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1話
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夜の帳が下りた東京の繁華街に、激しいブレーキ音と怒号が響き渡った。
龍和会若頭、龍崎慎一郎は、降り注ぐ雨の中で血に濡れたアスファルトを見下ろしていた。
脇腹を掠めた弾丸が、熱い火を吹くように痛む。
だが、彼は表情一つ変えず、自らの傷口を無造作に押さえた。
「若頭! すぐに救急車を……!」
血相を変えて駆け寄る部下の鮫島を、龍崎は鋭い眼光で制した。
男たちの悲鳴が遠のいていく。
意識が混濁し始める中、龍崎の脳裏にあったのは、ただ一つ。
この程度の傷で、弱みを見せるわけにはいかないという、極道としての矜持だけだった。
「……騒ぐな。近くの病院へ運べ。……隠密にな」
それが、龍崎が意識を失う直前に発した、最後の言葉だった。
――次に龍崎が目覚めたとき、視界に飛び込んできたのは、ひどく眩しい蛍光灯の光だった。
消毒液の匂いが鼻をつく。
病院か、と状況を理解した瞬間、全身に走る激痛に眉をひそめた。
反射的に体を起こそうとしたが、腹部に走る鋭い痛みがそれを拒む。
「あ! ダメですよ、まだ動いちゃ!」
聞き慣れない、明るく澄んだ声が耳元で響いた。
龍崎は視線だけを横に動かし、声の主を睨みつける。
そこには、ふわふわとした茶髪を揺らし、心配そうにこちらを覗き込む若い男がいた。
看護師の制服を着たその男は、龍崎の殺気を含んだ視線を真っ向から浴びても、怯える様子さえ見せなかった。
「……貴様、誰だ」
龍崎の声は、地を這うような低音だった。
並の人間なら、この一言で蛇に睨まれた蛙のように硬直するはずだ。
しかし、その看護師――名札には『佐々木陽太』とある――は、困ったように眉を下げて笑った。
「誰だって言われても……。今日から龍崎さんの担当になった看護師の佐々木です。よろしくお願いしますね」
そう言って、佐々木は事も無げに龍崎の手を取り、点滴の様子を確認し始めた。
龍崎は、あまりに自然に差し出されたその手の温もりに、思わず息を呑む。
他人に、それもカタギの人間に、これほど無防備に触れられることなど、いつ以来だろうか。
「……離せ。俺に触れるな」
龍崎が威嚇するように言うが、佐々木は「はいはい」と軽く聞き流しながら、血圧計を巻き始めた。
「そうはいきませんよ。龍崎さん、かなりの重傷だったんですから。あと数センチずれていたら、今頃三途の川を渡ってましたよ?」
「……フン、そんなものは慣れている」
「慣れちゃダメです! 自分の体を大事にしない患者さんは、僕、叱っちゃいますからね」
佐々木は頬を膨らませて、本気で怒っているような表情を見せた。
龍崎は呆気にとられた。
自分の職業も、この顔の傷も、纏っている空気も、彼には通用していないのだろうか。
それとも、この男はただの馬鹿なのか。
「おい、佐々木と言ったか。……俺がどんな人間か、理解しているのか」
龍崎が低く、威圧的なトーンで問いかける。
佐々木は少しだけ動きを止めて、龍崎の瞳をじっと見つめ返した。
その瞳は、一点の曇りもなく、純粋で、どこか懐っこい犬を思わせるものだった。
「わかってますよ。龍崎さんは、私の大事な患者さんです。それ以外に何かありますか?」
屈託のない笑顔。
その瞬間、龍崎の胸の奥で、経験したことのない奇妙な鼓動が跳ねた。
ドクン、と大きな音がして、全身に熱が回るような感覚に襲われる。
「……っ」
龍崎は反射的に顔を背けた。
心拍計が、無情にもその変化を捉え、『ピッ、ピッ、ピッ』と速度を上げて鳴り響く。
「あら? 龍崎さん、心拍数が上がってますね。どこか痛みますか? 苦しいですか?」
佐々木が慌てて顔を近づけてくる。
柔らかな髪が、龍崎の頬を掠める。
ほんのりと石鹸のような清潔な香りが鼻腔をくすぐり、龍崎はさらにパニックに陥った。
「……何でもない。あっちへ行けと言っている!」
「そうはいきません。ちょっと、顔を見せてください。顔色が……あ、少し赤いかも」
佐々木の白い指先が、龍崎の額にそっと触れた。
熱を測るための、ごく自然な行為。
だが、龍崎にとっては、どんな銃口を向けられるよりも衝撃的な出来事だった。
――熱い。
触れられた場所から、火傷をしそうなほどの熱が全身に広がっていく。
龍崎は三十余年の人生で、これほどまでに動揺したことはなかった。
常に冷静沈着、非情な若頭として恐れられてきた自分が、たかが看護師の一言と一触れで、ここまでかき乱されるとは。
「……持病だ」
龍崎は絞り出すような声で言った。
「え? 持病ですか?」
「ああ。昔から、時折……鼓動が激しくなる病を患っている。気にするな」
それは、龍崎が咄嗟についた、人生で最も下手な嘘だった。
もちろん、龍崎慎一郎の健康診断に異常などあった試しはない。
しかし、この「動悸」に「恋」などという気恥ずかしい名前をつける知能を、この堅物ヤクザは持ち合わせていなかったのである。
「ええっ! それは大変です。すぐに検査のスケジュールに入れなきゃ……」
「必要ない! 勝手に決めるな!」
慌てふためく佐々木を怒鳴りつけながら、龍崎は必死に自分に言い聞かせていた。
これは、出血多量による貧血のせいだ。
あるいは、麻酔がまだ残っていて、脳がバグを起こしているに違いない。
断じて、この「佐々木陽太」という、無防備で、小生意気で、やたらと距離の近い男に、胸を高鳴らせているわけではないのだ、と。
「龍崎さん、そんなに怒らないでください。血圧に響きますよ?」
佐々木は困ったように笑いながら、今度は龍崎の布団の端を整え始めた。
その仕草は、どこまでも献身的で、温かい。
「……勝手にしろ」
龍崎は毒気を抜かれたように、天井を仰いだ。
規則正しく鳴り続ける心拍計の音が、まるで自分の動揺を暴き立てるようで、ひどく疎ましかった。
これが、堅物ヤクザ・龍崎慎一郎と、わんこ系看護師・佐々木陽太。
二人の、長く、そしてあまりにもじれったい恋の、すべての始まりだった。
龍和会若頭、龍崎慎一郎は、降り注ぐ雨の中で血に濡れたアスファルトを見下ろしていた。
脇腹を掠めた弾丸が、熱い火を吹くように痛む。
だが、彼は表情一つ変えず、自らの傷口を無造作に押さえた。
「若頭! すぐに救急車を……!」
血相を変えて駆け寄る部下の鮫島を、龍崎は鋭い眼光で制した。
男たちの悲鳴が遠のいていく。
意識が混濁し始める中、龍崎の脳裏にあったのは、ただ一つ。
この程度の傷で、弱みを見せるわけにはいかないという、極道としての矜持だけだった。
「……騒ぐな。近くの病院へ運べ。……隠密にな」
それが、龍崎が意識を失う直前に発した、最後の言葉だった。
――次に龍崎が目覚めたとき、視界に飛び込んできたのは、ひどく眩しい蛍光灯の光だった。
消毒液の匂いが鼻をつく。
病院か、と状況を理解した瞬間、全身に走る激痛に眉をひそめた。
反射的に体を起こそうとしたが、腹部に走る鋭い痛みがそれを拒む。
「あ! ダメですよ、まだ動いちゃ!」
聞き慣れない、明るく澄んだ声が耳元で響いた。
龍崎は視線だけを横に動かし、声の主を睨みつける。
そこには、ふわふわとした茶髪を揺らし、心配そうにこちらを覗き込む若い男がいた。
看護師の制服を着たその男は、龍崎の殺気を含んだ視線を真っ向から浴びても、怯える様子さえ見せなかった。
「……貴様、誰だ」
龍崎の声は、地を這うような低音だった。
並の人間なら、この一言で蛇に睨まれた蛙のように硬直するはずだ。
しかし、その看護師――名札には『佐々木陽太』とある――は、困ったように眉を下げて笑った。
「誰だって言われても……。今日から龍崎さんの担当になった看護師の佐々木です。よろしくお願いしますね」
そう言って、佐々木は事も無げに龍崎の手を取り、点滴の様子を確認し始めた。
龍崎は、あまりに自然に差し出されたその手の温もりに、思わず息を呑む。
他人に、それもカタギの人間に、これほど無防備に触れられることなど、いつ以来だろうか。
「……離せ。俺に触れるな」
龍崎が威嚇するように言うが、佐々木は「はいはい」と軽く聞き流しながら、血圧計を巻き始めた。
「そうはいきませんよ。龍崎さん、かなりの重傷だったんですから。あと数センチずれていたら、今頃三途の川を渡ってましたよ?」
「……フン、そんなものは慣れている」
「慣れちゃダメです! 自分の体を大事にしない患者さんは、僕、叱っちゃいますからね」
佐々木は頬を膨らませて、本気で怒っているような表情を見せた。
龍崎は呆気にとられた。
自分の職業も、この顔の傷も、纏っている空気も、彼には通用していないのだろうか。
それとも、この男はただの馬鹿なのか。
「おい、佐々木と言ったか。……俺がどんな人間か、理解しているのか」
龍崎が低く、威圧的なトーンで問いかける。
佐々木は少しだけ動きを止めて、龍崎の瞳をじっと見つめ返した。
その瞳は、一点の曇りもなく、純粋で、どこか懐っこい犬を思わせるものだった。
「わかってますよ。龍崎さんは、私の大事な患者さんです。それ以外に何かありますか?」
屈託のない笑顔。
その瞬間、龍崎の胸の奥で、経験したことのない奇妙な鼓動が跳ねた。
ドクン、と大きな音がして、全身に熱が回るような感覚に襲われる。
「……っ」
龍崎は反射的に顔を背けた。
心拍計が、無情にもその変化を捉え、『ピッ、ピッ、ピッ』と速度を上げて鳴り響く。
「あら? 龍崎さん、心拍数が上がってますね。どこか痛みますか? 苦しいですか?」
佐々木が慌てて顔を近づけてくる。
柔らかな髪が、龍崎の頬を掠める。
ほんのりと石鹸のような清潔な香りが鼻腔をくすぐり、龍崎はさらにパニックに陥った。
「……何でもない。あっちへ行けと言っている!」
「そうはいきません。ちょっと、顔を見せてください。顔色が……あ、少し赤いかも」
佐々木の白い指先が、龍崎の額にそっと触れた。
熱を測るための、ごく自然な行為。
だが、龍崎にとっては、どんな銃口を向けられるよりも衝撃的な出来事だった。
――熱い。
触れられた場所から、火傷をしそうなほどの熱が全身に広がっていく。
龍崎は三十余年の人生で、これほどまでに動揺したことはなかった。
常に冷静沈着、非情な若頭として恐れられてきた自分が、たかが看護師の一言と一触れで、ここまでかき乱されるとは。
「……持病だ」
龍崎は絞り出すような声で言った。
「え? 持病ですか?」
「ああ。昔から、時折……鼓動が激しくなる病を患っている。気にするな」
それは、龍崎が咄嗟についた、人生で最も下手な嘘だった。
もちろん、龍崎慎一郎の健康診断に異常などあった試しはない。
しかし、この「動悸」に「恋」などという気恥ずかしい名前をつける知能を、この堅物ヤクザは持ち合わせていなかったのである。
「ええっ! それは大変です。すぐに検査のスケジュールに入れなきゃ……」
「必要ない! 勝手に決めるな!」
慌てふためく佐々木を怒鳴りつけながら、龍崎は必死に自分に言い聞かせていた。
これは、出血多量による貧血のせいだ。
あるいは、麻酔がまだ残っていて、脳がバグを起こしているに違いない。
断じて、この「佐々木陽太」という、無防備で、小生意気で、やたらと距離の近い男に、胸を高鳴らせているわけではないのだ、と。
「龍崎さん、そんなに怒らないでください。血圧に響きますよ?」
佐々木は困ったように笑いながら、今度は龍崎の布団の端を整え始めた。
その仕草は、どこまでも献身的で、温かい。
「……勝手にしろ」
龍崎は毒気を抜かれたように、天井を仰いだ。
規則正しく鳴り続ける心拍計の音が、まるで自分の動揺を暴き立てるようで、ひどく疎ましかった。
これが、堅物ヤクザ・龍崎慎一郎と、わんこ系看護師・佐々木陽太。
二人の、長く、そしてあまりにもじれったい恋の、すべての始まりだった。
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