最後の女

蒲公英

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 言い返すよりも先に手元のグラスの酒を口に含んだのは、失敗だっただろう。普段ならば自制しているはずの言葉が、茜の口から飛び出す。
「頭悪ーい。よく知らない他人様の悪口撒き散らして、しかも見かけで判断して。だから就職先も見つからなきゃ彼女も見つからない。最低最悪なのに、自分では利口だとでも思ってんの?」
 茜の席の不穏に、隣が気がつく。止めようとしているのを手で払い、続けた。
「言っとくけどね、あんたみたいなの相手にしようって企業なんて、世界中探しても見つからないよ。口ばっかりで仕事しないの、目に見えてるもん。DVですって? 秀さんがどんなにやさしい人かなんて、考えられもしないんでしょ。思考力の欠如、想像力の欠如、学習力の欠如。まかり間違ってどこかに採用されたって、俺にはふさわしくないなんて言ってるうちにクビになる」
「平野さん、言い過ぎっ!」
「いいのっ! こんなバカ、一生恨まれたって怖くない。死んだって化けて出る能力もない……きゃあ!」
 最後の叫びは、殴りかかられたわけじゃない。間に人が割って座り、茜を押し退けたのだ。
「何言われたの、一体」
「秀さんの悪口、あることないこと! そんなの、許せるわけないじゃない!」

「土方のダンナが下品で横暴だって言ってるだけだろ。平野さんのことなんて言ってない」
「私も平野さんだけど、秀さんも平野さんよ、バカ。無愛想で不精だけど、下品なんかじゃない。横暴だったこともない」
 真ん中に人を挟んだ分、声が大きくなる。茜はまた、グラスを口に運ぶ。すでに普段の許容量よりも多いのだが、自分では飲みすぎている自覚はない。
「どう見ても威圧的じゃないか。騙されて結婚して、後悔してることを知られたくないんじゃね?」
 半分は茜に、もう半分は割って入った隣に、丸山が言う。
「すげえんだ、いかにも喧嘩慣れしてます、みたいな。言うこと聞くように躾けられちゃってる、平野さんが気の毒で」
「丸山さんは本人に会ってるんだ?」
 真ん中に入った学生の問いに、よくぞ聞いてくれたとばかりに丸山は得意になる。
「あんな厳ついおっさん、滅多にいないぜ? 平野さんに命令形で話すから、なんか可哀想でさ」
 命令形? 言われれば確かに、表向きはそんな言葉かも知れない。けれど茜は今まで、秀一に命令されたなんて思ったことはない。
「いるねえ、偉そうな親父。でも本人がいいんなら、別にいいんじゃない? 平野さんなら、もっと選べるんじゃないかとは思うけど」
「そうだろ? 逃げられるうちに逃げとけば、介護の為に結婚されちゃったようなもんじゃないか」
「そりゃ、さすがに言い過ぎ……」
 苦笑した学生が丸山をどうにか収めようとしているのは、茜にも理解できる。せっかく自分のために送別会を開いてもらって、ここでこれ以上剣を立ててはいけないのだと思うのだが、悔しいには違いない。

「でもさ、確かに四十過ぎて二十歳前の嫁ってのは犯罪だよなあ」
「そうだろ? 高校卒業してすぐなんて、中年にもなれば言いくるめるのも楽だろうから」
「男のロマンだなあ。俺も高校生くらいなら騙せそ……」
「騙されてなんかないわよっ! 私が結婚したかったんだからっ!」
 茜の剣幕に、学生はすぐに言葉を撤回したが、一応の同意者がいると見た丸山は、逆に調子付いた。
「ほら、そんな風に思い込ませるのも簡単だっただろうね。老後は心配だし女に飢えてるし、いいカモだったんじゃないの?」
 悔しい悔しい悔しい。なんでこんなこと言われなきゃならないの?
「そんなに年が離れてるのに、奥さんが外で働かなくちゃならないなんて、貯金もないんだろ。酒とキャバクラにでも注ぎ込んでさ。金がかかるキャバクラより、家に若い女がいれば金かかんないもんな」
「おい、ちょっと言い過ぎてるぞ。平野さん、泣いちゃってるじゃないか」
 酔った感情は、振り幅が大きい。言い返しきれない悔しさの他にも、言われた言葉の中で考えたことがある。
 ―――私と秀さんが不似合だって言ってるんだ。だから秀さんが悪者みたいに言われてる。私と結婚したから。私と結婚なんてしたせいで、言われなくてもいいこと言われてる!
 酔っぱらいの三段論法である。

「なんでそんなこと、言われなくちゃいけないのぉ……」
 茜の涙声に、女の子たちの非難の目が丸山と学生に向く。
「主役いじめてどうすんのよっ! これから気持ち良く新しい職場に行こうって人に!」
 さすがに学生も丸山も、居心地の悪そうな顔になった。
「大丈夫? 平野さん。あんな奴等の言うことなんて、気にしちゃダメだよ。平野さんが可愛いから、ちょっかい出してるだけなんだから」
「私が悪いの? 秀さんと一緒に住みたかっただけなのにぃ」
 昂ぶった感情が、急激な酔いを連れてくる。
「悪くなんてないよ。好きな人と一緒に住んでて、平野さんは幸せなんだよね? ラブラブな新婚生活してるんだもんね」
 あやすように言う女の子の声は、耳に入らない。
「私となんて結婚したから、極悪人みたいに言われるんだ。奨学金自分で返すって働いたりすると、秀さんが私に貧乏させてるように見えるなんて、知らなかったんだもん。秀さん、ごめんなさぁい」
「そんなこと、誰も思ってないから……ねえちょっと、あんたたち何言ったの?」
 泣きじゃくっている茜には破綻のない論理だが、傍から見れば酔っぱらいの過剰反応である。腹を立てて言い返しているうちに、自分の内側に篭ってしまっている。
「ね、滅多にない宴会なんだから、楽しくしよ?」
 ここで更に、宥め役は間違いを犯した。茜に飲み口の良い、甘い酒を差し出したのだ。

「秀さんに会いたい」
 そう言い出したのは、泣き止んでから五分も経っていなかった。
「一緒に住んでるんでしょ?家に帰ればいるじゃない」
 毎日一緒に寝起きしている人間に、わざわざ会いたがるのはおかしい。
「秀さんに会いたいのぉ! 秀さんは私が困ってれば、必ず助けてくれるんだもん。丸山のバカになんて、負けないんだもん」
 話が元に戻り、丸山がぎょっとした後に、慌てて目を逸らした。

 バッグからスマートフォンを取り出し、秀一の携帯電話を呼び出すまでに、三度落っことした。
「あーあ、こりゃ確かにひとりでは帰せないわ。迎えに来てもらったほうがいいかもね」
 誰かが言い、丸山がこそこそと帰り支度をはじめる。
「ちょっとっ! 逃げないでよ、迎えに来れなかったら責任とって、あんたたちが送るんだから」
 その間に、茜が危なっかしい手つきでスマートフォンを操作し、数秒待って話しはじめる。
「しゅう、さぁん……私のこと、ちゃんと奥さんだって言ったよ、ね?……バカじゃないもん。寂しくなっちゃった、んだもん」
 ひっく、とひとつ、しゃくりあげた。
「酔っぱらってなーいーっ! 秀さんの奥さんが私って、ヘンじゃないよ、ね?……うん……やっ!切っちゃダメっ!」
 自分で感嘆符のついた言葉を発したくせに、茜の手からスマートフォンが、ことりと落ちた。
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