最後の女

蒲公英

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 土曜日の午後に秀一が帰宅すると、居間にでかいクーラーボックスが鎮座していた。
「どうしたんだ、これ?」
「茨城にお魚買いに行くって言ったら、お隣が貸してくれたの」
 家庭の買出し用じゃない、どちらかと言えば海釣りに持っていくような大きさである。
「よくこんなの持ってんな。これで買出しちゃ冷蔵庫に入りきんねえ」
「お金払うから、たくさん買ってきて分けてって、みんなが……」
「みんなって、誰だ?」
 茜の友達は、圧倒的に学生ばかりだ。魚を分けるなんて発想は、出るはずがない。
「土井さんと、平田さんと、石原さん。あと、栗原のおじいちゃんがお刺身」
「誰だ、そりゃ?」
「秀さん、同じアパートの人の名前も知らないの?」
 全然知らない。すれ違えば会釈くらいはするが、どの部屋に誰が住んでいるかなんて、気にしたこともない。時々茜が受け取るお裾分けとやらも、せいぜい隣の部屋くらいだと思っていた。茜が一緒に生活し始めたときも、別に挨拶に行こうとも思わなかった。
「へんなのー。ゴミ出しとかでも顔合わせるのにー」
 秀一の知らないところで、茜はアパート内の主婦たちと交流しているのだと、はじめて知った。
「何かのときは呼んでねって、みんな言ってくれるよ。娘より若いのにしっかりしてるねって」
 それは大人が留守の家を守るための、姉娘の知恵だったのだろう。団地の中で話すことのできる大人を確保しておけば、いざという時に助けを呼べる。
 こいつの人懐っこさは、ただの無警戒でもないんだな。秀一も少々見習うべきところであるが、その前に相手が勝手に警戒してしまう。

 夕食をしたためた後、眠っているゴンベを置いて車に乗り込む。
「ごめんね、ゴンベ。お土産においしいもの、買ってくるからね」
 猫の出入り口は使えるので、ゴンベは勝手に出て行って勝手に帰ることができる。部屋飼いじゃない猫を置いて出るのは、結構気楽だ。
「私も車の免許、取ろうかなあ」
「乗ることなんて、あるか?」
「こうやって遠出のとき、交代で運転すれば楽だよね」
 上着を後ろの座席に放り込んだ秀一に、茜が話しかける。
「秀さん、今日晩酌できなかったでしょ? 私が免許持ってれば……」
「年に何回もないことで、気ぃ遣うな。アル中じゃねえ」
 そんなことより、久しぶりの茜の楽しそうな顔だ。

 常磐道をしばらく走った後に、秀一は高速道路を降りた。道のまったくわからない茜は、その辺はおまかせである。
「土曜の晩だから、どこでも空いてるとこ入るぞ」
 満室の赤字を横目で見ながら秀一が車を走らせて、あまり今風とは言えない一軒に入る。まだ夜半には少々ある時間だ。
「なんか、ラブホテルでございますーって感じ」
「まさに、それだからな」
 頓着せずに階段を上がっていく秀一の後ろを、茜はこわごわと着いていく。普段の生活と相容れない場所は、なんだかよそよそしい。

「風呂、入るか?」
「ん、あったまるだけ。夕方、髪洗ったし。秀さんはまだだもんね」
「一日くらい入んなくても、死なねえぞ?」
「死ななくても、臭くなる」
 安全靴の中には消臭の中敷だし仕事を終えてから着替えているのに、最近の若いヤツってのはすぐに汚いと言いたがる、と秀一は思う。それでも足を伸ばせる浴槽は久しぶりなので、風呂に湯を張り始めた茜に文句は言わないでおく。
「やだな、これ」
 病院の検査着みたいな薄いガウンを引っ張り出し、茜が唇を尖らせる。眠るための場所じゃないのだから、そんなものは形だけだ。
「パンツで寝りゃいいんだよ」
「やだ、なんかだらしない」
 融通は、意外に利かない。

 風呂場で手足を伸ばし、秀一は腹の底から息を漏らした。夜間の運転は、目と神経が疲れる。若い頃は夜通し運転して遊びに行き、仮眠だけで帰ることができたというのに。寒くなると凝ってくる肩を、左右に揺らしてほぐしてみる。自分のことながら、充分におっさんくさいと思う。
「秀さん、一緒に入っていい?」
 ドアを開けた茜は、身体の前面にタオルを垂らしていた。
「おう、今から頭洗うから」
 ざばっと湯を散らせて、秀一は立ち上がる。厚い胸の下の、緩みはじめた腹筋には頓着なしである。普段身体を使う仕事をしているので殊更にどこかを鍛えようなんて考えられないが、全体的には同年代の男よりも締まった身体だ。湯船の中から縁に腕を乗せて、茜は秀一の後姿を見ている。
「秀さん、身体洗うのザツ」
「細けえこと言うな、一日くらい」
「普段は見てないもん。加齢臭出てからじゃ遅い」
 加齢臭。イヤなことを言う嫁である。

 一緒に湯船に浸かっても、まだ余裕のある広さ。都内の一戸建てなんて考えられないが、こんな風呂場を日常的に使えれば贅沢だと思う。せめてもう少し、小綺麗な場所へ。
「……引っ越すか」
 秀一の呟きに、茜が反応する。
「どこへ?」
「もうちょっと広めのとこに。子供できたら、狭いだろ?」
「狭くなってから考えればいいじゃない。今のお家賃で、貯められるだけ貯めとこ? 医大とか薬科大とか行きたいって言い出されたら困るもん」
 ハタチの娘にしてはリアル過ぎるのは、本人の事情があったからだ。茜の性格を形作ってきたものが、このところ薄ぼんやりじゃなくて、実感を伴って見えてきている。

「秀さんの手、おっきい。合わせると、ほら」
 秀一の手に、茜が手を重ねる。一回り以上小さくて薄い手を、思わず握った。茜はおとなしく手を委ねている。
 お前が胸に抱いて待ち望んだ未来は、こんなものじゃなかったろう?今更そう主張したって、手遅れだが。
「俺の手がでかいんじゃなくて、おまえの乳が小さいんじゃねえか? 手に余るとか手のひらサイズとかってレベルじゃねえだろ」
 逆側の手が湯船の中で、茜の胸を掴んだ。
「普通だもん! Bカップあるもん!」
「揉みが足んねえか」
 そして攻防の末にベッドに転げ込むのは、お約束である。
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