6 / 45
6話
しおりを挟む
森の朝は早い。
だが、今朝の静寂は、数日前までのそれとは少し性質が違っていた。
ログハウスの窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
庭を見れば、騎士たちが整然と荷物をまとめ、自分たちが使った東屋や道具を磨き上げていた。彼らがこの場所に来たときのような、あの刺すような殺気や血の匂いはもうない。
(……いよいよ、撤収か)
俺はキッチンへ向かい、いつものように薬草茶を淹れる準備を始めた。
以前なら、この「自分一人のためのルーチン」が何よりの幸福だった。だが、ふと二つ並んだカップ――一つは俺の繊細な細工のもの、もう一つはガイアスが使うために俺が貸し出した無骨な木製のもの――を見て、手が止まる。
今朝は、包丁の音がしない。
薪を割る景気のいい音もしない。
ガイアスは、部下たちの指揮に回っているのだろう。
「……別に、元に戻るだけだ。何の不具合(エラー)もない」
自分に言い聞かせるように呟き、お湯を沸かす。
魔導回路に指先で触れ、一定の魔力を流し込む。
すると、背後の扉が静かに開いた。
振り返らなくても分かる。その重厚な足音と、かすかに漂う森の香りは、一人しかいない。
「おはよう、リィエル。……茶の準備か?」
ガイアスの声は、どこか低く、落ち着いていた。
見れば、彼はすでに旅装を整えている。黒い鎧はリィエルの魔法で修復され、朝日に鈍く光っていた。
「おはようございます。……ええ、最後の一杯くらいは、淹れてあげようと思いまして。皆さんはもう、出発の準備が整ったようですね」
「ああ。カイルたちも、お前から教わった『ライフハック』とやらを忘れないよう、熱心にメモを取っていた。……あいつら、王都に戻ったら自慢するだろうな。エルフの聖者から、直接教えを乞うたのだと」
「聖者なんて、そんな仰々しいものじゃないと言ったはずですよ。ただの効率化です」
俺はカップに茶を注ぎ、一つをガイアスに差し出した。
ガイアスはそれを両手で受け取り、温もりを確かめるように包み込む。
「リィエル。お前には、感謝してもしきれない。命を救われただけでなく……。俺は、この数日間で、剣を振るうこと以外にこれほど充実した時間があることを初めて知った」
ガイアスの琥珀色の瞳が、湯気の向こうで俺をじっと見つめる。
その視線には、かつて向けられた警戒も、部下を導く厳格さもない。ただ、一人の男としての、飾らない温かさだけがあった。
「……大げさですよ。俺はただ、あなたが薪を割る姿を眺めていただけです」
「それでもだ。……お前が一人で、この広い森を愛し、守っている理由が少しだけ分かった気がする。ここは、心が洗われる場所だ」
ガイアスはゆっくりと茶を飲み干し、ふぅ、と長い吐息をついた。
そして、俺の貸し出していた木製カップを、名残惜しそうにテーブルに置く。
「……リィエル。最後にお願いがある」
「スカウトなら、何度言われてもノーですよ」
「分かっている。そうではない」
ガイアスは一歩、俺に近づいた。
彼の大きな手が、俺の肩に触れようとして、ためらうように空中で止まる。
だが、彼は意を決したように、俺の銀髪を一房だけ、指先で優しく掬い上げた。
「……また、ここに来てもいいか? 帝国騎士団長としてではなく、ただの、薪割りが得意な男として」
俺は、予想外の「リクエスト」に目を丸くした。
てっきり、王都の名産品を贈るとか、警護の魔法具を渡すとか、そういった実利的な申し出だと思っていたからだ。
「……ここまでの道は険しいですよ。今回は偶然、結界の隙間に迷い込んだだけなんですから」
「道なら覚えた。お前に会うためなら、どんな森の迷宮も苦ではない」
さらりと言ってのけるガイアスに、俺は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
この男、無自覚なタラシの才能があるのかもしれない。
「……勝手にすればいいじゃないですか。ただし、次にくるときは、もっとマシな茶葉を持ってきてください。俺の庭の雑草も、そろそろ在庫が少なくなってきたので」
俺が視線を逸らしながら答えると、ガイアスは一瞬呆気にとられたような顔をし、次の瞬間、今日一番の明るい笑い声を上げた。
「ああ、約束しよう! 最高級の、お前の『仕様』に合う茶葉を山ほど持ってこよう」
庭から、騎士たちが整列し、出発の合図を待つ声が聞こえてくる。
ガイアスはもう一度、俺の瞳を深く見つめ、短く「では、また」と告げた。
彼らが森の奥へと消えていく姿を、俺はテラスから見送った。
一団が完全に見えなくなり、森にいつもの静寂が戻ってくる。
風の音。鳥の声。さらさらと揺れる木の葉の音。
完璧な、俺だけのスローライフ。
俺はキッチンに戻り、テーブルに置かれた二つのカップを片付けようとして、手が止まった。
そこには、ガイアスが置いていった、小さな皮袋があった。
開けてみると、中には見たこともないほど透き通った蒼い宝石が一つ。
そして、一枚のメモ。
『――次回の、薪割り予約の代金だ。』
「……前払いなんて、システムの規約違反ですよ、ガイアスさん」
俺は、その冷たいはずの宝石が、なぜか少しだけ温かく感じられ、苦笑しながらそれをポケットに収めた。
平和な日常に戻ったはずの森。
だが、俺の胸の奥にある「スローライフ」という名のプログラムは、次のアップデートの日を、静かに待ち始めていた。
だが、今朝の静寂は、数日前までのそれとは少し性質が違っていた。
ログハウスの窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
庭を見れば、騎士たちが整然と荷物をまとめ、自分たちが使った東屋や道具を磨き上げていた。彼らがこの場所に来たときのような、あの刺すような殺気や血の匂いはもうない。
(……いよいよ、撤収か)
俺はキッチンへ向かい、いつものように薬草茶を淹れる準備を始めた。
以前なら、この「自分一人のためのルーチン」が何よりの幸福だった。だが、ふと二つ並んだカップ――一つは俺の繊細な細工のもの、もう一つはガイアスが使うために俺が貸し出した無骨な木製のもの――を見て、手が止まる。
今朝は、包丁の音がしない。
薪を割る景気のいい音もしない。
ガイアスは、部下たちの指揮に回っているのだろう。
「……別に、元に戻るだけだ。何の不具合(エラー)もない」
自分に言い聞かせるように呟き、お湯を沸かす。
魔導回路に指先で触れ、一定の魔力を流し込む。
すると、背後の扉が静かに開いた。
振り返らなくても分かる。その重厚な足音と、かすかに漂う森の香りは、一人しかいない。
「おはよう、リィエル。……茶の準備か?」
ガイアスの声は、どこか低く、落ち着いていた。
見れば、彼はすでに旅装を整えている。黒い鎧はリィエルの魔法で修復され、朝日に鈍く光っていた。
「おはようございます。……ええ、最後の一杯くらいは、淹れてあげようと思いまして。皆さんはもう、出発の準備が整ったようですね」
「ああ。カイルたちも、お前から教わった『ライフハック』とやらを忘れないよう、熱心にメモを取っていた。……あいつら、王都に戻ったら自慢するだろうな。エルフの聖者から、直接教えを乞うたのだと」
「聖者なんて、そんな仰々しいものじゃないと言ったはずですよ。ただの効率化です」
俺はカップに茶を注ぎ、一つをガイアスに差し出した。
ガイアスはそれを両手で受け取り、温もりを確かめるように包み込む。
「リィエル。お前には、感謝してもしきれない。命を救われただけでなく……。俺は、この数日間で、剣を振るうこと以外にこれほど充実した時間があることを初めて知った」
ガイアスの琥珀色の瞳が、湯気の向こうで俺をじっと見つめる。
その視線には、かつて向けられた警戒も、部下を導く厳格さもない。ただ、一人の男としての、飾らない温かさだけがあった。
「……大げさですよ。俺はただ、あなたが薪を割る姿を眺めていただけです」
「それでもだ。……お前が一人で、この広い森を愛し、守っている理由が少しだけ分かった気がする。ここは、心が洗われる場所だ」
ガイアスはゆっくりと茶を飲み干し、ふぅ、と長い吐息をついた。
そして、俺の貸し出していた木製カップを、名残惜しそうにテーブルに置く。
「……リィエル。最後にお願いがある」
「スカウトなら、何度言われてもノーですよ」
「分かっている。そうではない」
ガイアスは一歩、俺に近づいた。
彼の大きな手が、俺の肩に触れようとして、ためらうように空中で止まる。
だが、彼は意を決したように、俺の銀髪を一房だけ、指先で優しく掬い上げた。
「……また、ここに来てもいいか? 帝国騎士団長としてではなく、ただの、薪割りが得意な男として」
俺は、予想外の「リクエスト」に目を丸くした。
てっきり、王都の名産品を贈るとか、警護の魔法具を渡すとか、そういった実利的な申し出だと思っていたからだ。
「……ここまでの道は険しいですよ。今回は偶然、結界の隙間に迷い込んだだけなんですから」
「道なら覚えた。お前に会うためなら、どんな森の迷宮も苦ではない」
さらりと言ってのけるガイアスに、俺は少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
この男、無自覚なタラシの才能があるのかもしれない。
「……勝手にすればいいじゃないですか。ただし、次にくるときは、もっとマシな茶葉を持ってきてください。俺の庭の雑草も、そろそろ在庫が少なくなってきたので」
俺が視線を逸らしながら答えると、ガイアスは一瞬呆気にとられたような顔をし、次の瞬間、今日一番の明るい笑い声を上げた。
「ああ、約束しよう! 最高級の、お前の『仕様』に合う茶葉を山ほど持ってこよう」
庭から、騎士たちが整列し、出発の合図を待つ声が聞こえてくる。
ガイアスはもう一度、俺の瞳を深く見つめ、短く「では、また」と告げた。
彼らが森の奥へと消えていく姿を、俺はテラスから見送った。
一団が完全に見えなくなり、森にいつもの静寂が戻ってくる。
風の音。鳥の声。さらさらと揺れる木の葉の音。
完璧な、俺だけのスローライフ。
俺はキッチンに戻り、テーブルに置かれた二つのカップを片付けようとして、手が止まった。
そこには、ガイアスが置いていった、小さな皮袋があった。
開けてみると、中には見たこともないほど透き通った蒼い宝石が一つ。
そして、一枚のメモ。
『――次回の、薪割り予約の代金だ。』
「……前払いなんて、システムの規約違反ですよ、ガイアスさん」
俺は、その冷たいはずの宝石が、なぜか少しだけ温かく感じられ、苦笑しながらそれをポケットに収めた。
平和な日常に戻ったはずの森。
だが、俺の胸の奥にある「スローライフ」という名のプログラムは、次のアップデートの日を、静かに待ち始めていた。
319
あなたにおすすめの小説
逃げた弟のかわりに溺愛アルファに差し出されました。初夜で抱かれたら身代わりがばれてしまいます💦
雪代鞠絵/15分で萌えるBL小説
BL
逃げた弟の身代わりとなり、
隣国の国王である溺愛アルファに嫁いだオメガ。
しかし実は、我儘で結婚から逃げ出した双子の弟の身代わりなのです…
オメガだからと王宮で冷遇されていたので、身代わり結婚にも拒否権が
なかたのでした。
本当の花嫁じゃない。
だから何としても初夜は回避しなければと思うのですが、
だんだん王様に惹かれてしまい、苦しくなる…という
お話です。よろしくお願いします<(_ _)>
【完結】偏屈司書は黒犬将軍の溺愛を受ける
アザトースト
BL
ブランは自他ともに認める偏屈である。
他人にとっての自分とは無関心と嫌悪の狭間に位置していることを良く良く知っていたし、こんな自分に恋人なんて出来るわけがないと思っていた。そもそも作りたくもない。
司書として本に溺れるような日々を送る中、ブランに転機が訪れる。
幼馴染のオニキスがとある契約を持ちかけてきたのだ。
ブランとオニキス、それぞれの利害が一致した契約関係。
二人の関係はどのように変化するのか。
短編です。すぐに終わる予定です。
毎日投稿します。
♡や感想、大変励みになりますので宜しければ片手間に♡押してって下さい!
【完結】悪役に転生したので、皇太子を推して生き延びる
ざっしゅ
BL
気づけば、男の婚約者がいる悪役として転生してしまったソウタ。
この小説は、主人公である皇太子ルースが、悪役たちの陰謀によって記憶を失い、最終的に復讐を遂げるという残酷な物語だった。ソウタは、自分の命を守るため、原作の悪役としての行動を改め、記憶を失ったルースを友人として大切にする。
ソウタの献身的な行動は周囲に「ルースへの深い愛」だと噂され、ルース自身もその噂に満更でもない様子を見せ始める。
声なき王子は素性不明の猟師に恋をする
石月煤子
BL
第一王子である腹違いの兄から命を狙われた、妾の子である庶子のロスティア。
毒薬によって声を失った彼は城から逃げ延び、雪原に倒れていたところを、猟師と狼によって助けられた。
「王冠はあんたに相応しい。王子」
貴方のそばで生きられたら。
それ以上の幸福なんて、きっと、ない。
おしまいのそのあとは
makase
BL
悪役令息として転生してしまった神楽坂龍一郎は、心を入れ替え、主人公のよき友人になるよう努力していた。ところがこの選択肢が、神楽坂の大切な人を傷つける可能性が浮上する。困った神楽坂は、自分を犠牲にする道を歩みかけるが……
きっと、君は知らない
mahiro
BL
前世、というのだろうか。
俺は前、日本という国で暮らしていて、あの日は中学時代にお世話になった先輩の結婚式に参列していた。
大人になった先輩と綺麗な女性の幸せそうな姿に胸を痛めながら見つめていると二人の間に産まれたという女の子がひとりで車道に向かい歩いている姿が目に入った。
皆が主役の二人に夢中で子供の存在に気付いておらず、俺は慌ててその子供のもとへと向かった。
あと少しで追い付くというタイミングで大型の車がこちらに向かってくるのが見え、慌ててその子供の手を掴み、彼らのいる方へと突き飛ばした。
次の瞬間、俺は驚く先輩の目と合ったような気がするが、俺の意識はそこで途絶えてしまった。
次に目が覚めたのは見知らぬ世界で、聞いたことのない言葉が行き交っていた。
それから暫く様子を見ていたが、どうやら俺は異世界に転生したらしく………?
転生したようだけど?流れに身を任せていたら悪役令息?として断罪されていた――分からないまま生きる。
星乃シキ
BL
発作の後に目覚めたら、公爵家嫡男の身体だった。
前世の記憶だけを抱えたまま生きるレイは、ある夜、男の聖女への嫌がらせの罪で断罪される。
だが図書室の記録が冤罪を覆す。
そしてレイは知る。
聖女ディーンの本当の名はアキラ。
同じ日本から来た存在だった。
帰りたい聖女と、この身体で生きるレイ。
秘密を共有した二人は、友達になる。
人との関わりを避けてきたレイの人間関係が、少しずつ動き始める。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる