記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています

たら昆布

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12話

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「……ヴァル、本当にこれで大丈夫なの?」

 離宮の隠し通路へと続く地味な扉の前で、ロロは自分の格好を鏡で見つめ、不安げに首をかしげた。
 普段の豪華な絹の着物ではなく、今日は丈夫な麻のシャツに、少し使い込まれたような質感のベスト。下町で働く商家の息子か、あるいは少し裕福な平民といった風情だ。

「ああ。お前はどんな格好をしていても愛らしいが、その質素な装いも……なんというか、無防備で俺の独占欲を刺激するな」

 隣に立つヴァルもまた、いつもの軍服を脱ぎ捨てていた。
 深い紺色のマントを羽織り、首元まで詰まったシャツを着ているが、隠しきれないのはその圧倒的な「ガタイ」と、彫刻のように整いすぎた顔立ちだ。銀髪を少し乱して帽子で隠してはいるものの、どこからどう見ても『訳あって身分を隠している超大物』にしか見えない。

「ヴァルこそ、目立ちすぎだよ。……あと、そのマントの裏側、こっそり最高級の毛皮が使われてない? 下町の人はそんなの着ないよ」

「万が一、風が吹いてお前が冷えたら困るだろう。……さあ、行こう。ロロ、俺の手を離すなよ」

 ヴァルは当然のように、ロロの手を大きな掌で包み込んだ。
 指と指を絡める、恋人繋ぎ。
 ロロは一瞬ドキリとしたが、すぐに「あざとい婚約者」の顔を作って、ぎゅっと握り返した。

「うん、離さないでね。……僕、迷子になっちゃうかもしれないから」

「……っ。ああ、一生離さない」

(はい、重い! 一言言っただけで愛が重いよ、皇帝陛下!)

 二人は隠し扉を抜け、離宮の敷地を出て、帝都の活気あふれる大通りへと繋がる裏道へ出た。
 
 一歩、外の世界へ踏み出した瞬間。
 ロロの鼻をくすぐったのは、馬車の轍が巻き上げる土の匂い、どこかの軒先で焼かれているパンの芳ばしい香り、そして人々の喧騒だった。
 
「わあ……っ! すごい、人がいっぱいだね、ヴァル!」

 ロロは思わず声を弾ませた。
 スパイとして潜入していた時は、常に「敵」を探して周囲を警戒していた街並み。けれど今、ヴァルの隣で歩く街は、まるで初めて見る景色のようにキラキラと輝いて見えた。
 
「そんなに走るな、ロロ。足元が悪いぞ。……ほら、そこは石畳が欠けている。危ない」

 ヴァルは一歩進むごとに、ロロの腰を支えたり肩を抱き寄せたりと忙しない。
 過保護すぎて、ロロはもはや自分が自力で歩けているのか怪しくなってくるほどだ。

「大丈夫だってば。……あ、見て! あそこの露店、可愛い小物がたくさんあるよ!」

 ロロが指差したのは、色とりどりのガラス細工や、木彫りの動物を並べた小さな露店だった。
 店主の老人が「いらっしゃい、仲睦まじいお二人さんだね」と声をかけると、ヴァルがピクンと眉を動かした。

「……ほう。見てわかるか」

「そりゃあねぇ。これだけ美男美女……おっと、美青年同士が手を繋いで歩いてりゃあ、一目瞭然だよ」

 ヴァルは満足げに頷くと、ロロが手に取った「木彫りの小さなリス」を凝視した。

「ロロ、それが欲しいのか?」

「えっ、あ、うん。なんだかヴァルが植えてくれた陽だまり草に似合うかなって思って。……でも、そんなに高いものじゃないし、自分で――」

「店主。これと、そこにあるガラスの小鳥、それから……。いや、この棚のものすべて包め」

「……待って!!!」

 ロロは慌ててヴァルの腕にぶら下がった。
 これだ。この皇帝、加減というものを全く知らない。

「一つでいいの! 全部買ったらお部屋に置けなくなっちゃうでしょ? それに、お忍びなんだから大金を使ったら怪しまれちゃうよ」

「……。……そうか。お前がそう言うなら、一つにしよう」

 ヴァルは残念そうにリスの置物だけを買い取った。
 店を出て歩き出すと、ロロはもらったばかりのリスを大事そうに懐にしまった。

「……ヴァル。ありがとう、大切にするね」

「……。……ああ。お前がそんなに喜んでくれるなら、次は店ごと買い取って離宮に移築しよう」

「だから、極端だってば!」

 ロロがくすくすと笑うと、ヴァルも少しだけ照れくさそうに口角を上げた。
 冷酷皇帝として恐れられている彼が、下町の雑踏の中で、たった一人の青年の笑顔に一喜一憂している。その光景は、ロロの心に不思議な温かさを灯した。
 
 しばらく歩くと、広場の中央に大きな噴水が見えてきた。
 周りにはベンチがあり、人々が思い思いに休憩している。

「少し休もうか、ロロ。喉は乾いていないか?」

「うん。……あ、あそこの屋台のジュース、美味しそう!」

 ロロが指差したのは、帝都特産の甘酸っぱい果実「ルル実」をその場で絞ってくれるジューススタンドだった。
 ヴァルは「俺が買ってこよう。ここで待っていろ、動くなよ」と言い残し、人混みの中へ消えていった。

 一人残されたロロは、ベンチに座って帝都の空を見上げた。
 
(……なんだか、不思議だな。僕、本当はこの国の敵なのに。こうしてヴァルの隣にいると、ずっと前からここで暮らしていたような……そんな錯覚をしちゃうよ)

 その時。

「――おい。あんた、見ない顔だな」

 不意に、横から声をかけられた。
 見れば、少し柄の悪そうな男たちが数人、ニヤニヤと笑いながらロロを囲んでいた。

「いい格好してるじゃないか。お貴族様の家出か? それとも、綺麗な顔をして売られてる途中か?」

 ロロの背筋に、スパイ時代の冷たい感覚が走る。
 反射的に懐の「リス」を握りしめ、逃走経路を確認しようとした――が、ロロはすぐに思い出した。
 今の自分は、「記憶喪失の可憐な婚約者」なのだ。
 
「……。……あの、僕、連れを待ってるんです。どいてください」

 少し震える声で、怯えるフリをする。
 すると男たちは面白がって、さらに距離を詰めてきた。

「なんだよ、冷たいな。俺たちが遊んで――」

 男の手がロロの肩に触れようとした、その瞬間。

 ドゴォッ!! という重苦しい音と共に、男の体が真横に吹き飛んだ。

「……俺のロロに、その汚い手を触れようとしたのは貴様か?」

 そこには、両手にジュースのコップを持ったまま、氷よりも冷たい瞳をしたヴァルが立っていた。
 いや、立っているというよりは、そこだけ空気が絶対零度になっているかのような威圧感だ。

「な、なんだてめぇ……っ! あべしっ!?」

 ヴァルは表情一つ変えず、近寄ってきた二人目の男を片手で軽々と投げ飛ばした。
 
「ヴァ、ヴァル! もういいよ、大丈夫だから!」

 ロロが慌てて割って入ると、ヴァルは一瞬で「溺愛モード」に戻り、手に持っていたジュースをロロに差し出した。

「すまない、ロロ。少し目を離した隙に、不快な思いをさせた。……今すぐ騎士団を呼んで、この広場一帯を更地にしようか?」

「しないで!! 普通にジュース飲んで帰ろう!?」

 ロロはヴァルの腕にしがみつき、なんとか彼の暴走を止めた。
 男たちは、ヴァルの尋常ならざる気迫に腰を抜かし、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 騒ぎが収まり、二人は並んでベンチに座り、ジュースを飲んだ。
 甘酸っぱい果汁が、火照った体に心地よく染み渡る。

「……ヴァル、守ってくれてありがとう」

「当然だ。……お前を傷つけるものは、この世界の塵一つ残さず排除する。……たとえ、それがお前の過去であってもな」

 ヴァルがふと漏らしたその言葉に、ロロはジュースを飲む手を止めた。
 
「僕の、過去……?」

「……いや、独り言だ。……ロロ。帰ったら、また二人で陽だまり草に水をやろう。……お前が望むなら、明日も、その次も、こうして外へ連れてきてやる」

 ヴァルはロロの頭を優しく撫でた。
 その手のひらは、先ほど男を投げ飛ばした時と同じ手だとは思えないほど、温かくて不器用で――。
 
(……だめだ。やっぱり、僕。この人の嘘の中に、ずっといたいって思っちゃうよ)

 夕暮れに染まる帝都の広場。
 二人の影は長く伸び、まるで一つのように重なっていた。
 
 寄り道だらけの初デート。
 ロロは、ヴァルからもらった木彫りのリスをもう一度ぎゅっと握りしめ、幸せな「嘘」の続きを歩き出すのだった。
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