秋月の鬼

凪子

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九、

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「そなたはなぜ、俺の嫁になりにきたのだ」

急速に現実に引き戻され、常盤ははっとした。

沈思黙考する間にも、京次郎の視線は放たれる前の弓のごとく引き絞られている。

「何もかもが嫌になったのでございます」

指をつき、常盤は明確に述べた。

「綺麗な着物を着て、美味しい食べ物をお腹いっぱいに食べて、上様の寵愛を頂き、何も考えずに安穏と暮らす未来が欲しいのです。もうたくさんなのです。身を切るような冷たい水で洗濯をするのも、日照りの農作業も、隙間風の吹く家も、爪の間にこびりついた泥も、何もかもが」

京次郎は目を瞠ったかと思うと、愉快そうに笑いだした。

「これはこれは。随分と正直者だな。俺に惚れたと言わぬのか」

「初めて会うた相手に愛を誓われても、薄気味悪いだけでしょう」

ざっくばらんに常盤は言う。

「ひと目会っただけでは、人の本質は分からぬものです。何も知らず好きだと言われても、ただ容色の良さに惚れたと底の浅さを見透かされるだけ。そのように思われるのは不本意です。わたくしは、生涯かけて上様を愛し抜く所存にございますゆえ」

「俺がそなたを愛する保証はどこにもないぞ」

「愛さぬ相手のほうが都合が良いのではありませんか?」

核心を突かれてか、京次郎はややたじろいだ。

「本当に守りたい者、喪いたくない者は、それだけ弱点となり得ます。他者につけ入る隙を作らぬため、愛する者は傍に置かないとお決めになっているのでしょう」

明察ぶりに、京次郎は舌を巻いた。

「分かっていてなお、俺に嫁ぐか。愛されることはなく、利用されるだけでも構わぬというのだな。それほど餓えた暮らしが嫌か」

「はい」

いっそ清々しいほどに常盤は言い切った。

「少なくともわたくしは、自分の意思でここへ参りました。何の思惑もしがらみもなく、誰かの傀儡でもない。わたくし自身の足で、わたくし自身のために来たのです。
鎖で繋がれた花嫁に、何の価値がありましょうや。このとおり何も持たぬ身軽な体ゆえ、上様の重荷にならぬことだけはお約束いたします」

京次郎は喉を鳴らして笑った。

「面白い娘だ。俺が怖くないのか?秋月の鬼との呼び名、知らぬわけではあるまいに」

「おたわむれを」

常盤はくすりと笑うと、返す刀で、

「上様は秋月の鬼ではありませぬ」

京次郎は息を呑んだ。

目の前にちょこんと座る少女を、不可解な化け物でも見るように凝視する。

「……何を知っている」

常盤は涼しい顔で微笑を浮かべて黙っている。

京次郎の瞳が不穏に揺らめいた。

障子の外に滲む闇に目を凝らし、目まぐるしく頭を回転させる。

「そなた、ただ俺に嫁ぎに来ただけではないな」

否とも応とも答えぬ常盤を前に、顎に手をかけてぐいと持ち上げられ、京次郎の深い瞳が迫る。

「上様こそ」

常盤は大胆にその目を覗き込んだ。

「本気で嫁御を娶るために、わたくし達をお集めになったわけではありますまい」

京次郎は目をしばたたかせていたかと思うと、やがてふっと口元を緩めた。

「そなたの本当の望みは何だ」

息のかかる距離で、常盤は気丈な面持ちで言った。

「わたくしに真実をお教えください」

京次郎の目にわずかの間浮かんだ苦渋と、すさまじい速さで顔の上を横切る無数の追想を、見逃すまいと常盤は目を凝らした。























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