記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています

たら昆布

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11話

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 窓辺に飾られた「陽だまり草」が、朝の光を浴びて誇らしげに花弁を広げている。
 ヴァルが泥だらけになって植えてくれたその花は、離宮のどの高価な調度品よりも、ロロの視線を惹きつけて離さなかった。

(……だめだ、昨日の光景が頭から離れない。あの皇帝、本当にバカだよなぁ)

 ロロは朝食の白パンを千切りながら、隣で甲斐甲斐しくジャムを塗ってくれているヴァルを盗み見た。
 昨夜の泥は綺麗に洗い流され、彼は再び、非の打ち所がない美貌の皇帝へと戻っている。だが、その指先には昨日ロロが手当てした小さな絆創膏が、いくつも貼られたままだ。

 その不器用な献身が、ロロの「スパイとしての防衛本能」をじわじわと麻痺させていく。
 このまま黙って甘やかされているだけでは、いつか本当に自分の名前さえ忘れて、ただの「ロロ」になってしまうのではないか。そんな予感がロロを突き動かした。

「ねえ、ヴァル」

「どうした、ロロ。そのジャムが嫌だったか? すぐに別の、そうだな、隣国から取り寄せた最高級の蜂蜜に変えさせよう」

「ううん、そうじゃなくて。……あのね、昨日の夜、夢を見たの」

 ロロは、わざとらしくスプーンを動かす手を止め、遠くを見つめるような「物憂げな表情」を作った。
 ヴァルの動きが、ピタリと止まる。碧眼に鋭い緊張が走るのを、ロロは見逃さなかった。

「……夢、だと? どんな内容だ」

「よく思い出せないんだけど……。すごく冷たくて、暗い場所に、僕がいて。……そこに、銀色の髪の人が、僕を助けに来てくれた気がするの」

 ロロは、ヴァルの「捏造設定」に基づきつつ、自分の実際の記憶(地下牢でヴァルに捕まった時のこと)を、美化してスパイスとして混ぜ込んでみた。
 すると、ヴァルの顔色がみるみるうちに変わり、彼はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

「そ、それは……! ああ、ロロ。やはりお前の魂は覚えているのだな!」

 ヴァルはロロの隣に詰め寄ると、その両手を情熱的に握りしめた。

「そうだ。以前、お前が悪漢に襲われ、古い地下蔵に閉じ込められたことがあった。その時、俺が真っ先に駆けつけてお前を抱き上げたのだ。……あの時のお前は、俺の首にしがみついて『ヴァルがいれば何も怖くない』と泣きじゃくっていた……!」

(出た。秒速で新しい設定が生えてきたよ!)

 ロロは内心で盛大にツッコミを入れながらも、「ええっ、そうだったんですかぁ!?」と驚いて見せた。
 ヴァルの捏造スキルは、ロロの想像を遥かに超えていた。しかも、本人がその嘘を完全に「真実」として信じ込もうとしている節がある。

「なんだか、ヴァルの声を聞いていたら、その時の温かさを思い出した気がする……」

「ロロ……っ! ああ、なんという奇跡だ! パトリック! セレーナ! 今すぐ祭典の準備をしろ! ロロの記憶が、愛の力で戻りかけているぞ!」

(待って待って! 祭典なんてしないで! 話が大きくなりすぎ!)

 ロロは慌ててヴァルの袖を引っ張った。

「だ、ダメだよ、ヴァル! まだほんの少し、霧が晴れたみたいになっただけなんだから。大騒ぎしたら、また忘れちゃうかもしれないし……」

「っ……。そうか。そうだな、お前の言う通りだ。焦りは禁物だった」

 ヴァルは深呼吸をして、なんとか自分を落ち着かせようとしたが、握った手の力は一向に緩まない。それどころか、彼の瞳は期待と喜びにキラキラと輝いている。

「ロロ。……無理に思い出そうとしなくていい。だが、もし何かを感じたら、すぐに俺に言ってくれ。どんな些細なことでも、俺たちの愛の証なのだから」

「うん……。……ヴァル、ありがとう」

 ロロは、ヴァルのその真っ直ぐな瞳を見るのが辛くなり、彼の胸に顔を埋めた。
 喜ばせようと思ってついた「嘘」だったが、ヴァルの反応があまりに純粋すぎて、罪悪感が倍増してしまったのだ。

(ああ、もう……。この皇帝、なんでこんなにチョロいの。これじゃあ、僕が嘘をつくたびに、この人の世界がどんどん書き換えられちゃうじゃないか)

 ヴァルは、ロロを愛おしそうに抱きしめながら、その頭を何度も撫でた。

「ロロ。お前が思い出してくれるなら、俺は何もいらない。……たとえ、俺がついた嘘が……、いや。何でもない」

 ヴァルの声が、一瞬だけ微かに震えた気がした。
 ロロは、彼の胸の中で「本当のこと」を言い出せない自分に、深い溜息をついた。

 記憶が戻ったフリ、という新たな寄り道。
 それは、二人の関係をさらに甘く、そして複雑にこじらせていく「甘い罠」の始まりに過ぎなかった。

 朝食のテーブルの上、冷めかけた紅茶からは、昨日よりも少しだけ切ない香りが立ち上っていた。
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