『使い捨てられた補助スキル持ち、迷宮の主になって制服妖怪と学園祭を始める』

葉月奈津・男

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全年齢対応・表現マイルドバージョン

第34話 ◆稲田みずほ(泥田坊)視点◆ ~わたしは、まだ、わたしだ~

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 あの時、『私』は動けなかった。
 泥の中に足を取られていたわけじゃない。
 ただ・・・怖かった。

 最初に沈んだのは、笑顔ばかり見せていたあの子だった。
「大丈夫だよ」って言って、みんなの前に立った。
 でも、死の手は容赦なく、その足を掴んで引きずり込んだ。
 叫び声は、すぐに泡になって消えた。

 次に倒れたのは、いつも冷静だったあの人。
「退いて、体勢を立て直す」
 そう言った瞬間、背後から死の腕が伸びて、命を穿った。

『腕』の持ち主が何だったのかは覚えていない。
 ただ、私はその時すでに悟っていた。

「ああ、ここで死ぬんだな」って。

 命を穿たれた仲間。
 恐怖と絶望に見開かれた目が、私を見ていた。
 何か言いたそうだった。
 でも、言葉になる前に沈んでいった。

 私は見ていた。
 全部、見ていた。
 声も出せず、手も伸ばせず。
 ただ、泥の中で立ち尽くしていた。

 最後に残ったのは、私だけだった。
 仲間たちの声が、泥の底から響いてくる。
「なぜ助けなかった?」「なぜ逃げた?」「なぜ・・・わたしを見捨てた?」

 違う。違うんだ。
 助けたかった。
 逃げたかったわけじゃない。
 でも、身体が動かなかった。
 心が、沈んでいた。

 その瞬間から、『わたし』は人ではなくなっていた。
 人であることをやめたのは、あの時。
 仲間を守れなかった私が、仲間の魂を背負って生きることになった。

 ううん。
 違うね。
 本当はわかっている。

 人間を辞めたのは、後輩の『彼』を送り出した時。
 死地と知っている場所に、そうとは告げずに。

 送り出した、あの時。
 その方針を聞いて口を噤んだ、あの時だ。

 すでに、仲間を。
 年下の男の子を見捨てていたのだ。

 どんな顔をして、他の人を助けたらいい?
 助ける相手と、見捨てる相手の境界はどこ?

 わからなくなっていた。
 だから、動けなかったのだ。

 泥の中で、わたしはまだあの『時』を繰り返している。
 何度も、何度も。


 あの声がまた、背中から響く。
『おまえはもう人じゃない。『妖怪』だ。彼らを喰らえ』

 ・・・違う。
 違うよ。
 わたしは、まだ・・・私でいられる。

 泥に沈んだ仲間たちの声が、耳元で囁く。
 優しかった笑い声も。
 泣きながら叫んだ声も。
 全部、わたしの中にある。

 でも、身体はもう違う。
 指先は冷たく、泥のように重い。

 目を閉じれば、彼らの顔が浮かぶ。
 わたしを信じてくれた人たち。
 その人たちを、今、傷つけろと命じられてる。

 わたしは『妖怪』。
 そして『モンスター』。
 でも、わたしは・・・私のままでいたい。

 この泥の中で、せめて心だけは沈まないように。
 仲間の魂を背負って、わたしは抗う。
 この声に、命令に、運命に。

 わたしは、まだ、私だ。


 風が吹いた。
 ・・・いや、風じゃない。

 泥の中から、誰かの息が這い上がってきた。
 足の下のウシガエルが、静かに鳴く。
 その声は、かつての仲間のひとりが好きだった音に似ていた。

「・・・まだ、ここにいるよ」
 誰かが言った気がした。

 泥の手が、わたしの背後で放射状に広がる。
 その一本一本が、かつての名前を持っていた。

 あの子の手。
 あの人の手。
 わたしを守ろうとしてくれた手。
 今は、わたしを引きずり込もうとしている。

「おまえが拒めば、彼らは苦しむ」
 命令の声が、泥の壁に反響する。
 わたしの胸が、ぎゅっと締めつけられる。

 制服の泥はもう乾いて、ひび割れている。
 それでも、わたしは動けない。

 ・・・でも、ウシガエルがもう一度鳴いた。
 その音に、わたしの心が少しだけ揺れた。

「わたしは、まだ、わたしだ」
 小さく、でも確かにそう呟いた。

 泥の手が一瞬、止まった気がした。
 泥の手が、わたしの名前を呼ぶのをためらっているようだった。

 その隙間に、わたしは息を吸った。
 重い空気の中で、ほんの少しだけ、光が差した気がした。


 「泥田坊『稲田みずほ』ちゃんゲットぉ!」
 見捨てたはずの後輩が、『彼』が、そこにいた。
 驚愕に心が揺れて、泥の中に溶けていく。

 ああ。
 これは復讐。
 『私』たちはみんな、泡となって消えていくのだ。

 誰一人、光の下には帰れない。

 泥の手が、『彼』の足元に伸びた。
 でも、『わたし』は目を閉じていた。
 その手の、名前を思い出さないように。
      
 「お帰り。そして、初めまして。『みずほ』」
 『彼』はもう、『後輩』ではない。
 『わたし』の『迎え火』。
  その灯りは、わたしが見捨てたはずの未来だった。

 その灯りが、『わたし』を呼び戻し。
 泥の底にいた『私』を、もう一度照らし出す。

 その灯りは、ぬくもりを持っていた。
 泥の冷たさを、ほんの少しだけ溶かすような

 いつか、その灯は『還り道』をも照らすのだろうか?
 その問いに答える者はいない。

 だけど、信じよう。
 その灯りは、わたしの名前を呼ぶために灯された。
 忘れられた声を、もう一度思い出すために。

「わたしは、まだ、わたしだ」
 小さく、そう呟いた。
 その道があるなら、わたしは歩いてみたい。
 泥の足でも、きっと。
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