最後の女

蒲公英

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 とりあえず、一週間あとの採用試験を受けてから妊娠の確定をしようと決め、秀一に就職を考えているのだと告げた。隠し事をしているようで少々心苦しいが、嘘じゃない。ただ反対をされたくなかった。
「やりたいんなら、やってみりゃいい。どうせ二人だけだ、どうにでもなる」
 もともとが競争率の高い採用試験なのだから、受かったあとの心配するほどのことでもないじゃないか、と秀一は思う。子供のころから思い描いていた職業への扉が目の前で開くのだと、構えている茜とはそこで温度差がある。
「契約職員って、妊娠したらクビになるのかな」
「受かる前から受かったときの心配したって、しゃあねえ。それに出産に関わることを理由には、雇用者側は地位を動かすことはできない」
「地位なんてないもん」
「ステイタスのことじゃない、バカ。正職員だろうが契約職員だろうが、妊婦の雇用は勝手に動かせねえんだ」
 秀一の口から、すらすらと意外な言葉が発せられるのを、茜は目を丸くして聞いていた。
「なんかよくわかんないけど、秀さんの意外な知識」
「男女雇用機会均等法だ。会社でセクハラ講習とかやると、そんな内容もある」
 亀の甲より年の功である。

 ただ生理が遅れているだけかも知れないと思いながら、試験にこぎつける。こんなに遅れたことはなかったし、身体の奥底に何か感じるものがある。半月近く過ぎているのだ、間違いないと確信しながら試験に臨んだ。
 筆記テストは満足のいく内容だったし、面接の感触も悪くなかった。イケルかも、なんて思いながら自転車の鍵を開けたとき、覚えのある鈍痛を下腹部に覚えた。そのあとに感じた気配で、建物の中に戻って手洗いに入る。下着にうっすらと汚れがあった。
 え? 遅れてただけ? なんだ、秀さんをぬか喜びさせるとこだったな。
 呑気に手当てをして自転車で走り出すと、鈍痛はどんどんひどくなってくる。遅れていた分生理痛がひどく来ているのだと、憂鬱になる。翌日のアルバイトのシフトは、午前の早い時間なのである。

 帰宅してもまだ午後の早い時間で、朝に片付けきれなかった家事を進めながら、下腹の痛みを手でおさえる。悩んで損したな、なんて思っていると、仕事中の母から電話が来た。今日採用試験に臨むことは言ってあったので、出来栄えを案じたらしい。
『試験、どんな感じだった? ファーストフードより良さそう?』
「競争率高いから、自信ないよ。でも、受かればいいな。子供相手のイベントのお世話とかもあるみたい」
『茜はそういうこと、好きだものね。受かるといいなあ』
「祈ってて。それより、帰りに生理が始まっちゃってー。半月も遅れたから、お腹痛くて」
『また脚出して冷やしてるんじゃないの?暖めたほうがいいのよ、腰も』
「今、ひざ掛け巻いてる。遅れた分ひどいのかなあ。さっき、レバーみたいな塊になってて」
『塊?』
 母の声はいきなり、硬くなった。

『それ、まだある?』
「あるって……そりゃ、ゴミ箱の中には」
『それ持って、産婦人科に行きなさい。すぐ』
 ただならぬ気配に驚き、茜の顔が引き締まる。
「産婦人科?」
『生理、遅れてたんでしょう?ちゃんと検査してもらって来なさい』
 よくわからないままに電話を切り、茜はびくびくしながらゴミ箱の中から始末したはずの生理用品を取り出した。あんな強張った声、何か病気の予兆なのだろうかと思いながら。

 病院はまだ充分に受付時間だ。受付で状態を話すと、まず尿検査を行ってから検診になった。持ってきているのなら見せろと言われたものを渡すのは、とても抵抗があった。
「流産、ですね」
「え?」
「胎嚢が完全に出てしまっているようなので、処置は不要です」
 医師が穏やかな声で告げるのが、自分のことだとは思えない。
「えっと私、流産したんですか?」
「急に進行したんでしょう。妊娠のうちの十五パーセント程度で、初期の流産は起こります。次に綺麗な生理が来れば、また妊娠できますよ」
 流産したの、私? 妊娠したって予感は、正しかったの?
「なんで流産なんて……」
「初期流産は大抵の場合、受精卵の異常です。母体に原因のあることは稀ですよ」
 流産、しちゃったの? 秀さんが楽しみに待ってるのに。

 チェッカーで検査して、一緒に結果を見るつもりだった。タイミングが悪いと思いながら、秀一の喜ぶ顔を見たかった。
 帰宅するまで事故に遭ったわけではないから、普通に自転車を走らせてはいたらしい。けれど、道に何が見えたのかは覚えていない。流産という言葉だけが、ぐるぐるする。遅れただけの生理が来たのだとほっとしていた筈が、全然違うものになったのだ。
 天秤にかけるようなこと考えたから、赤ちゃんはイヤになっちゃったんだ。だから私から逃げたんだよ。
 そんなことを考えたら、涙があふれた。秀一と、いた筈の腹の中に詫びる。素直に喜べば、秀一をすぐに父親にしてやることができたかも知れないのに。そう思っては、声を上げて泣いた。

「どうした、その顔。試験、ダメだったか?」
 靴脱ぎの前で泣き腫らした顔を見て、秀一は驚きの声をあげた。
「……ごめんなさい」
 一歩室内に入ると、上着を脱ぐ間もなく茜が胸にしがみついた。
「流産、しちゃった。ごめんね。秀さん、ごめんなさい……」
「流産?」
 謝られても、秀一には妊娠したなんて情報は入っていなかったのである。
「試験終わったら、検査するつもりだったの。なのに、検査する前にいなくなっちゃった。いなくなっちゃったの。私がママじゃイヤだって……」
「ちょっと待て。落ち着け」
「私がちゃんと喜んであげなかったから、だから」
「おい、落ち着け」
 戸惑った顔で秀一は茜を促し、居間に座った。

 茜の途切れ途切れの説明で、大体の話は納得する。流産なんてのは男には知識がないから、身体の具合のほうが気にかかる。もともとの情報は何もなく、結果的にはやはり何もないのだから、秀一は多少残念なだけである。それよりも、何度も詫びの言葉を口にする茜が痛々しい。
「顔が白いぞ。具合悪いんじゃないのか?」
 また泣いている茜の顔を覗き込む。
「子供なら、またできればいいから。な、俺に謝ることなんて、ない。身体も心も辛いのは、茜だろ?」
「ごめんね? せっかく妊娠したのに、私が」
「茜のせいじゃないから。少し眠れ、な」
 立ち上がって布団を敷き、夕食も摂らず着替えもせずに、秀一は布団の中で茜を抱えた。どう言えば泣き止ませることができるのか、自分を責める茜を救ってやることができるのか、皆目見当はつかない。

 泣き寝入りした茜にほっとして、居間に戻ってやっと着替えた秀一は、溜息を吐いた。茜はまだ若い娘なのだと、改めて思う。経験してみたいことも欲しい知識も山ほどあり、自分との生活以外にも動きたい場所がある。早くに子供が欲しいというのは、秀一の年齢を考えてのことに過ぎない。それなのに、あれほど自分を責めている。
 有難くて、いじらしくて、愛おしい。秀一のために費やす時間は申し訳ないが、それ以上に茜が可愛い。
 たとえば世界が明日滅ぶとしたら、俺はその時におまえの手を握っていたい。俺が最後に見るのは、おまえの顔だ。
 頭の中での呟きを、思わず手で払う。こんなことを考えるだけでも、ガラじゃない。
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