最後の女

蒲公英

文字の大きさ
33 / 60

33.

しおりを挟む
 正月休みは、のんびりと休めるわけじゃない。暮れの大掃除が終わって初詣に出れば、次は年賀の挨拶である。元旦に茜の実家で食事して、翌日は秀一の実家に一泊旅行だ。それが済んでほっと一息入れれば仕事始めになる。
「休みは実質今日だけか」
「じゃ、今日は映画にでも行く?」
「家にいる。休ませろ」
 若い衆の休日は出かけることがリフレッシュかも知れないが、中年は休みの日は体力の温存に余念がない。一晩寝ればあっという間に回復する年齢なんか、とっくに過ぎた。
「……映画なんて、座ってるだけなのに」
 ぶつくさと言う茜は放っておいて、ミカンを口の中に放り込む。

 茜も時々強く感じる年齢差は、埋められないほどの溝じゃない。奨学金も滞りなく返済できているし(秀一は最初、自分の蓄えで全額返済してしまえと言ったが、茜が断った)同年代とのつきあいよりも家庭生活を優先しているのは、茜本人だ。それに対して、不満なんか持ちようがない。
 学生時代は、学費免除生になるために勉強に必死だった。私学だったから、学費が免除になってもなお施設費や修学旅行費はバカにならず、それに奨学金を充てた。早々に返済して、大学に行くつもりだった。
 小さいときに何回も行った科学館の学芸員さんが、好きだったの。白衣着て実験見せてくれたり、標本広げてくれたり。私もああなりたいと思ってたはずなのになあ。
 茜には、腑に落ちない気分になるときがある。勉強したいと言いだしたところで、秀一は反対はしないのではないかと思う。けれど、茜は言わない。金銭的な負担を考えるばかりじゃない。母は応援すると言ってくれているし、自分の頼りない試算でも準備は進んでいた。結婚しているからといって、家事全般のみで一生送るとは、考えていない。けれど、やっぱり気は進まないのだ。
 気の進まない原因を強いて上げるとすれば、やはり秀一の年齢である。茜がこれから進学したとして、卒業するまで子供を待たせれば、軽く知命(五十歳)を超えてしまう。秀一の両親も秀一自身も、きっとそれは喜ばない。それは本意じゃない。
 秀さんと一緒にいたくて、秀さんが赤ちゃんを待ってることも知ってて、私ももちろん望んでて。だけどそれって、私が他にしたいことを諦めることだったのかなあ。
 子供のころから考えていたことは、そうそう簡単には覆らない。

 区の広報誌の求人を茜が目にしたのは、偶然だ。雨でアルバイト先まで自転車が使えなかったので、久しぶりに使った駅で手にした。
「資料館の学芸員補? 大学入学程度の学力、エクセル・ワード……」
 丁寧にバッグに入れて持ち帰り、帰宅して座卓の前で考え込んだ。一年間の契約職員だが、更新はあると記載されている。区の契約職員は競争率は高そうだが、茜にも試験に臨む資格はある。
「その間に赤ちゃんできてもいいのかな、これ」
 大学に入学して資格取得を目指すより、決まった時間の労働のほうが家事は組み立て易い。今のアルバイトよりも、自分に向いている気がする。問題なのは、家事能力の薄い秀一だけである。家事の均等割りは期待できない。
「チャンスはチャンスだよなぁ」
 ページを目の前に、ひとりごちた。

 帰宅してやおら靴下を脱いだ秀一は、爪切りを持って広報誌を開いた。
「わ、その上で爪切らないで! 大事な記事が載ってるんだから!」
 慌てた茜が、開いた広報誌をひったくる。まだ考え中のものを、くしゃくしゃぽいっと捨てられちゃ困る。たとえ狭き門でも、目の前に門があるのだ。
「図書館の新着図書か?」
 代わりの新聞広告を無造作に広げた秀一は、爪を切りだした。

 さんざん迷った挙句に、秀一に何も言わずに茜は履歴書を郵送した。採用される可能性は低いのだし、運試しだと自分に言い聞かせて、書類選考だけでも参加しようと思ったのだ。試験も面接もあるものだし、契約職員とは言え区の求人なのだから人気も高い。
 秀さんに何も言わないのって、ルール違反かなあ。これから子供作るのにって、イヤな顔されちゃうかも。今のところ秀さんのお給料で、生活は困るわけじゃないし。
 そんな風に考えて、言い出せない自分を不思議がったりする。行動を開始するときに、できるかできないかを考えたことはあっても、他人の思惑を気にしたことはなかった。進学を何年か伸ばすことについても、母の経済負担は考えても母がどんな職業を望んでいるかなんて、考えたりはしていなかった。自分の未来は自分だけのものであったはずだ。

 そして採用試験と面接の日程の通知が来るのと前後して、茜は生理が遅れていることに気づいた。女の予感は不思議なもので、あの日の子供だ、とすぐに思い至る。赤ちゃんができた気がすると秀一に告げた日、ああやっぱりと自分で納得するのがおかしなものだ。
 え? どうしよう。妊娠してるなんて言ったら、採用されないよね? まだ決定してるわけじゃないし、とりあえずチェッカーだけ買ってきて、確認しなくちゃ。陽性だったら、秀さん喜ぶだろうな。いっぱい褒めてくれそう。でも、チャンスなんだけどなあ。
 動き出すためには、タイミングが悪い。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

会社員の青年と清掃員の老婆の超越した愛

MisakiNonagase
恋愛
二十六歳のレンが働くオフィスビルには、清掃員として七十歳のカズコも従事している。カズコは愛嬌のある笑顔と真面目な仕事ぶりで誰からも好かれていた。ある日の仕事帰りにレンがよく行く立ち飲み屋に入ると、カズコもいた。清掃員の青い作業服姿しか見たことのなかったレンは、ごく普通の装いだったがカズコの姿が輝いて見えた。それから少しづつ話すようになり、二人は年の差を越えて恋を育んでいくストーリーです。不倫は情事かもしれないが、この二人には情状という言葉がふさわしい。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

ヘンタイ好きシリーズ・女子高校生ミコ

hosimure
恋愛
わたしには友達にも親にも言えない秘密があります…。 それは彼氏のこと。 3年前から付き合っている彼氏は実は、ヘンタイなんです!

処理中です...