11 / 44
第十話
しおりを挟む
私がレオをあの場所で待つ時間は、少しずつ減った。
その代わりに私は、自室のバルコニーで椅子に座りながら、ばあやの声を聞くことが多くなった。
様々な本の読み聞かせ。
本を読むという行為は、意外と体力がいる仕事で、最初はばあや一人でしていたが、やがて私付きの侍女が、かわるがわる読んでくれるようになった。
その声を聞く度に、私は有難いと思った。
すべて、当然のことではないから。
温かい部屋も、椅子も、日差しも、声も。
すべては私がモンテリオールの子どもだから、受けている恩恵。
そして――モンテリオールの子どもだから、私は目が見えなくなった。
そう、矛盾している。
けれど。
そう、前向きに捉えなければいけない。
そうしないと――私はきっと、この暗闇に飲まれてしまう。
……だから私は、今日も静かに耳を澄ます。
ページをめくる音。
紙の擦れる気配。
誰かの声。
私の世界は、まだここにある。
でも。
あの足音だけが、ここには来ない。
それなのに今日は、理由もなく――ただ、あの場所で一日を過ごそうと決めた。
直感なんて、信じたことはなかった。
けれど。
砂利を踏む、聞き慣れた音がした瞬間。
私は思った。
当たるのかもしれない、と。
叫んでしまいたかった。
「レオ」と――喉が勝手にその形を作ってしまうほど。
なのに、声は出なかった。
私はただ、身じろぎもせず、その音に聞き入った。
「ティア」
懐かしいその声は、少しだけ掠れていた。
「……声」
私はレオと呼ぶ前に、歓迎する前に、先にそれを口にしてしまった。
「声?」
レオが喉を整えるように、小さく息を呑む。
「……ゔゔんっ」
子どもみたいに、誤魔化すような音。
「声変わり、かな」
少し低くなった声が、少しだけ大人びて聞こえた。
――それでも、優しさだけは変わらなかった。
「レオは、少し大人になったのね」
私の言葉に、レオはおかしそうに笑った。
「ティアも――会うたびに綺麗になっていってるよ」
レオから「綺麗」と言われたのは、初めてだった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
私は反射みたいに両手で顔を隠してしまった。
だって私は、自分の今の顔を知らない。
どんな顔をしているのだろう。
お母様が「かわいい」と笑ってくれたそばかすは、今もそこにあるの?
ばあやが「神秘的」と褒めてくれた翠の瞳は――私はもう、思い出の中でしか触れられないけれど。
モンテリオールの色だと言われた、燃えるように赤い、少し癖のある髪は。
……レオには、どんなふうに見えているの?
私はゆっくりと手を下ろして、見えないまま、レオのいる方へ顔を向けた。
「ねえ、レオ」
声が、少しだけ小さくなる。
「今の私は……どんな顔をしてるの?」
言い終えた瞬間、空気が変わった気がした。
見えないのに、視線の重さだけが分かる。
レオが、私をちゃんと“見ている”――そう思っただけで、頬に熱が集まっていくのを止められなかった。
沈黙が、短く落ちる。
それから。
「……かわいいよ。かわいい」
返ってきたのは、あまりにも単純な言葉だった。
拍子抜けしてしまう。
なのに、その声の甘やかさに胸が高鳴った。
――だめ。
このまま、もっと言われたら。
私は慌てて息を吸い、言葉を被せるみたいに口を開いた。
「レ、レオは……どんな見た目をしているの?」
早口になってしまう。
「髪の色とか、瞳の色とか……」
自分のことを訊いたのに、いまさら怖くなって。
私は、話題をすり替えることで、その熱から逃げようとした。
「僕は……」
ほんの少し、言葉が遅れる。
迷いというより――戸惑っているような間。
「……銀髪に近い金色の髪で」
小さく笑う気配がした。
「目は、ここサン=リュミエールの……リュミー湖みたいな、水色」
なぜ、その一拍が必要だったのかは分からない。
けれど、湖の色で教えてくれたことが嬉しかった。
想像できる。
私の中のリュミー湖が、レオの瞳になる。
「……素敵ね」
言ってから、胸の奥が少し遅れて熱くなる。
今さら、レオの髪も瞳も――私の中で、形を持ち始めたからだ。
それで、ふと気づく。
喉の奥が、きゅっと鳴った。
「ねえ」
自分でも驚くほど、声が弾んだ。
「私たちの色って……『黄金の王子と赤髪の娘』の色と同じじゃない?」
言ってしまった瞬間、指先が落ち着かなくなる。
まるで、秘密を口にしたみたいに。
レオが、ほんの少し黙る気配がした。
その沈黙の形に、私は勝手に思ってしまう。
さっきの一拍は、これのせいだったのかもしれない、と。
胸が、くすぐったくて。
でも、同じくらい――怖い。
あの物語は、いわゆる普通のハッピーエンドではなかった。
――彼らは、結ばれなかった。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。
……なのに。
その冷たさの向こう側で、別の気持ちが、ちいさく灯るのを感じた。
だって、いま私は――こうしてレオの声を聞いている。
物語の中の二人とは違う、と言い切れる根拠なんて何もないのに。
それでも、私は、違ってほしかった。
私は、指先を握りしめる。
「ねえ、レオ」
声が、少しだけ震えた。
「私ね……踊ってみたいの」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
舞踏会のことを口にするなんて、ずっと避けてきたのに。
だって私は、見えない。
見えないのに、踊るなんて――笑われるだけだ。
でも、なぜだろう。
いまだけは、怖さより先に、願いが出てきた。
「……一度でいいの」
私は言葉を探すみたいに、ゆっくり続ける。
「音を聞きながら、誰かの手に導かれて……“踊っている”って分かるくらいでいい」
レオの気配が揺れた。
驚いたのか、迷ったのか。
それから、少しだけ低い声が落ちる。
「……踊りたい?」
「うん」
私はうなずく。
「変かな」
「変じゃない」
即答だった。
その短さが、妙に嬉しくて、苦しくて。
私は、笑ってしまいそうになる。
「でも、ここだと――砂利が邪魔だね」
レオが言った。
その言葉に、私は息を呑む。
「じゃあ」
レオの手が、私の手を探してくる。
触れた瞬間、温かい。
あの頃より少し大きくなった掌。
「移動しよう。広いところに」
「……広いところ?」
「うん。砂利のない、平らな場所。ティアが安全に踊れるところ」
ティアが安全に。
その一言が、胸にやさしく落ちた。
“踊りたい”と言った私を、否定しない。
笑わない。
危ないからやめろ、とも言わない。
ただ、叶えるために考えてくれる。
私は、もう一度、手を握り返した。
「……連れていって」
レオの手に引かれて立ち上がると、足元の砂利がざらりと鳴った。
その音が、少し怖かった。
私はいま、見えないまま立っている。
しかも「踊ってみたい」なんて言ってしまった。
恥ずかしさで胸が熱いのに、足元の不安が冷たく這い上がってくる。
けれど。
レオは迷いなく、私の手を握ったまま歩き出した。
急がない。速すぎない。
私の歩幅に合わせてくれているのが分かる。
どこかで鳥が鳴いた。
風が葉を揺らし、陽だまりの匂いがした。
昼の光が当たっているはずなのに、私の世界は変わらず暗い。
それでも、空気の温度で分かる。
「段差、ない?」
小さく訊くと、レオはすぐ答えた。
「いまは平ら。……あと少しで砂利が終わる」
その「あと少し」が、救いみたいに聞こえた。
私は頷いて、足を前へ出す。
砂利が鳴り、次の一歩で――音が変わった。
ざらり、が消えて、靴底が静かに擦れる音になる。
土でも芝でもない、硬くて、安定した感触。
「ここ」
レオが言った。
「石のテラス。日当たりがいい。滑りにくいところだよ」
私は足先をそっと動かして確かめる。
確かに、揺れない。
息が、少しだけ深く吸えるようになった。
「……ここなら、踊れる?」
私の声に、レオは小さく笑った気配を落とした。
「踊れる」
たったそれだけ。
それだけなのに、胸がふっと軽くなる。
「ティア」
レオが、少しだけ低い声で言う。
「怖かったら、すぐ止める。無理はしない」
「……うん」
その言葉が、胸の奥にやさしく落ちた。
“踊りたい”と言った私を、笑わない。
否定しない。
叶えるために考えてくれる。
「どうすればいいの?」
私が訊くと、レオの気配が一歩近づいた。
近い。
日向の温かさとは別の、体温の温かさがすぐそこにある。
「手を」
レオが言った。
私は素直に差し出す。
レオは私の片手を少し高く持ち上げて、もう片方をそっと腰のあたりへ導いた。
触れない。けれど、触れそうな距離。
「……ここに置いて」
声が、ほんの少しだけ硬い。
レオも緊張しているのかもしれない。
それが妙に嬉しくて、胸の奥がくすぐったくなる。
私は言われた通りに手を置いた。
布越しに、熱が伝わる。
同時に、レオの手が私の背に回る。
支えるだけの手。
抱き寄せる手ではない。
その“節度”が、きちんとした優しさに思えて、私は安心して息を吐いた。
「音楽はないけど」
レオが言った。
「数える。僕が合図を出す」
「うん」
音がないのは、逆にいい。
誰も見ていない。
誰にも笑われない。
ここには、私とレオしかいない。
「じゃあ――一、二、三」
レオの声が、足元に落ちる。
「……四」
その「四」で、レオがほんの少しだけ私を導いた。
足を出す方向。
体重を乗せる位置。
私は言われた通りに足を動かす。
最初はぎこちなくて、笑ってしまいそうだった。
でも笑ったら、崩れてしまう気がして、私は必死にレオの手の圧だけを頼りにした。
「上手」
すぐに、レオが言う。
「……上手?」
思わず聞き返す。
「うん。ティア、感覚がいい」
感覚がいい。
見えない私に、そんな褒め言葉をくれる人は、いなかった。
胸が、熱くなる。
「もう一回」
レオが言った。
「一、二、三、四」
今度は、さっきより滑らかに動けた気がした。
靴底が、石の上を小さく擦る。
衣擦れの音が、風に混ざる。
私は――踊っている。
頭で理解するより先に、身体の奥がそれを知る。
嬉しい。
嬉しくて、笑ってしまいそうで。
でも私は、笑わずに口にした。
「ねえ、レオ」
「いま……私、踊れてる?」
レオが、一拍だけ黙る。
それから、確かめるみたいに、静かに言った。
「踊れてるよ」
胸の奥に、灯がつく。
暗闇の中でも、確かに灯るものがある。
それを、私は初めて信じられた。
「……もう少しだけ」
私が言うと、レオの手がほんの少しだけ強くなった。
「うん」
短い返事。
それだけで、十分だった。
「一、二、三、四」
レオの声が、私の世界を整えていく。
そして私は、その声に合わせて――
初めて、自分が“女の子”であることを思い出した。
「……ねえ、レオ」
息が整った頃、私は恐る恐る言った。
「私、文字も……もう覚えてるだけで、増えないの」
お父様は、私をこの領地に送ってから、家庭教師を付けてはくれなかった。
目が見えなくなった娘は、外にも出せない。
侯爵令嬢としては“瑕疵”がある――そう判断されたのかもしれない。
だから私は、言った。
一番言ってはいけない気がするお願いを。
「外国語、教えて」
レオは、少しも笑わなかった。
「いいよ」
たったそれだけで、胸が満ちた。
「じゃあ――最初は、挨拶から」
その日、私の世界に、踊りと一緒に“新しい言葉”が増えた。
その代わりに私は、自室のバルコニーで椅子に座りながら、ばあやの声を聞くことが多くなった。
様々な本の読み聞かせ。
本を読むという行為は、意外と体力がいる仕事で、最初はばあや一人でしていたが、やがて私付きの侍女が、かわるがわる読んでくれるようになった。
その声を聞く度に、私は有難いと思った。
すべて、当然のことではないから。
温かい部屋も、椅子も、日差しも、声も。
すべては私がモンテリオールの子どもだから、受けている恩恵。
そして――モンテリオールの子どもだから、私は目が見えなくなった。
そう、矛盾している。
けれど。
そう、前向きに捉えなければいけない。
そうしないと――私はきっと、この暗闇に飲まれてしまう。
……だから私は、今日も静かに耳を澄ます。
ページをめくる音。
紙の擦れる気配。
誰かの声。
私の世界は、まだここにある。
でも。
あの足音だけが、ここには来ない。
それなのに今日は、理由もなく――ただ、あの場所で一日を過ごそうと決めた。
直感なんて、信じたことはなかった。
けれど。
砂利を踏む、聞き慣れた音がした瞬間。
私は思った。
当たるのかもしれない、と。
叫んでしまいたかった。
「レオ」と――喉が勝手にその形を作ってしまうほど。
なのに、声は出なかった。
私はただ、身じろぎもせず、その音に聞き入った。
「ティア」
懐かしいその声は、少しだけ掠れていた。
「……声」
私はレオと呼ぶ前に、歓迎する前に、先にそれを口にしてしまった。
「声?」
レオが喉を整えるように、小さく息を呑む。
「……ゔゔんっ」
子どもみたいに、誤魔化すような音。
「声変わり、かな」
少し低くなった声が、少しだけ大人びて聞こえた。
――それでも、優しさだけは変わらなかった。
「レオは、少し大人になったのね」
私の言葉に、レオはおかしそうに笑った。
「ティアも――会うたびに綺麗になっていってるよ」
レオから「綺麗」と言われたのは、初めてだった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
私は反射みたいに両手で顔を隠してしまった。
だって私は、自分の今の顔を知らない。
どんな顔をしているのだろう。
お母様が「かわいい」と笑ってくれたそばかすは、今もそこにあるの?
ばあやが「神秘的」と褒めてくれた翠の瞳は――私はもう、思い出の中でしか触れられないけれど。
モンテリオールの色だと言われた、燃えるように赤い、少し癖のある髪は。
……レオには、どんなふうに見えているの?
私はゆっくりと手を下ろして、見えないまま、レオのいる方へ顔を向けた。
「ねえ、レオ」
声が、少しだけ小さくなる。
「今の私は……どんな顔をしてるの?」
言い終えた瞬間、空気が変わった気がした。
見えないのに、視線の重さだけが分かる。
レオが、私をちゃんと“見ている”――そう思っただけで、頬に熱が集まっていくのを止められなかった。
沈黙が、短く落ちる。
それから。
「……かわいいよ。かわいい」
返ってきたのは、あまりにも単純な言葉だった。
拍子抜けしてしまう。
なのに、その声の甘やかさに胸が高鳴った。
――だめ。
このまま、もっと言われたら。
私は慌てて息を吸い、言葉を被せるみたいに口を開いた。
「レ、レオは……どんな見た目をしているの?」
早口になってしまう。
「髪の色とか、瞳の色とか……」
自分のことを訊いたのに、いまさら怖くなって。
私は、話題をすり替えることで、その熱から逃げようとした。
「僕は……」
ほんの少し、言葉が遅れる。
迷いというより――戸惑っているような間。
「……銀髪に近い金色の髪で」
小さく笑う気配がした。
「目は、ここサン=リュミエールの……リュミー湖みたいな、水色」
なぜ、その一拍が必要だったのかは分からない。
けれど、湖の色で教えてくれたことが嬉しかった。
想像できる。
私の中のリュミー湖が、レオの瞳になる。
「……素敵ね」
言ってから、胸の奥が少し遅れて熱くなる。
今さら、レオの髪も瞳も――私の中で、形を持ち始めたからだ。
それで、ふと気づく。
喉の奥が、きゅっと鳴った。
「ねえ」
自分でも驚くほど、声が弾んだ。
「私たちの色って……『黄金の王子と赤髪の娘』の色と同じじゃない?」
言ってしまった瞬間、指先が落ち着かなくなる。
まるで、秘密を口にしたみたいに。
レオが、ほんの少し黙る気配がした。
その沈黙の形に、私は勝手に思ってしまう。
さっきの一拍は、これのせいだったのかもしれない、と。
胸が、くすぐったくて。
でも、同じくらい――怖い。
あの物語は、いわゆる普通のハッピーエンドではなかった。
――彼らは、結ばれなかった。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。
……なのに。
その冷たさの向こう側で、別の気持ちが、ちいさく灯るのを感じた。
だって、いま私は――こうしてレオの声を聞いている。
物語の中の二人とは違う、と言い切れる根拠なんて何もないのに。
それでも、私は、違ってほしかった。
私は、指先を握りしめる。
「ねえ、レオ」
声が、少しだけ震えた。
「私ね……踊ってみたいの」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
舞踏会のことを口にするなんて、ずっと避けてきたのに。
だって私は、見えない。
見えないのに、踊るなんて――笑われるだけだ。
でも、なぜだろう。
いまだけは、怖さより先に、願いが出てきた。
「……一度でいいの」
私は言葉を探すみたいに、ゆっくり続ける。
「音を聞きながら、誰かの手に導かれて……“踊っている”って分かるくらいでいい」
レオの気配が揺れた。
驚いたのか、迷ったのか。
それから、少しだけ低い声が落ちる。
「……踊りたい?」
「うん」
私はうなずく。
「変かな」
「変じゃない」
即答だった。
その短さが、妙に嬉しくて、苦しくて。
私は、笑ってしまいそうになる。
「でも、ここだと――砂利が邪魔だね」
レオが言った。
その言葉に、私は息を呑む。
「じゃあ」
レオの手が、私の手を探してくる。
触れた瞬間、温かい。
あの頃より少し大きくなった掌。
「移動しよう。広いところに」
「……広いところ?」
「うん。砂利のない、平らな場所。ティアが安全に踊れるところ」
ティアが安全に。
その一言が、胸にやさしく落ちた。
“踊りたい”と言った私を、否定しない。
笑わない。
危ないからやめろ、とも言わない。
ただ、叶えるために考えてくれる。
私は、もう一度、手を握り返した。
「……連れていって」
レオの手に引かれて立ち上がると、足元の砂利がざらりと鳴った。
その音が、少し怖かった。
私はいま、見えないまま立っている。
しかも「踊ってみたい」なんて言ってしまった。
恥ずかしさで胸が熱いのに、足元の不安が冷たく這い上がってくる。
けれど。
レオは迷いなく、私の手を握ったまま歩き出した。
急がない。速すぎない。
私の歩幅に合わせてくれているのが分かる。
どこかで鳥が鳴いた。
風が葉を揺らし、陽だまりの匂いがした。
昼の光が当たっているはずなのに、私の世界は変わらず暗い。
それでも、空気の温度で分かる。
「段差、ない?」
小さく訊くと、レオはすぐ答えた。
「いまは平ら。……あと少しで砂利が終わる」
その「あと少し」が、救いみたいに聞こえた。
私は頷いて、足を前へ出す。
砂利が鳴り、次の一歩で――音が変わった。
ざらり、が消えて、靴底が静かに擦れる音になる。
土でも芝でもない、硬くて、安定した感触。
「ここ」
レオが言った。
「石のテラス。日当たりがいい。滑りにくいところだよ」
私は足先をそっと動かして確かめる。
確かに、揺れない。
息が、少しだけ深く吸えるようになった。
「……ここなら、踊れる?」
私の声に、レオは小さく笑った気配を落とした。
「踊れる」
たったそれだけ。
それだけなのに、胸がふっと軽くなる。
「ティア」
レオが、少しだけ低い声で言う。
「怖かったら、すぐ止める。無理はしない」
「……うん」
その言葉が、胸の奥にやさしく落ちた。
“踊りたい”と言った私を、笑わない。
否定しない。
叶えるために考えてくれる。
「どうすればいいの?」
私が訊くと、レオの気配が一歩近づいた。
近い。
日向の温かさとは別の、体温の温かさがすぐそこにある。
「手を」
レオが言った。
私は素直に差し出す。
レオは私の片手を少し高く持ち上げて、もう片方をそっと腰のあたりへ導いた。
触れない。けれど、触れそうな距離。
「……ここに置いて」
声が、ほんの少しだけ硬い。
レオも緊張しているのかもしれない。
それが妙に嬉しくて、胸の奥がくすぐったくなる。
私は言われた通りに手を置いた。
布越しに、熱が伝わる。
同時に、レオの手が私の背に回る。
支えるだけの手。
抱き寄せる手ではない。
その“節度”が、きちんとした優しさに思えて、私は安心して息を吐いた。
「音楽はないけど」
レオが言った。
「数える。僕が合図を出す」
「うん」
音がないのは、逆にいい。
誰も見ていない。
誰にも笑われない。
ここには、私とレオしかいない。
「じゃあ――一、二、三」
レオの声が、足元に落ちる。
「……四」
その「四」で、レオがほんの少しだけ私を導いた。
足を出す方向。
体重を乗せる位置。
私は言われた通りに足を動かす。
最初はぎこちなくて、笑ってしまいそうだった。
でも笑ったら、崩れてしまう気がして、私は必死にレオの手の圧だけを頼りにした。
「上手」
すぐに、レオが言う。
「……上手?」
思わず聞き返す。
「うん。ティア、感覚がいい」
感覚がいい。
見えない私に、そんな褒め言葉をくれる人は、いなかった。
胸が、熱くなる。
「もう一回」
レオが言った。
「一、二、三、四」
今度は、さっきより滑らかに動けた気がした。
靴底が、石の上を小さく擦る。
衣擦れの音が、風に混ざる。
私は――踊っている。
頭で理解するより先に、身体の奥がそれを知る。
嬉しい。
嬉しくて、笑ってしまいそうで。
でも私は、笑わずに口にした。
「ねえ、レオ」
「いま……私、踊れてる?」
レオが、一拍だけ黙る。
それから、確かめるみたいに、静かに言った。
「踊れてるよ」
胸の奥に、灯がつく。
暗闇の中でも、確かに灯るものがある。
それを、私は初めて信じられた。
「……もう少しだけ」
私が言うと、レオの手がほんの少しだけ強くなった。
「うん」
短い返事。
それだけで、十分だった。
「一、二、三、四」
レオの声が、私の世界を整えていく。
そして私は、その声に合わせて――
初めて、自分が“女の子”であることを思い出した。
「……ねえ、レオ」
息が整った頃、私は恐る恐る言った。
「私、文字も……もう覚えてるだけで、増えないの」
お父様は、私をこの領地に送ってから、家庭教師を付けてはくれなかった。
目が見えなくなった娘は、外にも出せない。
侯爵令嬢としては“瑕疵”がある――そう判断されたのかもしれない。
だから私は、言った。
一番言ってはいけない気がするお願いを。
「外国語、教えて」
レオは、少しも笑わなかった。
「いいよ」
たったそれだけで、胸が満ちた。
「じゃあ――最初は、挨拶から」
その日、私の世界に、踊りと一緒に“新しい言葉”が増えた。
259
あなたにおすすめの小説
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
【完結】私が誰だか、分かってますか?
美麗
恋愛
アスターテ皇国
時の皇太子は、皇太子妃とその侍女を妾妃とし他の妃を娶ることはなかった
出産時の出血により一時病床にあったもののゆっくり回復した。
皇太子は皇帝となり、皇太子妃は皇后となった。
そして、皇后との間に産まれた男児を皇太子とした。
以降の子は妾妃との娘のみであった。
表向きは皇帝と皇后の仲は睦まじく、皇后は妾妃を受け入れていた。
ただ、皇帝と皇后より、皇后と妾妃の仲はより睦まじくあったとの話もあるようだ。
残念ながら、この妾妃は産まれも育ちも定かではなかった。
また、後ろ盾も何もないために何故皇后の侍女となったかも不明であった。
そして、この妾妃の娘マリアーナははたしてどのような娘なのか…
17話完結予定です。
完結まで書き終わっております。
よろしくお願いいたします。
幼馴染み同士で婚約した私達は、何があっても結婚すると思っていた。
喜楽直人
恋愛
領地が隣の田舎貴族同士で爵位も釣り合うからと親が決めた婚約者レオン。
学園を卒業したら幼馴染みでもある彼と結婚するのだとローラは素直に受け入れていた。
しかし、ふたりで王都の学園に通うようになったある日、『王都に居られるのは学生の間だけだ。その間だけでも、お互い自由に、世界を広げておくべきだと思う』と距離を置かれてしまう。
挙句、学園内のパーティの席で、彼の隣にはローラではない令嬢が立ち、エスコートをする始末。
パーティの度に次々とエスコートする令嬢を替え、浮名を流すようになっていく婚約者に、ローラはひとり胸を痛める。
そうしてついに恐れていた事態が起きた。
レオンは、いつも同じ令嬢を連れて歩くようになったのだ。
今日は私の結婚式
豆狸
恋愛
ベッドの上には、幼いころからの婚約者だったレーナと同じ色の髪をした女性の腐り爛れた死体があった。
彼女が着ているドレスも、二日前僕とレーナの父が結婚を拒むレーナを屋根裏部屋へ放り込んだときに着ていたものと同じである。
【番外編も完結】で、お前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか?
Debby
恋愛
ヴェルトが友人からの手紙を手に辺境伯令嬢であるレィディアンスの元を訪れたのは、その手紙に「詳細は彼女に聞け」と書いてあったからだ。
簡単にいうと、手紙の内容は「学園で問題を起こした平民──エボニーを妻として引き取ってくれ」というものだった。
一方その話を聞いてしまった伯爵令嬢のオリーブは動揺していた。
ヴェルトとは静かに愛を育んできた。そんな自分を差し置いて、言われるがまま平民を妻に迎えてしまうのだろうか。
そんなオリーブの気持ちを知るはずもないエボニーは、辺境伯邸で行儀見習いをすることになる。
オリーブは何とかしてヴェルトを取り戻そうと画策し、そのことを咎められてしまう。もう後は無い。
オリーブが最後の望みをかけてヴェルトに自分を選んで欲しいと懇願する中、レィディアンスが静かに口を開いた。
「で、そろそろお前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか」
「はい?」
ヴェルトは自分が何を言われたのか全く理解が出来なかった。
*--*--*
覗いてくださりありがとうございます。(* ᴗ ᴗ)⁾⁾
★2/17 番外編を投稿することになりました。→完結しました!
★★「このお話だけ読んでいただいてもOKです!」という前提のもと↓↓↓
このお話は独立した一つのお話ですが、「で。」シリーズのサイドストーリーでもあり、第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」の「エボニーその後」でもあります(あるいは「最終話」のその後)。
第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」
第二弾「で、あなたが私に嫌がらせをする理由を伺っても?」
第三弾「で、あなたが彼に嫌がらせをする理由をお話しいただいても?」
どれも女性向けHOTランキングに入り、特に第二弾はHOT一位になることが出来ました!(*´▽`人)アリガトウ
もしよかったら宜しくお願いしますね!
よかった、わたくしは貴女みたいに美人じゃなくて
碧井 汐桜香
ファンタジー
美しくないが優秀な第一王子妃に嫌味ばかり言う国王。
美しい王妃と王子たちが守るものの、国の最高権力者だから咎めることはできない。
第二王子が美しい妃を嫁に迎えると、国王は第二王子妃を娘のように甘やかし、第二王子妃は第一王子妃を蔑むのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる