最後の女

蒲公英

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 布団の中で手を伸ばすと、茜の身体はぎくりと強張った。性的な欲求で抱き寄せたわけではないから、秀一は黙って茜を抱える。少しずつ緊張を解いていく茜の身体に、何も言えない。あれから、十日も経っているというのに。

 しばらく口数の少なかった茜が、秀一の好物のアジの南蛮漬けなど作っている。日曜日の昼下がり、真冬の中にも晴天の空は青く、ショートパンツから出た脚はタイツに包まれてはいるが(本当はタイツじゃなくてナントカというらしいが、秀一にその言葉を覚える気はない)きびきびとよく動く。
「今日は買い物、いいのか?」
「お米はまだあるし、灯油も昨日巡回販売が来たし、ミカンは箱で買うと秀さんが五日で食べちゃうし」

 茜の母から気をつけてやってくれと念を押されたのは、先週だ。言わなくてもわかっているだろうが、茜は辛くても顔を作ってしまう子だからと。母を助けて生活してきた姉娘は自分が家の中のペースメーカーであることをよく知っていて、そんな家庭環境を与えてしまったのは自分だからと、茜の母は案じていた。
 確かに、そんな感じはある。結婚指輪を欲しいと言い出せないでいたこと、元妻の写真を勝手に捨てたりしようとしなかったこと、思い起こせば他にもあるだろう。子供っぽく甘えたがりだが、秀一がうんざりするような寄り掛かりかたはしない。まだ二十歳の娘が、である。
 侮ってると、足元掬われるのは俺のほうかもな。なんとなく、その自覚はある。

 ただ胡坐を掻いて、茜が借りてきたDVDを眺めているだけなのだから、当然膝の上に来ると思っていたのだ。それが茜のいつもの行動なのだし、揚げたアジはもう甘酢に漬け込んであるのだから、のんびりするだけの休みの筈だ。にも拘らず、茜は座卓を挟んだ場所に座っている。自分から膝に来いと言うのもおかしな話で、代わりに丸まったゴンベの背中を撫でてみたりする。少々物足りない。
「アイス食べる?」
「カロリー同じなら、酒」
「昼から飲むんなら、夜はナシ」
 そこまでの会話になってしまい、接穂が見つからない。

「来週の休み、どこか行くか?」
 秀一から外出に誘うことなんて、滅多にない。勢いのつかない会話と、どこか無理をしているような茜を、どうにかしたい一心である。言葉が出ない分、身体を動かすしかない。
「どこかって」
「行きたい場所、ないか? 浦安のテーマパークとかでもいいぞ?」
「おそろいの耳つけて?」
 うっ、と秀一は言葉を飲み込む。そこは外せないポイントなのか!けれど一日我慢して、茜の気が紛れるのなら。
「……園内だけなら」
「バルーンも買ってね。ポップコーンのバケツ、首から提げて」
 茜の瞳が、秀一の顔を覗く。
「お土産で、ぬいぐるみのブローチがあるの。ストラップにもなるから、一緒に買おう?」
「勘弁しろ!」
 茜だけなら容易に想像できる姿だが、自分のことに関しては想像もしたくない。

「嘘、嘘。秀さん、別に行きたくないでしょ?私も実は、そんなにアメリカのキャラクター好きじゃないし」
 笑いながら、茜が言う。
「気なんて遣わなくて、いいよ。大丈夫、ちゃんと調べたから。15パーセントくらいの確率で、初期流産ってあるんだよね。六分の一なら、あと五回妊娠しても、もう起こらないってことだもん」
 それについては、秀一も多少調べた。ほとんどが受精卵の異常で引き起こることであり、責められるべきものがあるとすれば、卵子や精子レベルについてだ。
 でも、感情は別だろ?
 労わりの気持ちは言葉に出すと嘘くさく、難しい。茜が抱えているだろう喪失感や怯えは、秀一には代わってやれない。

「でも、せっかく秀さんが出る気になってるんなら、便乗しちゃおっかな。行ってみたいとこ」
 茜が乗り気になったので、秀一も聴く姿勢になる。気恥ずかしい小洒落たレストランだって、つきあってやろうという気概である。
「茨城の、漁港の前のおさかな市場!」
「はあ?」
 覚悟を決めるために火をつけた煙草を、取り落としそうになる。魚の市場と海鮮食堂が合体した場所は、何度か旅のレポート番組で見たことがある。日帰りでも充分行けることは、知っていた。
「秀さん、お魚好きじゃない。海鮮丼とかお寿司とか食べて、近くに明太子も。あとね、温泉だけ使わせてくれるホテルがあるって」
 一気に言葉が出るところをみると、秀一が見流していた旅番組を、茜は行きたいなあと記憶していたらしい。そして言い出す機会もなく、ただ行きたいなと思っていただけだったのだ。
 違うな。茜が言い出さなかったのは、俺が億劫がって友達と行けなんて言うからだ。だから俺が動きそうな場所しか主張しない。
 押さえつけていたつもりは全然なかったが、結果的に茜は秀一の機嫌と顔色を見ているのである。
「市場じゃ、朝早く出ないと混むだろ。前の晩から泊まりで行くか?」
「一日のためになんて、宿代もったいなくない?」
「夕飯済ませてから出て、現地の近くで適当な連れ込みにでも入ればいいだろ」
 出ると決まれば、秀一の腹はとっとと決まってしまう。茜がどこに行きたくて何をしたいのかなんて質したことはなく、明るくああしたいこうしたいと言う表面の言葉だけで満足しているのだと思っていた。

「連れ込みなら、隣に気ぃ遣わなくて済むしな」
「何?」
「ヨガリのレッスン、その二」
 複雑な顔をした茜は、気を取り直したように明るく返した。
「エロ親父ぃ!」

 もっとな、ちゃんと主張していいんだぞ。我儘とか甘えとかも、見せていいんだ。今まで、俺だけがそうしてたんだな。億劫だったり苦手だったりすることを、無意識に茜に全部押しつけて。
 元の結婚の破綻原因に、今更ながら秀一は気がついた。威圧的であったつもりはないが、相手の好意に乗っかった事柄が当然なのだと、自分に刷り込んでしまっていた。
 そんなことで、逃げられてたまるか。
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