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2話
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龍崎慎一郎の入院生活二日目は、最悪の気分で幕を開けた。
慣れない病院のベッドは、極道の若頭として常に神経を研ぎ澄ませてきた男にとって、あまりに無防備すぎる場所だった。
昨夜は結局、あの『佐々木陽太』という看護師の笑顔と、触れられた額の熱が頭から離れず、まともに眠ることもできなかった。
「……おい」
病室のドアが開くと同時に、龍崎は低く鋭い声を放った。
入ってきたのは、部下の鮫島だ。果物籠を手に、恐縮した様子で頭を下げる。
「若頭、お目覚めですか。体調はいかがでしょうか」
「最悪だ。鮫島、すぐに退院の手続きを取れ。こんな場所に一日中寝ていられるか」
龍崎が苛立ちを隠さず吐き捨てると、鮫島は困ったように眉を八の字にした。
「そうおっしゃると思いまして、主治医の先生に掛け合ったのですが……。あの、担当の看護師さんに、死ぬ気で止められまして」
「担当の、看護師だと?」
その言葉に、龍崎の脳裏に昨日見たあのふわふわとした茶髪が浮かぶ。
途端に、また胸の奥が騒がしくなるのを感じ、龍崎は慌ててシーツを握りしめた。
「ええ。『あんな重傷で外に出るなんて、自殺行為です! 僕が許可しません!』って、すごい剣幕で言われちまいまして。いやあ、最近の若い看護師さんは肝が据わってますね」
鮫島が呑気に感心していると、背後のドアが勢いよく開いた。
「おはようございます、龍崎さん! あ、お連れ様もこんにちは」
噂をすれば影。
佐々木陽太が、台車に朝食を載せて明るい声を上げながら入ってきた。
朝の光を浴びたその姿は、昨日よりもさらに眩しく、龍崎は思わず目を細める。
「佐々木、と言ったか。貴様、俺の退院を邪魔したらしいな」
龍崎が射抜くような視線を向けるが、陽太は全く動じない。
それどころか、彼はトレイを龍崎の目の前にセッティングしながら、ニコニコと笑っていた。
「邪魔だなんて人聞きが悪いですよ。命を守るための正当な判断です。さあ、朝ごはんですよ。しっかり食べて体力をつけないと」
差し出されたのは、質素な病院食だ。
龍崎はそれを一瞥し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「こんなもの、食えるか。俺はステーキと酒を持ってこいと言ったはずだ」
「言ってませんし、出せません。龍崎さん、傷口を縫ってるんですよ? アルコールなんて論外です。はい、あーん……は無理でも、自分で食べられますよね?」
陽太が箸を差し出す。その距離が、またしても近い。
龍崎のパーソナルスペースなどお構いなしに、陽太はベッドの縁に腰をかけんばかりの距離まで踏み込んでくる。
「……近すぎる。離れろ」
「えー、血圧測るときはもっと近づきますよ? ほら、好き嫌いしないで食べてください。あ、焼き魚、骨取ってあげましょうか?」
陽太はそう言うと、本当に龍崎の皿の魚を器用に解し始めた。
その様子を隣で見ていた鮫島が、驚愕のあまり目を見開いている。
あの『死神』と恐れられる龍崎慎一郎に対して、ここまで子供扱いをする人間など、この世に一人も存在しないからだ。
「おい、鮫島。何を見ている。とっとと失せろ」
「は、はい! では、若頭、また夕方に!」
鮫島は逃げるように去っていった。
病室に残されたのは、威圧感を放ち続ける巨躯のヤクザと、甲斐甲斐しく魚をほぐす小柄な看護師だけだ。
沈黙が流れる中、龍崎は自分の中で巻き起こっている「嵐」を鎮めるのに必死だった。
陽太が動くたび、かすかに漂う柔軟剤のような清潔な匂い。
細い指先が、箸を操る滑らかな動き。
時折、真剣な表情で唇を尖らせるその横顔。
――これは、敵の策謀ではないのか。
龍崎は真剣に考えた。
これほどまでに俺の調子を狂わせ、動悸を引き起こす男。
もしや、特殊な訓練を受けた暗殺者か何かなのではないか。
毒を使わず、精神的な攪乱によって、俺の心臓に負担をかけて殺そうとしている……。
「……おい、貴様。一体どこの差し金だ」
「え? さしがね? ああ、派遣じゃなくて、僕はここの正職員ですよ」
陽太はとんちんかんな答えを返し、ほぐし終えた魚の一片を龍崎の口元へ運んできた。
「はい、どうぞ。美味しいですよ」
「なっ……貴様、俺に食わせるつもりか!?」
「手が痛むんでしょう? 遠慮しなくていいですよ。看護師ですから、これくらい日常茶飯事です」
陽太の瞳には、打算も恐怖も、微塵も感じられない。
ただただ、目の前の患者を救いたいという純粋な献身だけがそこにある。
それが一番、龍崎にとってタチが悪かった。
拒絶しようとしたはずの唇が、無意識に開く。
陽太が差し出した魚が口の中に滑り込んだ。
噛みしめると、薄味のはずの病院食が、なぜかひどく甘美なものに感じられた。
「美味しいですか?」
陽太が嬉しそうに顔を綻ばせる。
その笑顔を見た瞬間、龍崎の心臓は、昨夜以上の速度で跳ねた。
もはや「病気」という言葉だけでは説明がつかないほどの衝撃。
「……っ、もういい。後は自分で食う」
龍崎は陽太から奪い取るように箸を持つと、猛然と食事を口に運び始めた。
そうでもしていなければ、この狂おしいほどの動悸が、佐々木に悟られてしまいそうだったからだ。
「わあ、食欲が出てきたみたいで良かったです。やっぱり食べなきゃダメですよね」
陽太は満足そうに頷き、龍崎の様子を観察している。
その視線が痛い。
龍崎は内心で、「早く出ていけ」と念じる一方で、この時間が終わらなければいいという、矛盾した感情を抱き始めていた。
食後の診察が始まると、陽太は手慣れた様子で龍崎の寝間着のボタンに手をかけた。
「おい、何を……」
「傷口のチェックですよ。包帯、取り替えますね」
無造作に胸元を寛げられ、龍崎は息を止める。
鍛え抜かれた筋肉に刻まれた、無数の古傷。
陽太の指が、それらの傷跡に触れないよう、慎重に、かつ優しく新しいガーゼを当てていく。
陽太の吐息が、龍崎の剥き出しの肌にかかる。
そのあまりの近さに、龍崎は目眩を覚えた。
「……龍崎さん、やっぱり心拍数が速いですね。血圧も高めです。さっきの『持病』、一度詳しく検査したほうがいいかもしれません」
陽太は真剣な顔で龍崎を見上げた。
その距離、わずか十センチ。
陽太の瞳の中に、動揺を隠しきれない自分の顔が映っている。
「……放っておけと言ったはずだ」
「放っておけません。僕は龍崎さんの担当なんですから」
きっぱりと言い放つ陽太。
その「担当」という言葉が、龍崎の耳にはなぜか「お前は俺のものだ」という宣言のように響いた。
そんなはずはない。これはただの仕事だ。
自分は極道で、彼はカタギ。
住む世界が違う。
だが、この不敵なナースが放つ不思議な引力に、龍崎は抗う術を持っていなかった。
「……好きにしろ」
龍崎は力なくそう呟き、腕で顔を覆った。
自分の顔が、今、どれほど熱く赤くなっているかを知るのが怖かった。
佐々木陽太。
この無防備な男こそが、龍崎慎一郎にとって、銃弾よりも恐ろしい「劇薬」になることを、彼はまだ認めたくなかった。
慣れない病院のベッドは、極道の若頭として常に神経を研ぎ澄ませてきた男にとって、あまりに無防備すぎる場所だった。
昨夜は結局、あの『佐々木陽太』という看護師の笑顔と、触れられた額の熱が頭から離れず、まともに眠ることもできなかった。
「……おい」
病室のドアが開くと同時に、龍崎は低く鋭い声を放った。
入ってきたのは、部下の鮫島だ。果物籠を手に、恐縮した様子で頭を下げる。
「若頭、お目覚めですか。体調はいかがでしょうか」
「最悪だ。鮫島、すぐに退院の手続きを取れ。こんな場所に一日中寝ていられるか」
龍崎が苛立ちを隠さず吐き捨てると、鮫島は困ったように眉を八の字にした。
「そうおっしゃると思いまして、主治医の先生に掛け合ったのですが……。あの、担当の看護師さんに、死ぬ気で止められまして」
「担当の、看護師だと?」
その言葉に、龍崎の脳裏に昨日見たあのふわふわとした茶髪が浮かぶ。
途端に、また胸の奥が騒がしくなるのを感じ、龍崎は慌ててシーツを握りしめた。
「ええ。『あんな重傷で外に出るなんて、自殺行為です! 僕が許可しません!』って、すごい剣幕で言われちまいまして。いやあ、最近の若い看護師さんは肝が据わってますね」
鮫島が呑気に感心していると、背後のドアが勢いよく開いた。
「おはようございます、龍崎さん! あ、お連れ様もこんにちは」
噂をすれば影。
佐々木陽太が、台車に朝食を載せて明るい声を上げながら入ってきた。
朝の光を浴びたその姿は、昨日よりもさらに眩しく、龍崎は思わず目を細める。
「佐々木、と言ったか。貴様、俺の退院を邪魔したらしいな」
龍崎が射抜くような視線を向けるが、陽太は全く動じない。
それどころか、彼はトレイを龍崎の目の前にセッティングしながら、ニコニコと笑っていた。
「邪魔だなんて人聞きが悪いですよ。命を守るための正当な判断です。さあ、朝ごはんですよ。しっかり食べて体力をつけないと」
差し出されたのは、質素な病院食だ。
龍崎はそれを一瞥し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「こんなもの、食えるか。俺はステーキと酒を持ってこいと言ったはずだ」
「言ってませんし、出せません。龍崎さん、傷口を縫ってるんですよ? アルコールなんて論外です。はい、あーん……は無理でも、自分で食べられますよね?」
陽太が箸を差し出す。その距離が、またしても近い。
龍崎のパーソナルスペースなどお構いなしに、陽太はベッドの縁に腰をかけんばかりの距離まで踏み込んでくる。
「……近すぎる。離れろ」
「えー、血圧測るときはもっと近づきますよ? ほら、好き嫌いしないで食べてください。あ、焼き魚、骨取ってあげましょうか?」
陽太はそう言うと、本当に龍崎の皿の魚を器用に解し始めた。
その様子を隣で見ていた鮫島が、驚愕のあまり目を見開いている。
あの『死神』と恐れられる龍崎慎一郎に対して、ここまで子供扱いをする人間など、この世に一人も存在しないからだ。
「おい、鮫島。何を見ている。とっとと失せろ」
「は、はい! では、若頭、また夕方に!」
鮫島は逃げるように去っていった。
病室に残されたのは、威圧感を放ち続ける巨躯のヤクザと、甲斐甲斐しく魚をほぐす小柄な看護師だけだ。
沈黙が流れる中、龍崎は自分の中で巻き起こっている「嵐」を鎮めるのに必死だった。
陽太が動くたび、かすかに漂う柔軟剤のような清潔な匂い。
細い指先が、箸を操る滑らかな動き。
時折、真剣な表情で唇を尖らせるその横顔。
――これは、敵の策謀ではないのか。
龍崎は真剣に考えた。
これほどまでに俺の調子を狂わせ、動悸を引き起こす男。
もしや、特殊な訓練を受けた暗殺者か何かなのではないか。
毒を使わず、精神的な攪乱によって、俺の心臓に負担をかけて殺そうとしている……。
「……おい、貴様。一体どこの差し金だ」
「え? さしがね? ああ、派遣じゃなくて、僕はここの正職員ですよ」
陽太はとんちんかんな答えを返し、ほぐし終えた魚の一片を龍崎の口元へ運んできた。
「はい、どうぞ。美味しいですよ」
「なっ……貴様、俺に食わせるつもりか!?」
「手が痛むんでしょう? 遠慮しなくていいですよ。看護師ですから、これくらい日常茶飯事です」
陽太の瞳には、打算も恐怖も、微塵も感じられない。
ただただ、目の前の患者を救いたいという純粋な献身だけがそこにある。
それが一番、龍崎にとってタチが悪かった。
拒絶しようとしたはずの唇が、無意識に開く。
陽太が差し出した魚が口の中に滑り込んだ。
噛みしめると、薄味のはずの病院食が、なぜかひどく甘美なものに感じられた。
「美味しいですか?」
陽太が嬉しそうに顔を綻ばせる。
その笑顔を見た瞬間、龍崎の心臓は、昨夜以上の速度で跳ねた。
もはや「病気」という言葉だけでは説明がつかないほどの衝撃。
「……っ、もういい。後は自分で食う」
龍崎は陽太から奪い取るように箸を持つと、猛然と食事を口に運び始めた。
そうでもしていなければ、この狂おしいほどの動悸が、佐々木に悟られてしまいそうだったからだ。
「わあ、食欲が出てきたみたいで良かったです。やっぱり食べなきゃダメですよね」
陽太は満足そうに頷き、龍崎の様子を観察している。
その視線が痛い。
龍崎は内心で、「早く出ていけ」と念じる一方で、この時間が終わらなければいいという、矛盾した感情を抱き始めていた。
食後の診察が始まると、陽太は手慣れた様子で龍崎の寝間着のボタンに手をかけた。
「おい、何を……」
「傷口のチェックですよ。包帯、取り替えますね」
無造作に胸元を寛げられ、龍崎は息を止める。
鍛え抜かれた筋肉に刻まれた、無数の古傷。
陽太の指が、それらの傷跡に触れないよう、慎重に、かつ優しく新しいガーゼを当てていく。
陽太の吐息が、龍崎の剥き出しの肌にかかる。
そのあまりの近さに、龍崎は目眩を覚えた。
「……龍崎さん、やっぱり心拍数が速いですね。血圧も高めです。さっきの『持病』、一度詳しく検査したほうがいいかもしれません」
陽太は真剣な顔で龍崎を見上げた。
その距離、わずか十センチ。
陽太の瞳の中に、動揺を隠しきれない自分の顔が映っている。
「……放っておけと言ったはずだ」
「放っておけません。僕は龍崎さんの担当なんですから」
きっぱりと言い放つ陽太。
その「担当」という言葉が、龍崎の耳にはなぜか「お前は俺のものだ」という宣言のように響いた。
そんなはずはない。これはただの仕事だ。
自分は極道で、彼はカタギ。
住む世界が違う。
だが、この不敵なナースが放つ不思議な引力に、龍崎は抗う術を持っていなかった。
「……好きにしろ」
龍崎は力なくそう呟き、腕で顔を覆った。
自分の顔が、今、どれほど熱く赤くなっているかを知るのが怖かった。
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