最後の女

蒲公英

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「もしもーし?」
 衝撃音の後に途切れた声に呼びかけ、返事がないので切ろうとした矢先に、茜ではない声が聞こえた。
「ごめんなさい、はじめまして。同じアルバイトの佐々木といいます。平野さん、今オチました。送っていくのが正解なんでしょうけど、おうちの場所を誰も知らないんです。回収していただけると嬉しいんですけど」
 人間を回収するっていうのもおかしな表現だが、それよりも今の泣き声のほうが気になる。どうせ茜も留守なのだしと、久しぶりに同僚と飲みに行き、秀一は現在駅で電車待ちだ。気持ち良くなる程度にしか飲んではいないし、帰り道ではある。ただし現場用の防寒着のまま、若いヤツばかりの場所に行くのは少々気が引ける。
「正体不明ですか?」
「突然寝ちゃったみたい……あ、目が開いた」
 佐々木の声より遠く、茜の声が聞こえる。おうちかえるー、なんて言っているのが聞こえる。電車到着のアナウンスが入り、電話を切らなくてはならなくった。あの呂律の怪しさは、相当キている。仕方ない、と秀一は溜息を吐いた。
「二十分くらいで、行きます。水飲ませといてください」
 酔っぱらいを担いで帰る覚悟を、しなくてはならない。

 秀一が迎えに来るというので、主役も潰れたことだしお開きにしようかと、それぞれ残った皿やグラスの中身を口の中に処理している。店員を呼んで勘定を頼んだのは丸山だ。さっさと支払って秀一が到着する前に帰りたいらしいが、しっかり頭割りで払う気でいる。少々多めの金額を幹事に払って先に出る、という選択肢は考えつかないようだ。居酒屋の二十二時近くは店員もバタバタと忙しく、なかなか持って来ない勘定書きに、ひとりで焦れている。
「そろそろ平野さんの旦那さん、来るね」
「仁王だって言ってたよなあ。どんなんだろ」
 仲間内のそんな会話で、誰も丸山の話など鵜呑みにしていなかったことがわかる。横柄で威圧的で、いかにも腕力にモノを言わせそうなんて言ったときは、興味深そうに聞いていたのに。
「俺、早く帰りたいんだけど。勘定、遅いな」
「店員さんも忙しいんだから、仕方ないでしょ」
 茜は隅で丸まって、脚の上に誰かのコートを掛けてもらっていた。

「あ、来た……」
 丸山が呟いて、茜の寝ている場所から短いながら距離を置く。
「え? あ、なんだ、フツーじゃん」
 丸山と茜の間に割って入っていた学生が、丸山を肘でつついた。
「あそこまで言うから、不細工なゴリラみたいの連想してた。ちょっとゴツいけど、ちゃんとした人に見えるぜ?」
 そう言われて、丸山の肩が窄む。過剰に言い立てたことは、少々自覚があるらしい。

「平野の家の者です。ご迷惑をお掛けしてます」
 頭を下げただけで恐縮した顔をされるのは、全員が秀一の半分程度の年齢だからだ。ぐるりと見回し、丸まっている茜に視線を落とす。
「平野さん、旦那様が迎えに来たよ」
 掛けている声は電話の声と似ていて、多分佐々木という女の子なのだろう。
「う……ん。しゅうさん?」
 瞬間だけ目を開けた茜は、また身体から力を抜く。
「すみません、こんなに飲ませちゃって」
「ああ。若い人ばっかりじゃ、こんなもんでしょう。これには明日の朝にでも、みっともない飲み方すんなと叱っておきます」
 音声が入らないと理解しにくいだろうが、秀一の言葉である。いくら半分の年齢だとは言え、未知の人間相手に丁寧な言葉遣いは礼儀だ。
「あんまり、叱らないでくださいね。平野さん、旦那様を悪く言われて、必死だったんです」
 幹事に支払いを済ませた丸山を、佐々木は視線で指した。それを目で追う秀一は、丸山の顔を認めて納得したのだが、少々意地の悪い気分になる。
「悪く? 一度しか会ったことはないと思うけどね」
「横柄で乱暴そうだとか、アルバイトに強引に勧誘されそうになった、とか」
 佐々木という女の子も、普段なら言いつけるような子供っぽい子ではないだろう。酒が口を軽くしている。
「ウチの会社は原則、アルバイトなんて採らないが。……丸山君って言ったっけか。君のお父さんは、腹が出ちまってみっともないって言ってたね」
 自分の嘘をばらされて、どうやって誤魔化そうかと考え始めた丸山には、秀一の話は変な方向に聞こえる。
「……言いました」
「きっと気が小さい、くだらない男なんだろうな。息子が無職でも、説教することもできないくらい」
 この挑発に、丸山は反応した。
「親父のことを知りもしない人が、何言ってるんですか」

 予想通りの反応に、笑ってしまいそうだ。口の器用でない秀一ですら、簡単に結論に持ち込める。学生時代の成績や根拠のないプライドなんて、実生活では役に立たない。まして、丸山が無意識にしているであろう計算なんて、中年には見え透きすぎだ。
「ほら、家族の悪口言われると、事実はどうあれ腹が立つだろう? 普段憎まれ口叩いてても、自分が言うのと他人から言われるのは、違うんだ」
 揺り起こされた茜が、ふにゃふにゃと上着に袖を通しているのが見えた。それを助け起こしながら、何か言いたそうな丸山に、続けて言う。
「他人から吹き込まれた悪口で、自分もそいつの評価を下げちまうのは、まだ相手を知らないうちだけだ。愛だ恋だって騒いでる間なら、他人の評価も気にかかるかも知んねえけどな。ま、他人のポイント下げても、自分のポイントにはなんねえな。……おい、背中に乗れ、ほら」
 最後の一言で茜をおぶったわけだが、自分があまり酔ってなくて助かったと思うのみである。
「見かけだけならこいつも、同じに見えるだろうよ。だけどな、こいつと俺はもう、家族なんだよ。家族を悪く言われて聞き逃せる人間なんて、そうそういないよ」

 自分らしくなく尤もらしいことを言ってしまったと少々後悔しながら、秀一は場を辞した。ぐにゃぐにゃと力が抜ける茜を時々揺すり上げながら、タクシー乗り場に向かう。時々正気づいて首に巻きつく腕と、首筋にあたる息が暖かい。
 悪かったな、俺のせいで悪酔いしたか? 楽しい飲み会だったはずなのにな。
 タクシー乗り場の行列に並び、背中にずっしりかかる重さを、もう一度揺すりあげる。自分が迎えに行けた今日は、ラッキーだったと思う。こんな状態で誰かのアパートにでも引っ張り込まれたら、碌なことにならない。
 家族なんだよ、俺らは。
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