を抜いた。

「感染っても、知らないからね」
 文句の態だが、茜の顔は上機嫌だ。
「したかったんだろ? 満足か?」
「ありがと。秀さん、大好き」
 首に腕を回そうとした茜は、またこんこんと咳をして、慌ててマスクをつけた。

 二週間近く、唇にも触っていなかった。ふいに思い出した感覚に、秀一の中に蠢くものがある。高熱を出していた時は、ただ茜が無理をしないかと考えていたのだが、今なら多少咳き込んでいるだけである。来週からアルバイトのシフトを入れてもらう、なんて言っているのだから、徐々に身体を慣らしておくものだ――ってのは、ただの言い訳だ。何のことはない、久しぶりの感触に欲情しただけである。
「そろそろ、寝るぞ」
「ちょっと早いけど、布団敷こうか?」
「おう。茜も寝ろ」
 一緒に布団を出すと、茜は歯を磨いて寝る支度を整えた。
 また軽く咳をして、「早く治んないかな」と呟いている茜に、入れ違いに洗面所に入った秀一が、声をかけた。
「注射すれば治る。先にパンツ脱いで待ってろ」
「注射……注射って、何?」
「ナニだよ。ぶっとい注射、打ってやる」
 げっ、と叫んだ茜が頭から被った布団の裾から、秀一は潜り込む。
「さて、まず診察からだな」

 幸い秀一に免疫があるのか頑健なのかで、感染はしていない。でも、良い子は真似しちゃいけません。
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