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第一部:王国追放と聖域保護同盟
第7話 村の感謝祭と、神獣様の大盤振る舞い
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森の聖域での暮らしは、日に日にその輝きを増していた。
朝、目覚めてすぐにラピスの喉元をブラッシングするのが、今の私の最も大切な日課だ。
指先が沈み込むほどに高密度で、シルクのように滑らかな黒い毛並み。丁寧にブラシを通すたびに、そこから星屑のような光の粒子がこぼれ落ち、私の手までが清らかな魔力で満たされていく。この贅沢な温もりに触れているだけで、王宮で凍えながら祈っていた数年間が、まるで遠い過去の霧の中に消えていくようだった。
そんな、穏やかな午後のことだった。
森の境界線付近から、ざわざわと大勢の足音が近づいてくるのを感じた。
「あら……? また、あの方たちが来たのかしら」
思わず身構える私。けれど、膝の上でくつろいでいたラピスは、警戒するどころか「やれやれ」といった様子で退屈そうにあくびを漏らした。
やがて、光り輝く境界線を越えて現れたのは、凶器を携えた騎士たちではなく――素朴な服を着た、村の人々だった。
先頭には村長のガストン様。その後ろには、働き盛りの男女から、はしゃぎ回る子供、杖をついたお年寄りまで、三十人近い村人たちが列をなしていた。
「エリアナ様! 突然押し掛けてしまい、申し訳ございません!」
ガストン様が私の前に跪くと、後ろの村人たちも一斉に、柔らかな花の絨毯の上に膝をついた。
その光景は、王宮で行われるどんな厳粛な式典よりも誠実な、熱い感謝の念に満ちていた。
「村長様、皆様! そんな、頭を上げてくださいな。何かお困りごとがあったのですか?」
私が慌てて駆け寄ると、ガストン様は顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめた。
「いえ、逆でございます! 先日いただいたあのパンを一口食べただけで、病に伏せっていた老婆が立ち上がり、視力の弱かった子供の目がはっきりと見えるようになったのです。村中の者たちが、まるで見違えるように元気になり……。我ら一同、あなた様への感謝を伝えずにはいられなかったのです!」
「まあ……。きっと、皆様の生命力が強かったのね。お役に立てたなら嬉しいですわ」
私が微笑むと、村人たちの間から
「おお……」
「なんと慈悲深い……」
と、祈るような溜め息が漏れた。
彼らは手に手に持っていた大きな籠や布包みを、テラスの前に恭しく並べ始めた。
「これは、村で採れた一番良い野菜です。土の香りが自慢でございます。エリアナ様、どうぞお受け取りください!」
「私からは、一生懸命に織った丈夫な布を! あなた様の美しい髪の色に似合うと思って染めました!」
差し出されたのは、泥のついた大根や、色鮮やかな手織りの布、冬を越すためのよく乾いた薪。
どれもが、私を「便利な道具」ではなく「一人の女性」として慈しみ、贈られたものだった。
王都にいた頃、私は常に「与える側」だった。魔力を与え、結界を与え、平穏を与え――けれど、返ってくるのは不満や、さらなる要求ばかり。
自分のために誰かが汗を流し、その成果を贈ってくれる。
そんな、あたりまえの温かさが、私の胸を熱く締め付けた。
「ありがとうございます。皆様……こんなにたくさん。大切に使わせていただきますね」
私が愛おしそうに泥のついた野菜を手に取り、村人たちに満面の笑みを向けた、その時だった。
「……ぐぬ、ぬぅ」
足元から、地響きのような低い唸り声が聞こえた。
見下ろすと、ラピスがとんでもなく不機嫌そうな顔で、村人たちの贈り物を睨みつけていた。
ラピスは、私が土のついた大根を「宝物」のように抱きしめている姿と、それを贈った村人に向けた私の笑顔をじっと見比べている。
そして、自分が昨日獲ってきた獲物を褒められた時以上の「輝くような笑顔」を私が他部族(人間)に向けたことに、神獣としてのプライドを完膚なきまでに傷つけられたらしい。
(……僕が用意した家や聖水よりも、そんな泥だらけの草の方が嬉しいのか!?)
ラピスはショックを受けたように耳をぺたんと伏せ、私の視界を遮るように大根の前に立ちふさがった。そして、私を一瞥すると、悔しさに震える背中を見せて、風のような速さで森の深淵へと消えてしまった。
「ラピス? どうしたの、嫉妬しちゃったのかしら」
私が困惑していると、わずか数分後。
森の奥から、凄まじい「威圧感」を纏ったラピスが戻ってきた。
彼は何か、眩い光を放つ大きな布袋を、必死に口にくわえていた。
それをテラスの上に「どさっ!」と無造作に置くと、ラピスは村人たちの贈り物を一瞥し、これ見よがしに鼻を鳴らした。
袋の中からこぼれ落ちたのは、拳ほどもある深紅の魔石の塊や、伝説の竜が脱皮した際に落としたとされる純銀の鱗、さらには一振りで城が建つ価値があると言われる、幻の霊草の根っこだった。
「……あ、あの。ラピス? これ、どこから持ってきたの?」
私が呆然として問いかけると、ラピスは「ふん!」と鼻を鳴らし、ガストン様を鋭い金の瞳で射抜いた。
その瞳は、『これこそが主に相応しい貢ぎ物だ。身の程を知れ』と静かに宣告していた。
ガストン様と村人たちは、あまりの衝撃に言葉を失い、その場に固まってしまった。
元騎士であるガストン様は、その「銀の鱗」が、一国の防衛網を紙切れのように無効化する伝説の触媒であることを本能で理解し、全身の血の気が引いていた。
けれど、当の私は首を傾げる。
「ふふ、ありがとう。でも、私には村の皆様がくれたお野菜の方が、ずっと助かるわ。ラピス、このピカピカの石は、お鍋に入れても柔らかくならなさそうだもの」
私がそう言ってラピスの頭を撫でると、彼は「えっ」という絶望の表情を浮かべて固まってしまった。
最強の神獣が、泥のついた野菜に敗北した瞬間だった。
その様子があまりに人間臭くて愛らしく、村人たちの間からも、少しずつ緊張が解けたような温かな笑みが漏れ始めた。
*
「では、エリアナ様。また何か必要なものがございましたら、いつでも使いをやってください。我らは死ぬまで、あなた様の味方です」
ガストン様たちは、何度も何度も振り返り、私への感謝を祈りのように唱えながら帰っていった。
村へ持ち帰られた私のパンの効果で、今やこの辺境の村は、王国で最も健康で、活気にあふれた奇跡の村になりつつある。
一方で、その王国。
ジークフリート王子は、王宮の冷え切った自室で、震える手で黒ずんだパンを口に運んでいた。
かつては最高級の食材が並んでいた王宮の食卓だが、今は物流が完全に止まり、王族ですら満足な食事が摂れなくなっていた。
一口噛むたびに、喉を刺すような苦味と、嫌な酸味が広がる。
「……なんだ、この不快な味は。王宮の食事が、なぜこれほどまでに……」
王子は不意に、エリアナがいた頃の「空気」を思い出しかけた。
彼女がいるだけで、この国には常に微かな花の香りが漂い、食事はいつまでも瑞々しく、何より、夜を恐れる必要がなかった。
「もしかして、俺たちは……」
あるはずのない疑念が脳裏をよぎる。だが、彼はそれを即座に否定した。
「いや、あんな無能がこれほどの影響を与えるはずがない。すべては、運が悪いだけだ……!」
自らに言い聞かせる王子の足元では、かつて鮮やかだった絨毯が、まるで呪われたようにボロボロに朽ち果てていた。
彼はまだ理解していない。自分が捨てたのが、この国の「生命そのもの」であったことに。
*
「ラピス、この石も飾っておくわね。重石にするには、ちょっと立派すぎるけれど」
私は、ラピスが持ってきた「伝説の秘宝」を、テラスに干したシーツが飛ばされないための重石代わりに置いた。 ラピスはまだ少し拗ねた様子で、私の膝の上で背中を向けていたけれど、私がとびきりのブラッシングを始めると、すぐに幸福そうに目を細めて「ぐう、ぐう」と喉を鳴らした。
「皆様からいただいたお野菜で、今日は温かいシチューを作りましょうか。きっと、今まで食べた何よりも美味しいわね」
私がそう呟くと、ラピスは満足げに、私の腕の中で一鳴きした。
辺境の森に、ふわりと温かなスープの香りが漂い始める。
私を捨てた国が、今、取り返しのつかない終焉を迎えようとしていることなんて。 幸せな大根の皮を剥く私の手には、もう一欠片も関係のないことだった。
朝、目覚めてすぐにラピスの喉元をブラッシングするのが、今の私の最も大切な日課だ。
指先が沈み込むほどに高密度で、シルクのように滑らかな黒い毛並み。丁寧にブラシを通すたびに、そこから星屑のような光の粒子がこぼれ落ち、私の手までが清らかな魔力で満たされていく。この贅沢な温もりに触れているだけで、王宮で凍えながら祈っていた数年間が、まるで遠い過去の霧の中に消えていくようだった。
そんな、穏やかな午後のことだった。
森の境界線付近から、ざわざわと大勢の足音が近づいてくるのを感じた。
「あら……? また、あの方たちが来たのかしら」
思わず身構える私。けれど、膝の上でくつろいでいたラピスは、警戒するどころか「やれやれ」といった様子で退屈そうにあくびを漏らした。
やがて、光り輝く境界線を越えて現れたのは、凶器を携えた騎士たちではなく――素朴な服を着た、村の人々だった。
先頭には村長のガストン様。その後ろには、働き盛りの男女から、はしゃぎ回る子供、杖をついたお年寄りまで、三十人近い村人たちが列をなしていた。
「エリアナ様! 突然押し掛けてしまい、申し訳ございません!」
ガストン様が私の前に跪くと、後ろの村人たちも一斉に、柔らかな花の絨毯の上に膝をついた。
その光景は、王宮で行われるどんな厳粛な式典よりも誠実な、熱い感謝の念に満ちていた。
「村長様、皆様! そんな、頭を上げてくださいな。何かお困りごとがあったのですか?」
私が慌てて駆け寄ると、ガストン様は顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめた。
「いえ、逆でございます! 先日いただいたあのパンを一口食べただけで、病に伏せっていた老婆が立ち上がり、視力の弱かった子供の目がはっきりと見えるようになったのです。村中の者たちが、まるで見違えるように元気になり……。我ら一同、あなた様への感謝を伝えずにはいられなかったのです!」
「まあ……。きっと、皆様の生命力が強かったのね。お役に立てたなら嬉しいですわ」
私が微笑むと、村人たちの間から
「おお……」
「なんと慈悲深い……」
と、祈るような溜め息が漏れた。
彼らは手に手に持っていた大きな籠や布包みを、テラスの前に恭しく並べ始めた。
「これは、村で採れた一番良い野菜です。土の香りが自慢でございます。エリアナ様、どうぞお受け取りください!」
「私からは、一生懸命に織った丈夫な布を! あなた様の美しい髪の色に似合うと思って染めました!」
差し出されたのは、泥のついた大根や、色鮮やかな手織りの布、冬を越すためのよく乾いた薪。
どれもが、私を「便利な道具」ではなく「一人の女性」として慈しみ、贈られたものだった。
王都にいた頃、私は常に「与える側」だった。魔力を与え、結界を与え、平穏を与え――けれど、返ってくるのは不満や、さらなる要求ばかり。
自分のために誰かが汗を流し、その成果を贈ってくれる。
そんな、あたりまえの温かさが、私の胸を熱く締め付けた。
「ありがとうございます。皆様……こんなにたくさん。大切に使わせていただきますね」
私が愛おしそうに泥のついた野菜を手に取り、村人たちに満面の笑みを向けた、その時だった。
「……ぐぬ、ぬぅ」
足元から、地響きのような低い唸り声が聞こえた。
見下ろすと、ラピスがとんでもなく不機嫌そうな顔で、村人たちの贈り物を睨みつけていた。
ラピスは、私が土のついた大根を「宝物」のように抱きしめている姿と、それを贈った村人に向けた私の笑顔をじっと見比べている。
そして、自分が昨日獲ってきた獲物を褒められた時以上の「輝くような笑顔」を私が他部族(人間)に向けたことに、神獣としてのプライドを完膚なきまでに傷つけられたらしい。
(……僕が用意した家や聖水よりも、そんな泥だらけの草の方が嬉しいのか!?)
ラピスはショックを受けたように耳をぺたんと伏せ、私の視界を遮るように大根の前に立ちふさがった。そして、私を一瞥すると、悔しさに震える背中を見せて、風のような速さで森の深淵へと消えてしまった。
「ラピス? どうしたの、嫉妬しちゃったのかしら」
私が困惑していると、わずか数分後。
森の奥から、凄まじい「威圧感」を纏ったラピスが戻ってきた。
彼は何か、眩い光を放つ大きな布袋を、必死に口にくわえていた。
それをテラスの上に「どさっ!」と無造作に置くと、ラピスは村人たちの贈り物を一瞥し、これ見よがしに鼻を鳴らした。
袋の中からこぼれ落ちたのは、拳ほどもある深紅の魔石の塊や、伝説の竜が脱皮した際に落としたとされる純銀の鱗、さらには一振りで城が建つ価値があると言われる、幻の霊草の根っこだった。
「……あ、あの。ラピス? これ、どこから持ってきたの?」
私が呆然として問いかけると、ラピスは「ふん!」と鼻を鳴らし、ガストン様を鋭い金の瞳で射抜いた。
その瞳は、『これこそが主に相応しい貢ぎ物だ。身の程を知れ』と静かに宣告していた。
ガストン様と村人たちは、あまりの衝撃に言葉を失い、その場に固まってしまった。
元騎士であるガストン様は、その「銀の鱗」が、一国の防衛網を紙切れのように無効化する伝説の触媒であることを本能で理解し、全身の血の気が引いていた。
けれど、当の私は首を傾げる。
「ふふ、ありがとう。でも、私には村の皆様がくれたお野菜の方が、ずっと助かるわ。ラピス、このピカピカの石は、お鍋に入れても柔らかくならなさそうだもの」
私がそう言ってラピスの頭を撫でると、彼は「えっ」という絶望の表情を浮かべて固まってしまった。
最強の神獣が、泥のついた野菜に敗北した瞬間だった。
その様子があまりに人間臭くて愛らしく、村人たちの間からも、少しずつ緊張が解けたような温かな笑みが漏れ始めた。
*
「では、エリアナ様。また何か必要なものがございましたら、いつでも使いをやってください。我らは死ぬまで、あなた様の味方です」
ガストン様たちは、何度も何度も振り返り、私への感謝を祈りのように唱えながら帰っていった。
村へ持ち帰られた私のパンの効果で、今やこの辺境の村は、王国で最も健康で、活気にあふれた奇跡の村になりつつある。
一方で、その王国。
ジークフリート王子は、王宮の冷え切った自室で、震える手で黒ずんだパンを口に運んでいた。
かつては最高級の食材が並んでいた王宮の食卓だが、今は物流が完全に止まり、王族ですら満足な食事が摂れなくなっていた。
一口噛むたびに、喉を刺すような苦味と、嫌な酸味が広がる。
「……なんだ、この不快な味は。王宮の食事が、なぜこれほどまでに……」
王子は不意に、エリアナがいた頃の「空気」を思い出しかけた。
彼女がいるだけで、この国には常に微かな花の香りが漂い、食事はいつまでも瑞々しく、何より、夜を恐れる必要がなかった。
「もしかして、俺たちは……」
あるはずのない疑念が脳裏をよぎる。だが、彼はそれを即座に否定した。
「いや、あんな無能がこれほどの影響を与えるはずがない。すべては、運が悪いだけだ……!」
自らに言い聞かせる王子の足元では、かつて鮮やかだった絨毯が、まるで呪われたようにボロボロに朽ち果てていた。
彼はまだ理解していない。自分が捨てたのが、この国の「生命そのもの」であったことに。
*
「ラピス、この石も飾っておくわね。重石にするには、ちょっと立派すぎるけれど」
私は、ラピスが持ってきた「伝説の秘宝」を、テラスに干したシーツが飛ばされないための重石代わりに置いた。 ラピスはまだ少し拗ねた様子で、私の膝の上で背中を向けていたけれど、私がとびきりのブラッシングを始めると、すぐに幸福そうに目を細めて「ぐう、ぐう」と喉を鳴らした。
「皆様からいただいたお野菜で、今日は温かいシチューを作りましょうか。きっと、今まで食べた何よりも美味しいわね」
私がそう呟くと、ラピスは満足げに、私の腕の中で一鳴きした。
辺境の森に、ふわりと温かなスープの香りが漂い始める。
私を捨てた国が、今、取り返しのつかない終焉を迎えようとしていることなんて。 幸せな大根の皮を剥く私の手には、もう一欠片も関係のないことだった。
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