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3話
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入院から三日が経過した。
龍崎慎一郎は、今や最大の難局に直面していた。
それは、組の抗争でも警察の取り調べでもない。
目の前で、他の年配の患者と親しげに談笑する佐々木陽太という男の存在だ。
多床室から個室へ移った龍崎の部屋のドアは、巡回の時間になると決まって開く。
だが、その前に陽太がナースステーションの近くで他の患者に「おじいちゃん、無理しちゃダメだよ!」と笑いかけている声が聞こえてくる。
「……チッ」
龍崎は、読んでいた経済誌を乱暴に閉じた。
なぜだろうか。あの男が自分以外の者に向けた笑顔を見るだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。
腹部を撃たれた時よりも、もっと深く、不快な疼きだ。
「失礼します! 龍崎さん、検温の時間ですよ」
いつものように、風を連れてくるような軽やかさで陽太が入ってきた。
龍崎は雑誌を放り出し、努めて冷静な、氷のような声で応じる。
「遅いぞ、佐々木」
「え? すみません、お隣の部屋の田中さんがお話好きで、ついつい。……あれ? 龍崎さん、もしかして怒ってます?」
陽太が首を傾げながら、ベッドの脇に体温計を置く。
龍崎は答えず、黙って体温計を脇に挟んだ。
陽太はその間に、龍崎の脈を取るために彼の手首をそっと握った。
――まただ。
触れられた瞬間、血管を流れる血液が沸騰したかのような錯覚に陥る。
ドクン、ドクンと、自分でもはっきりわかるほど脈打つ鼓動。
龍崎は、その証拠を握られている右手に意識が集中しすぎて、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「……龍崎さん、やっぱりおかしいです。脈が異常に速い」
陽太が顔を近づけてくる。
心配そうに潤んだ瞳が、至近距離で龍崎を射抜く。
この男は、自分がどれほど無防備な顔で、極道の男を覗き込んでいるのか分かっているのだろうか。
「……だから、持病だと言っただろう」
「でも、さっき外で田中さんと話してた時は、こんな音聞こえなかったですよ? あ、心音も確認させてください」
陽太は迷いなく聴診器を取り出すと、龍崎の寝間着のボタンを器用に外した。
龍崎が拒む暇もなく、冷たいチェストピースが、熱を帯びた胸板に押し当てられる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――。
枕元に設置された心拍モニターが、無情にも狂ったようなリズムを刻み始めた。
「わ、すごい……。龍崎さん、心臓が爆発しそうですよ!? 苦しくないですか? 胸が痛みますか?」
「……苦しいのは、貴様のせいだ」
龍崎は、思わず本音を漏らした。
だが、ウブな極道と、天然な看護師。二人の会話はどこまでも平行線だ。
「えっ、僕のせい!? 僕が何か失礼なことしましたか? 包帯の巻き方がキツすぎたとか……」
「そうではない! ……貴様が、他の患者とヘラヘラ笑っているのが、気に食わんだけだ」
言ってから、龍崎は「しまった」と唇を噛んだ。
これでは、まるであの男の関心を引きたがっている子供ではないか。
百戦錬磨の若頭としてあるまじき失態だ。
しかし、陽太の反応は予想外のものだった。
彼は一瞬だけ目を見開いた後、ふわりと花が咲くような笑顔を見せたのだ。
「もしかして……龍崎さん、寂しかったんですか?」
「はあ!? 何を馬鹿なことを――」
「ふふ、可愛いところあるんですね。僕が他の方と話してたから、拗ねちゃったんだ」
「す、拗ねてなどいない! 貴様、俺を誰だと思っている!」
龍崎は真っ赤になって怒鳴ったが、陽太は怖がるどころか、「よしよし」とでも言いそうな手つきで、龍崎の腕を優しくさすった。
「いいんですよ。入院中はみんな心細くなるものです。龍崎さんは強がってるけど、本当は寂しがり屋さんなんですね。これからは、もっとこまめに様子を見に来ますから」
陽太のその言葉は、龍崎の硬い外殻をいとも簡単に溶かしてしまった。
「寂しがり屋」。
かつて一度も言われたことのない言葉。
常に恐れられ、頼られ、孤独であることを宿命づけられてきた自分。
そんな自分を、この男は「可愛い」と言い、「様子を見に来る」と約束した。
心拍モニターの音が、さらに一段階速くなる。
「あ、また上がった! やっぱりどこか悪いんじゃ……。あ、そうだ。松本先輩に相談して、心電図の精密検査を――」
「検査など不要だと言っている! ……それよりも、佐々木」
龍崎は、陽太の白衣の裾をぎゅっと掴んだ。
自分でも驚くほど、子供じみた行動だった。
「はい?」
「……さっきの約束、忘れるな」
陽太は一瞬、呆気に取られたように瞬きをした。
そして、今までで一番優しい、包み込むような微笑みを浮かべた。
「はい。龍崎さんだけの『特別』な看護師として、たくさん会いに来ますね」
龍崎だけの特別。
その甘美な響きに、龍崎はもはや自分の「病名」を認めざるを得なかった。
――これは、呪いでも暗殺者の策謀でもない。
この、自分を恐れない小さな看護師に、俺は毒されているのだ。
龍崎は、掴んでいた裾を離すと、布団を頭まで被った。
バクバクと暴れる心臓を抑え込みながら、彼は心の中で、初めて認めたくない事実を反芻する。
(……俺は、この男に惚れたのか……?)
極道としての人生に、最も不必要な「恋」という処方箋。
それを無理やり飲まされた男の、長く不器用な物語が、本格的に動き出そうとしていた。
龍崎慎一郎は、今や最大の難局に直面していた。
それは、組の抗争でも警察の取り調べでもない。
目の前で、他の年配の患者と親しげに談笑する佐々木陽太という男の存在だ。
多床室から個室へ移った龍崎の部屋のドアは、巡回の時間になると決まって開く。
だが、その前に陽太がナースステーションの近くで他の患者に「おじいちゃん、無理しちゃダメだよ!」と笑いかけている声が聞こえてくる。
「……チッ」
龍崎は、読んでいた経済誌を乱暴に閉じた。
なぜだろうか。あの男が自分以外の者に向けた笑顔を見るだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。
腹部を撃たれた時よりも、もっと深く、不快な疼きだ。
「失礼します! 龍崎さん、検温の時間ですよ」
いつものように、風を連れてくるような軽やかさで陽太が入ってきた。
龍崎は雑誌を放り出し、努めて冷静な、氷のような声で応じる。
「遅いぞ、佐々木」
「え? すみません、お隣の部屋の田中さんがお話好きで、ついつい。……あれ? 龍崎さん、もしかして怒ってます?」
陽太が首を傾げながら、ベッドの脇に体温計を置く。
龍崎は答えず、黙って体温計を脇に挟んだ。
陽太はその間に、龍崎の脈を取るために彼の手首をそっと握った。
――まただ。
触れられた瞬間、血管を流れる血液が沸騰したかのような錯覚に陥る。
ドクン、ドクンと、自分でもはっきりわかるほど脈打つ鼓動。
龍崎は、その証拠を握られている右手に意識が集中しすぎて、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「……龍崎さん、やっぱりおかしいです。脈が異常に速い」
陽太が顔を近づけてくる。
心配そうに潤んだ瞳が、至近距離で龍崎を射抜く。
この男は、自分がどれほど無防備な顔で、極道の男を覗き込んでいるのか分かっているのだろうか。
「……だから、持病だと言っただろう」
「でも、さっき外で田中さんと話してた時は、こんな音聞こえなかったですよ? あ、心音も確認させてください」
陽太は迷いなく聴診器を取り出すと、龍崎の寝間着のボタンを器用に外した。
龍崎が拒む暇もなく、冷たいチェストピースが、熱を帯びた胸板に押し当てられる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――。
枕元に設置された心拍モニターが、無情にも狂ったようなリズムを刻み始めた。
「わ、すごい……。龍崎さん、心臓が爆発しそうですよ!? 苦しくないですか? 胸が痛みますか?」
「……苦しいのは、貴様のせいだ」
龍崎は、思わず本音を漏らした。
だが、ウブな極道と、天然な看護師。二人の会話はどこまでも平行線だ。
「えっ、僕のせい!? 僕が何か失礼なことしましたか? 包帯の巻き方がキツすぎたとか……」
「そうではない! ……貴様が、他の患者とヘラヘラ笑っているのが、気に食わんだけだ」
言ってから、龍崎は「しまった」と唇を噛んだ。
これでは、まるであの男の関心を引きたがっている子供ではないか。
百戦錬磨の若頭としてあるまじき失態だ。
しかし、陽太の反応は予想外のものだった。
彼は一瞬だけ目を見開いた後、ふわりと花が咲くような笑顔を見せたのだ。
「もしかして……龍崎さん、寂しかったんですか?」
「はあ!? 何を馬鹿なことを――」
「ふふ、可愛いところあるんですね。僕が他の方と話してたから、拗ねちゃったんだ」
「す、拗ねてなどいない! 貴様、俺を誰だと思っている!」
龍崎は真っ赤になって怒鳴ったが、陽太は怖がるどころか、「よしよし」とでも言いそうな手つきで、龍崎の腕を優しくさすった。
「いいんですよ。入院中はみんな心細くなるものです。龍崎さんは強がってるけど、本当は寂しがり屋さんなんですね。これからは、もっとこまめに様子を見に来ますから」
陽太のその言葉は、龍崎の硬い外殻をいとも簡単に溶かしてしまった。
「寂しがり屋」。
かつて一度も言われたことのない言葉。
常に恐れられ、頼られ、孤独であることを宿命づけられてきた自分。
そんな自分を、この男は「可愛い」と言い、「様子を見に来る」と約束した。
心拍モニターの音が、さらに一段階速くなる。
「あ、また上がった! やっぱりどこか悪いんじゃ……。あ、そうだ。松本先輩に相談して、心電図の精密検査を――」
「検査など不要だと言っている! ……それよりも、佐々木」
龍崎は、陽太の白衣の裾をぎゅっと掴んだ。
自分でも驚くほど、子供じみた行動だった。
「はい?」
「……さっきの約束、忘れるな」
陽太は一瞬、呆気に取られたように瞬きをした。
そして、今までで一番優しい、包み込むような微笑みを浮かべた。
「はい。龍崎さんだけの『特別』な看護師として、たくさん会いに来ますね」
龍崎だけの特別。
その甘美な響きに、龍崎はもはや自分の「病名」を認めざるを得なかった。
――これは、呪いでも暗殺者の策謀でもない。
この、自分を恐れない小さな看護師に、俺は毒されているのだ。
龍崎は、掴んでいた裾を離すと、布団を頭まで被った。
バクバクと暴れる心臓を抑え込みながら、彼は心の中で、初めて認めたくない事実を反芻する。
(……俺は、この男に惚れたのか……?)
極道としての人生に、最も不必要な「恋」という処方箋。
それを無理やり飲まされた男の、長く不器用な物語が、本格的に動き出そうとしていた。
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