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正月休みは、のんびりと休めるわけじゃない。暮れの大掃除が終わって初詣に出れば、次は年賀の挨拶である。元旦に茜の実家で食事して、翌日は秀一の実家に一泊旅行だ。それが済んでほっと一息入れれば仕事始めになる。
「休みは実質今日だけか」
「じゃ、今日は映画にでも行く?」
「家にいる。休ませろ」
若い衆の休日は出かけることがリフレッシュかも知れないが、中年は休みの日は体力の温存に余念がない。一晩寝ればあっという間に回復する年齢なんか、とっくに過ぎた。
「……映画なんて、座ってるだけなのに」
ぶつくさと言う茜は放っておいて、ミカンを口の中に放り込む。
茜も時々強く感じる年齢差は、埋められないほどの溝じゃない。奨学金も滞りなく返済できているし(秀一は最初、自分の蓄えで全額返済してしまえと言ったが、茜が断った)同年代とのつきあいよりも家庭生活を優先しているのは、茜本人だ。それに対して、不満なんか持ちようがない。
学生時代は、学費免除生になるために勉強に必死だった。私学だったから、学費が免除になってもなお施設費や修学旅行費はバカにならず、それに奨学金を充てた。早々に返済して、大学に行くつもりだった。
小さいときに何回も行った科学館の学芸員さんが、好きだったの。白衣着て実験見せてくれたり、標本広げてくれたり。私もああなりたいと思ってたはずなのになあ。
茜には、腑に落ちない気分になるときがある。勉強したいと言いだしたところで、秀一は反対はしないのではないかと思う。けれど、茜は言わない。金銭的な負担を考えるばかりじゃない。母は応援すると言ってくれているし、自分の頼りない試算でも準備は進んでいた。結婚しているからといって、家事全般のみで一生送るとは、考えていない。けれど、やっぱり気は進まないのだ。
気の進まない原因を強いて上げるとすれば、やはり秀一の年齢である。茜がこれから進学したとして、卒業するまで子供を待たせれば、軽く知命(五十歳)を超えてしまう。秀一の両親も秀一自身も、きっとそれは喜ばない。それは本意じゃない。
秀さんと一緒にいたくて、秀さんが赤ちゃんを待ってることも知ってて、私ももちろん望んでて。だけどそれって、私が他にしたいことを諦めることだったのかなあ。
子供のころから考えていたことは、そうそう簡単には覆らない。
区の広報誌の求人を茜が目にしたのは、偶然だ。雨でアルバイト先まで自転車が使えなかったので、久しぶりに使った駅で手にした。
「資料館の学芸員補? 大学入学程度の学力、エクセル・ワード……」
丁寧にバッグに入れて持ち帰り、帰宅して座卓の前で考え込んだ。一年間の契約職員だが、更新はあると記載されている。区の契約職員は競争率は高そうだが、茜にも試験に臨む資格はある。
「その間に赤ちゃんできてもいいのかな、これ」
大学に入学して資格取得を目指すより、決まった時間の労働のほうが家事は組み立て易い。今のアルバイトよりも、自分に向いている気がする。問題なのは、家事能力の薄い秀一だけである。家事の均等割りは期待できない。
「チャンスはチャンスだよなぁ」
ページを目の前に、ひとりごちた。
帰宅してやおら靴下を脱いだ秀一は、爪切りを持って広報誌を開いた。
「わ、その上で爪切らないで! 大事な記事が載ってるんだから!」
慌てた茜が、開いた広報誌をひったくる。まだ考え中のものを、くしゃくしゃぽいっと捨てられちゃ困る。たとえ狭き門でも、目の前に門があるのだ。
「図書館の新着図書か?」
代わりの新聞広告を無造作に広げた秀一は、爪を切りだした。
さんざん迷った挙句に、秀一に何も言わずに茜は履歴書を郵送した。採用される可能性は低いのだし、運試しだと自分に言い聞かせて、書類選考だけでも参加しようと思ったのだ。試験も面接もあるものだし、契約職員とは言え区の求人なのだから人気も高い。
秀さんに何も言わないのって、ルール違反かなあ。これから子供作るのにって、イヤな顔されちゃうかも。今のところ秀さんのお給料で、生活は困るわけじゃないし。
そんな風に考えて、言い出せない自分を不思議がったりする。行動を開始するときに、できるかできないかを考えたことはあっても、他人の思惑を気にしたことはなかった。進学を何年か伸ばすことについても、母の経済負担は考えても母がどんな職業を望んでいるかなんて、考えたりはしていなかった。自分の未来は自分だけのものであったはずだ。
そして採用試験と面接の日程の通知が来るのと前後して、茜は生理が遅れていることに気づいた。女の予感は不思議なもので、あの日の子供だ、とすぐに思い至る。赤ちゃんができた気がすると秀一に告げた日、ああやっぱりと自分で納得するのがおかしなものだ。
え? どうしよう。妊娠してるなんて言ったら、採用されないよね? まだ決定してるわけじゃないし、とりあえずチェッカーだけ買ってきて、確認しなくちゃ。陽性だったら、秀さん喜ぶだろうな。いっぱい褒めてくれそう。でも、チャンスなんだけどなあ。
動き出すためには、タイミングが悪い。
「休みは実質今日だけか」
「じゃ、今日は映画にでも行く?」
「家にいる。休ませろ」
若い衆の休日は出かけることがリフレッシュかも知れないが、中年は休みの日は体力の温存に余念がない。一晩寝ればあっという間に回復する年齢なんか、とっくに過ぎた。
「……映画なんて、座ってるだけなのに」
ぶつくさと言う茜は放っておいて、ミカンを口の中に放り込む。
茜も時々強く感じる年齢差は、埋められないほどの溝じゃない。奨学金も滞りなく返済できているし(秀一は最初、自分の蓄えで全額返済してしまえと言ったが、茜が断った)同年代とのつきあいよりも家庭生活を優先しているのは、茜本人だ。それに対して、不満なんか持ちようがない。
学生時代は、学費免除生になるために勉強に必死だった。私学だったから、学費が免除になってもなお施設費や修学旅行費はバカにならず、それに奨学金を充てた。早々に返済して、大学に行くつもりだった。
小さいときに何回も行った科学館の学芸員さんが、好きだったの。白衣着て実験見せてくれたり、標本広げてくれたり。私もああなりたいと思ってたはずなのになあ。
茜には、腑に落ちない気分になるときがある。勉強したいと言いだしたところで、秀一は反対はしないのではないかと思う。けれど、茜は言わない。金銭的な負担を考えるばかりじゃない。母は応援すると言ってくれているし、自分の頼りない試算でも準備は進んでいた。結婚しているからといって、家事全般のみで一生送るとは、考えていない。けれど、やっぱり気は進まないのだ。
気の進まない原因を強いて上げるとすれば、やはり秀一の年齢である。茜がこれから進学したとして、卒業するまで子供を待たせれば、軽く知命(五十歳)を超えてしまう。秀一の両親も秀一自身も、きっとそれは喜ばない。それは本意じゃない。
秀さんと一緒にいたくて、秀さんが赤ちゃんを待ってることも知ってて、私ももちろん望んでて。だけどそれって、私が他にしたいことを諦めることだったのかなあ。
子供のころから考えていたことは、そうそう簡単には覆らない。
区の広報誌の求人を茜が目にしたのは、偶然だ。雨でアルバイト先まで自転車が使えなかったので、久しぶりに使った駅で手にした。
「資料館の学芸員補? 大学入学程度の学力、エクセル・ワード……」
丁寧にバッグに入れて持ち帰り、帰宅して座卓の前で考え込んだ。一年間の契約職員だが、更新はあると記載されている。区の契約職員は競争率は高そうだが、茜にも試験に臨む資格はある。
「その間に赤ちゃんできてもいいのかな、これ」
大学に入学して資格取得を目指すより、決まった時間の労働のほうが家事は組み立て易い。今のアルバイトよりも、自分に向いている気がする。問題なのは、家事能力の薄い秀一だけである。家事の均等割りは期待できない。
「チャンスはチャンスだよなぁ」
ページを目の前に、ひとりごちた。
帰宅してやおら靴下を脱いだ秀一は、爪切りを持って広報誌を開いた。
「わ、その上で爪切らないで! 大事な記事が載ってるんだから!」
慌てた茜が、開いた広報誌をひったくる。まだ考え中のものを、くしゃくしゃぽいっと捨てられちゃ困る。たとえ狭き門でも、目の前に門があるのだ。
「図書館の新着図書か?」
代わりの新聞広告を無造作に広げた秀一は、爪を切りだした。
さんざん迷った挙句に、秀一に何も言わずに茜は履歴書を郵送した。採用される可能性は低いのだし、運試しだと自分に言い聞かせて、書類選考だけでも参加しようと思ったのだ。試験も面接もあるものだし、契約職員とは言え区の求人なのだから人気も高い。
秀さんに何も言わないのって、ルール違反かなあ。これから子供作るのにって、イヤな顔されちゃうかも。今のところ秀さんのお給料で、生活は困るわけじゃないし。
そんな風に考えて、言い出せない自分を不思議がったりする。行動を開始するときに、できるかできないかを考えたことはあっても、他人の思惑を気にしたことはなかった。進学を何年か伸ばすことについても、母の経済負担は考えても母がどんな職業を望んでいるかなんて、考えたりはしていなかった。自分の未来は自分だけのものであったはずだ。
そして採用試験と面接の日程の通知が来るのと前後して、茜は生理が遅れていることに気づいた。女の予感は不思議なもので、あの日の子供だ、とすぐに思い至る。赤ちゃんができた気がすると秀一に告げた日、ああやっぱりと自分で納得するのがおかしなものだ。
え? どうしよう。妊娠してるなんて言ったら、採用されないよね? まだ決定してるわけじゃないし、とりあえずチェッカーだけ買ってきて、確認しなくちゃ。陽性だったら、秀さん喜ぶだろうな。いっぱい褒めてくれそう。でも、チャンスなんだけどなあ。
動き出すためには、タイミングが悪い。
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