19 / 20
19話
しおりを挟む
龍崎に突き放されたあの日から、陽太の時間は止まったままだった。
白一色の病院の廊下、いつもの消毒液の匂い、慌ただしく行き交う同僚たちの声。すべてが以前と同じはずなのに、陽太の目に映る景色からは色彩が失われていた。
ナースステーションで夜勤の準備をしていても、ふとした瞬間に、あの不器用なほど大きな掌の熱を思い出してしまう。
「飽きた」という言葉が嘘であることは、看護師として龍崎の心音を、その激しい動悸を何度も聞いてきた陽太には分かっていた。だが、彼が何を恐れ、何を隠そうとしているのかまでは分からなかった。
「佐々木くん、少し休みを入れなくて大丈夫か? 顔色が悪いよ」
声をかけてきたのは、以前龍崎に睨まれた神崎医師だった。彼は陽太の様子を案じるように眉を寄せる。
「……あ、神崎先生。大丈夫です、ただの寝不足で」
「例の患者さん……龍崎さんだったかな。彼に何かされたのか?」
「いえ、そんなんじゃ……。ただ、もう会えなくなっただけです」
陽太が自嘲気味に笑ったその時だった。ナースステーションのテレビから流れるニュースが、陽太の心臓を凍りつかせた。
『本日午後八時頃、市内の繁華街で暴力団関係者とみられるグループによる大規模な抗争が発生しました。現場では銃声が確認され……』
画面に映し出されたのは、見覚えのある龍和会の紋章が刻まれたビルだった。
陽太の手から、持っていた体温計が滑り落ち、硬い床で虚しい音を立てて跳ねた。
(……龍崎さん!)
「佐々木くん!?」
神崎の制止を振り切り、陽太は走り出していた。
ナース服の上に羽織る上着すら忘れたまま、夜の闇へと飛び出す。
「馬鹿だ、僕は……。あんなに物騒な仕事だって、分かってたはずなのに」
冷たい夜風が頬を打つ。息が切れて、肺が焼けるように痛い。
タクシーを拾おうとしても、現場周辺は封鎖されているのか、一台も捕まらない。
陽太はひたすら走った。龍崎が最後に残した「来るな」という言葉を、何度も心の中で踏みにじりながら。
――その頃、龍和会の事務所内は、硝煙の匂いと血の惨状に満ちていた。
龍崎は、肩を銃弾に掠められながらも、単身で大門組の構成員を次々と叩き伏せていた。その姿は、もはや人間ではなく、大切なものを守るために理性を捨てた鬼神のようだった。
「若頭! もうこれ以上は……! 警察が来る前に脱出してください!」
血まみれの鮫島が叫ぶが、龍崎は止まらない。
彼の脳裏にあるのは、陽太の笑顔だけだった。
自分がここで倒れれば、あの男に危害が及ぶ。自分がこの闇をすべて飲み込んで死ねば、あいつは明日も、あの白い病院で笑っていられる。
「……黙れ。ここで奴らを根絶やしにせねば、あいつに未来はない」
龍崎が最後の一人を床に叩きつけた時、背後から潜んでいた大門組の残党が銃口を向けた。
龍崎はそれを察知しながらも、身体が思うように動かない。大量の出血が、彼の意識を遠のかせていた。
――引き金が引かれようとしたその瞬間、事務所の重厚なドアが荒々しく開け放たれた。
「龍崎さん!!」
場違いなほど真っ白なナース服姿の、一人の青年。
肩で息をし、髪を乱し、涙を溜めた瞳でこちらを見つめる陽太の姿に、龍崎は目を見開いた。
「……陽、太……? なぜ、貴様が……」
龍崎の動揺を突こうとした残党の銃弾が放たれる。だが、それよりも早く、鮫島が男を抑え込んだ。
陽太は、血の海と化した床を厭わずに駆け寄り、倒れ込む龍崎の身体を抱き止めた。
「何してるんですか、龍崎さん! 傷口、開いてるじゃないですか!……馬鹿、大馬鹿!!」
陽太の怒鳴り声は震えていた。
龍崎は、自分の血で陽太の白い服が汚れていくのを見て、苦しげに顔を歪めた。
「……来るなと言っただろう。貴様を、こんな汚れに……触れさせたくなかったのに……」
「汚いとか、極道だとか、そんなのどうでもいいんです! 僕は……龍崎さんの担当看護師なんだから!!」
陽太は、震える手で龍崎の傷口を強く圧迫した。
「龍崎さんの心臓の音を……あんなにドキドキさせておいて、勝手に止まるなんて許しません。生きてください。生きて、ちゃんと『好きだ』って言ってくださいよ!」
龍崎は、霞む視界の中で陽太を見上げた。
自分の命よりも大切に、自分を抱きしめている小さな手。
龍崎は、血のついた手で陽太の頬をそっと撫でた。
「……ああ。……愛している、陽太。……死んでも、離さん」
遠くでサイレンの音が近づいてくる。
絶望の夜の果て、二人の運命は、より深く、より逃れられない血と涙の契りによって結ばれようとしていた。
白一色の病院の廊下、いつもの消毒液の匂い、慌ただしく行き交う同僚たちの声。すべてが以前と同じはずなのに、陽太の目に映る景色からは色彩が失われていた。
ナースステーションで夜勤の準備をしていても、ふとした瞬間に、あの不器用なほど大きな掌の熱を思い出してしまう。
「飽きた」という言葉が嘘であることは、看護師として龍崎の心音を、その激しい動悸を何度も聞いてきた陽太には分かっていた。だが、彼が何を恐れ、何を隠そうとしているのかまでは分からなかった。
「佐々木くん、少し休みを入れなくて大丈夫か? 顔色が悪いよ」
声をかけてきたのは、以前龍崎に睨まれた神崎医師だった。彼は陽太の様子を案じるように眉を寄せる。
「……あ、神崎先生。大丈夫です、ただの寝不足で」
「例の患者さん……龍崎さんだったかな。彼に何かされたのか?」
「いえ、そんなんじゃ……。ただ、もう会えなくなっただけです」
陽太が自嘲気味に笑ったその時だった。ナースステーションのテレビから流れるニュースが、陽太の心臓を凍りつかせた。
『本日午後八時頃、市内の繁華街で暴力団関係者とみられるグループによる大規模な抗争が発生しました。現場では銃声が確認され……』
画面に映し出されたのは、見覚えのある龍和会の紋章が刻まれたビルだった。
陽太の手から、持っていた体温計が滑り落ち、硬い床で虚しい音を立てて跳ねた。
(……龍崎さん!)
「佐々木くん!?」
神崎の制止を振り切り、陽太は走り出していた。
ナース服の上に羽織る上着すら忘れたまま、夜の闇へと飛び出す。
「馬鹿だ、僕は……。あんなに物騒な仕事だって、分かってたはずなのに」
冷たい夜風が頬を打つ。息が切れて、肺が焼けるように痛い。
タクシーを拾おうとしても、現場周辺は封鎖されているのか、一台も捕まらない。
陽太はひたすら走った。龍崎が最後に残した「来るな」という言葉を、何度も心の中で踏みにじりながら。
――その頃、龍和会の事務所内は、硝煙の匂いと血の惨状に満ちていた。
龍崎は、肩を銃弾に掠められながらも、単身で大門組の構成員を次々と叩き伏せていた。その姿は、もはや人間ではなく、大切なものを守るために理性を捨てた鬼神のようだった。
「若頭! もうこれ以上は……! 警察が来る前に脱出してください!」
血まみれの鮫島が叫ぶが、龍崎は止まらない。
彼の脳裏にあるのは、陽太の笑顔だけだった。
自分がここで倒れれば、あの男に危害が及ぶ。自分がこの闇をすべて飲み込んで死ねば、あいつは明日も、あの白い病院で笑っていられる。
「……黙れ。ここで奴らを根絶やしにせねば、あいつに未来はない」
龍崎が最後の一人を床に叩きつけた時、背後から潜んでいた大門組の残党が銃口を向けた。
龍崎はそれを察知しながらも、身体が思うように動かない。大量の出血が、彼の意識を遠のかせていた。
――引き金が引かれようとしたその瞬間、事務所の重厚なドアが荒々しく開け放たれた。
「龍崎さん!!」
場違いなほど真っ白なナース服姿の、一人の青年。
肩で息をし、髪を乱し、涙を溜めた瞳でこちらを見つめる陽太の姿に、龍崎は目を見開いた。
「……陽、太……? なぜ、貴様が……」
龍崎の動揺を突こうとした残党の銃弾が放たれる。だが、それよりも早く、鮫島が男を抑え込んだ。
陽太は、血の海と化した床を厭わずに駆け寄り、倒れ込む龍崎の身体を抱き止めた。
「何してるんですか、龍崎さん! 傷口、開いてるじゃないですか!……馬鹿、大馬鹿!!」
陽太の怒鳴り声は震えていた。
龍崎は、自分の血で陽太の白い服が汚れていくのを見て、苦しげに顔を歪めた。
「……来るなと言っただろう。貴様を、こんな汚れに……触れさせたくなかったのに……」
「汚いとか、極道だとか、そんなのどうでもいいんです! 僕は……龍崎さんの担当看護師なんだから!!」
陽太は、震える手で龍崎の傷口を強く圧迫した。
「龍崎さんの心臓の音を……あんなにドキドキさせておいて、勝手に止まるなんて許しません。生きてください。生きて、ちゃんと『好きだ』って言ってくださいよ!」
龍崎は、霞む視界の中で陽太を見上げた。
自分の命よりも大切に、自分を抱きしめている小さな手。
龍崎は、血のついた手で陽太の頬をそっと撫でた。
「……ああ。……愛している、陽太。……死んでも、離さん」
遠くでサイレンの音が近づいてくる。
絶望の夜の果て、二人の運命は、より深く、より逃れられない血と涙の契りによって結ばれようとしていた。
20
あなたにおすすめの小説
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*不定期連載です。
サラリーマン二人、酔いどれ同伴
風
BL
久しぶりの飲み会!
楽しむ佐万里(さまり)は後輩の迅蛇(じんだ)と翌朝ベッドの上で出会う。
「……え、やった?」
「やりましたね」
「あれ、俺は受け?攻め?」
「受けでしたね」
絶望する佐万里!
しかし今週末も仕事終わりには飲み会だ!
こうして佐万里は同じ過ちを繰り返すのだった……。
うるさい恋人
さるやま
BL
攻めがキモイです。あとうるさい
攻め→→→←受け
小森 陽芳(受け)
野茂のことが好きだけど、野茂を煩わしくも思ってる。ツンデレ小説家。言ってることとやってることがちぐはぐ。
野茂 遥斗(攻め)
陽芳のことを陽ちゃんと呼び、溺愛する。人気の若手俳優。陽ちゃんのことが大好きで、言動がキモイ。
橋本
野茂のマネージャー。自分の苦労を理解してくれる陽芳に少し惹かれる。
好きなわけ、ないだろ
春夜夢
BL
放課後の屋上――不良の匠は、優等生の蓮から突然「好きだ」と告げられた。
あまりにも真っ直ぐな瞳に、心臓がうるさく鳴ってしまう。
だけど、笑うしかなかった。
誰かに愛されるなんて、自分には似合わないと思っていたから。
それから二人の距離は、近くて、でも遠いままだった。
避けようとする匠、追いかける蓮。
すれ違いばかりの毎日に、いつしか匠の心にも、気づきたくなかった“感情”が芽生えていく。
ある雨の夜、蓮の転校の噂が流れる。
逃げ続けてきた匠は初めて、自分の心と正面から向き合う。
駅前でずぶ濡れになりながら、声を震わせて絞り出した言葉――
「行くなよ……好きなんだ」
誰かを想う気持ちは、こんなにも苦しくて、眩しい。
曇り空の下で始まった恋は、まだぎこちなく、でも確かにあたたかい。
涙とキスで繋がる、初恋の物語。
【本編完結】才色兼備の幼馴染♂に振り回されるくらいなら、いっそ赤い糸で縛って欲しい。
ホマレ
BL
才色兼備で『氷の王子』と呼ばれる幼なじみ、藍と俺は気づけばいつも一緒にいた。
その関係が当たり前すぎて、壊れるなんて思ってなかった——藍が「彼女作ってもいい?」なんて言い出すまでは。
胸の奥がざわつき、藍が他の誰かに取られる想像だけで苦しくなる。
それでも「友達」のままでいられるならと思っていたのに、藍の言葉に行動に振り回されていく。
運命の赤い糸が見えていれば、この関係を紐解けるのに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる