【完結】「お前を愛する者などいない」と笑われた夜、私は“本物の王子”に拾われた

波依 沙枝

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第十話

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私がレオをあの場所で待つ時間は、少しずつ減った。

その代わりに私は、自室のバルコニーで椅子に座りながら、ばあやの声を聞くことが多くなった。

様々な本の読み聞かせ。

本を読むという行為は、意外と体力がいる仕事で、最初はばあや一人でしていたが、やがて私付きの侍女が、かわるがわる読んでくれるようになった。

その声を聞く度に、私は有難いと思った。

すべて、当然のことではないから。

温かい部屋も、椅子も、日差しも、声も。

すべては私がモンテリオールの子どもだから、受けている恩恵。

そして――モンテリオールの子どもだから、私は目が見えなくなった。

そう、矛盾している。

けれど。

そう、前向きに捉えなければいけない。

そうしないと――私はきっと、この暗闇に飲まれてしまう。

……だから私は、今日も静かに耳を澄ます。

ページをめくる音。

紙の擦れる気配。

誰かの声。

私の世界は、まだここにある。

でも。

あの足音だけが、ここには来ない。

それなのに今日は、理由もなく――ただ、あの場所で一日を過ごそうと決めた。

直感なんて、信じたことはなかった。

けれど。

砂利を踏む、聞き慣れた音がした瞬間。

私は思った。

当たるのかもしれない、と。

叫んでしまいたかった。

「レオ」と――喉が勝手にその形を作ってしまうほど。

なのに、声は出なかった。

私はただ、身じろぎもせず、その音に聞き入った。

「ティア」

懐かしいその声は、少しだけ掠れていた。

「……声」

私はレオと呼ぶ前に、歓迎する前に、先にそれを口にしてしまった。

「声?」

レオが喉を整えるように、小さく息を呑む。

「……ゔゔんっ」

子どもみたいに、誤魔化すような音。

「声変わり、かな」

少し低くなった声が、少しだけ大人びて聞こえた。

――それでも、優しさだけは変わらなかった。

「レオは、少し大人になったのね」

私の言葉に、レオはおかしそうに笑った。

「ティアも――会うたびに綺麗になっていってるよ」

レオから「綺麗」と言われたのは、初めてだった。

胸の奥が、きゅっと縮む。

私は反射みたいに両手で顔を隠してしまった。

だって私は、自分の今の顔を知らない。

どんな顔をしているのだろう。

お母様が「かわいい」と笑ってくれたそばかすは、今もそこにあるの?

ばあやが「神秘的」と褒めてくれた翠の瞳は――私はもう、思い出の中でしか触れられないけれど。

モンテリオールの色だと言われた、燃えるように赤い、少し癖のある髪は。

……レオには、どんなふうに見えているの?

私はゆっくりと手を下ろして、見えないまま、レオのいる方へ顔を向けた。

「ねえ、レオ」

声が、少しだけ小さくなる。

「今の私は……どんな顔をしてるの?」

言い終えた瞬間、空気が変わった気がした。

見えないのに、視線の重さだけが分かる。
レオが、私をちゃんと“見ている”――そう思っただけで、頬に熱が集まっていくのを止められなかった。

沈黙が、短く落ちる。

それから。

「……かわいいよ。かわいい」

返ってきたのは、あまりにも単純な言葉だった。

拍子抜けしてしまう。
なのに、その声の甘やかさに胸が高鳴った。

――だめ。
このまま、もっと言われたら。

私は慌てて息を吸い、言葉を被せるみたいに口を開いた。

「レ、レオは……どんな見た目をしているの?」
早口になってしまう。
「髪の色とか、瞳の色とか……」

自分のことを訊いたのに、いまさら怖くなって。
私は、話題をすり替えることで、その熱から逃げようとした。

「僕は……」

ほんの少し、言葉が遅れる。
迷いというより――戸惑っているような間。

「……銀髪に近い金色の髪で」

小さく笑う気配がした。

「目は、ここサン=リュミエールの……リュミー湖みたいな、水色」

なぜ、その一拍が必要だったのかは分からない。
けれど、湖の色で教えてくれたことが嬉しかった。

想像できる。
私の中のリュミー湖が、レオの瞳になる。

「……素敵ね」

言ってから、胸の奥が少し遅れて熱くなる。
今さら、レオの髪も瞳も――私の中で、形を持ち始めたからだ。

それで、ふと気づく。

喉の奥が、きゅっと鳴った。

「ねえ」

自分でも驚くほど、声が弾んだ。

「私たちの色って……『黄金の王子と赤髪の娘』の色と同じじゃない?」

言ってしまった瞬間、指先が落ち着かなくなる。
まるで、秘密を口にしたみたいに。

レオが、ほんの少し黙る気配がした。

その沈黙の形に、私は勝手に思ってしまう。
さっきの一拍は、これのせいだったのかもしれない、と。

胸が、くすぐったくて。
でも、同じくらい――怖い。

あの物語は、いわゆる普通のハッピーエンドではなかった。

――彼らは、結ばれなかった。

そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。

……なのに。

その冷たさの向こう側で、別の気持ちが、ちいさく灯るのを感じた。

だって、いま私は――こうしてレオの声を聞いている。

物語の中の二人とは違う、と言い切れる根拠なんて何もないのに。
それでも、私は、違ってほしかった。

私は、指先を握りしめる。

「ねえ、レオ」

声が、少しだけ震えた。

「私ね……踊ってみたいの」

言ってしまってから、自分でも驚いた。
舞踏会のことを口にするなんて、ずっと避けてきたのに。

だって私は、見えない。
見えないのに、踊るなんて――笑われるだけだ。

でも、なぜだろう。

いまだけは、怖さより先に、願いが出てきた。

「……一度でいいの」

私は言葉を探すみたいに、ゆっくり続ける。

「音を聞きながら、誰かの手に導かれて……“踊っている”って分かるくらいでいい」

レオの気配が揺れた。
驚いたのか、迷ったのか。

それから、少しだけ低い声が落ちる。

「……踊りたい?」

「うん」

私はうなずく。

「変かな」

「変じゃない」

即答だった。

その短さが、妙に嬉しくて、苦しくて。
私は、笑ってしまいそうになる。

「でも、ここだと――砂利が邪魔だね」

レオが言った。

その言葉に、私は息を呑む。

「じゃあ」

レオの手が、私の手を探してくる。

触れた瞬間、温かい。
あの頃より少し大きくなった掌。

「移動しよう。広いところに」

「……広いところ?」

「うん。砂利のない、平らな場所。ティアが安全に踊れるところ」

ティアが安全に。

その一言が、胸にやさしく落ちた。
“踊りたい”と言った私を、否定しない。
笑わない。
危ないからやめろ、とも言わない。

ただ、叶えるために考えてくれる。

私は、もう一度、手を握り返した。

「……連れていって」

レオの手に引かれて立ち上がると、足元の砂利がざらりと鳴った。

その音が、少し怖かった。
私はいま、見えないまま立っている。
しかも「踊ってみたい」なんて言ってしまった。

恥ずかしさで胸が熱いのに、足元の不安が冷たく這い上がってくる。

けれど。

レオは迷いなく、私の手を握ったまま歩き出した。
急がない。速すぎない。
私の歩幅に合わせてくれているのが分かる。

どこかで鳥が鳴いた。
風が葉を揺らし、陽だまりの匂いがした。

昼の光が当たっているはずなのに、私の世界は変わらず暗い。
それでも、空気の温度で分かる。

「段差、ない?」

小さく訊くと、レオはすぐ答えた。

「いまは平ら。……あと少しで砂利が終わる」

その「あと少し」が、救いみたいに聞こえた。

私は頷いて、足を前へ出す。
砂利が鳴り、次の一歩で――音が変わった。

ざらり、が消えて、靴底が静かに擦れる音になる。
土でも芝でもない、硬くて、安定した感触。

「ここ」

レオが言った。

「石のテラス。日当たりがいい。滑りにくいところだよ」

私は足先をそっと動かして確かめる。
確かに、揺れない。

息が、少しだけ深く吸えるようになった。

「……ここなら、踊れる?」

私の声に、レオは小さく笑った気配を落とした。

「踊れる」

たったそれだけ。
それだけなのに、胸がふっと軽くなる。

「ティア」

レオが、少しだけ低い声で言う。

「怖かったら、すぐ止める。無理はしない」

「……うん」

その言葉が、胸の奥にやさしく落ちた。
“踊りたい”と言った私を、笑わない。
否定しない。
叶えるために考えてくれる。

「どうすればいいの?」

私が訊くと、レオの気配が一歩近づいた。

近い。
日向の温かさとは別の、体温の温かさがすぐそこにある。

「手を」

レオが言った。

私は素直に差し出す。

レオは私の片手を少し高く持ち上げて、もう片方をそっと腰のあたりへ導いた。
触れない。けれど、触れそうな距離。

「……ここに置いて」

声が、ほんの少しだけ硬い。

レオも緊張しているのかもしれない。
それが妙に嬉しくて、胸の奥がくすぐったくなる。

私は言われた通りに手を置いた。
布越しに、熱が伝わる。

同時に、レオの手が私の背に回る。

支えるだけの手。
抱き寄せる手ではない。

その“節度”が、きちんとした優しさに思えて、私は安心して息を吐いた。

「音楽はないけど」

レオが言った。

「数える。僕が合図を出す」

「うん」

音がないのは、逆にいい。

誰も見ていない。
誰にも笑われない。

ここには、私とレオしかいない。

「じゃあ――一、二、三」

レオの声が、足元に落ちる。

「……四」

その「四」で、レオがほんの少しだけ私を導いた。

足を出す方向。
体重を乗せる位置。

私は言われた通りに足を動かす。

最初はぎこちなくて、笑ってしまいそうだった。
でも笑ったら、崩れてしまう気がして、私は必死にレオの手の圧だけを頼りにした。

「上手」

すぐに、レオが言う。

「……上手?」

思わず聞き返す。

「うん。ティア、感覚がいい」

感覚がいい。

見えない私に、そんな褒め言葉をくれる人は、いなかった。

胸が、熱くなる。

「もう一回」

レオが言った。

「一、二、三、四」

今度は、さっきより滑らかに動けた気がした。

靴底が、石の上を小さく擦る。
衣擦れの音が、風に混ざる。

私は――踊っている。

頭で理解するより先に、身体の奥がそれを知る。

嬉しい。

嬉しくて、笑ってしまいそうで。
でも私は、笑わずに口にした。

「ねえ、レオ」

「いま……私、踊れてる?」

レオが、一拍だけ黙る。

それから、確かめるみたいに、静かに言った。

「踊れてるよ」

胸の奥に、灯がつく。

暗闇の中でも、確かに灯るものがある。
それを、私は初めて信じられた。

「……もう少しだけ」

私が言うと、レオの手がほんの少しだけ強くなった。

「うん」

短い返事。
それだけで、十分だった。

「一、二、三、四」

レオの声が、私の世界を整えていく。

そして私は、その声に合わせて――
初めて、自分が“女の子”であることを思い出した。

「……ねえ、レオ」

息が整った頃、私は恐る恐る言った。

「私、文字も……もう覚えてるだけで、増えないの」

お父様は、私をこの領地に送ってから、家庭教師を付けてはくれなかった。
目が見えなくなった娘は、外にも出せない。
侯爵令嬢としては“瑕疵”がある――そう判断されたのかもしれない。

だから私は、言った。
一番言ってはいけない気がするお願いを。

「外国語、教えて」

レオは、少しも笑わなかった。

「いいよ」

たったそれだけで、胸が満ちた。

「じゃあ――最初は、挨拶から」

その日、私の世界に、踊りと一緒に“新しい言葉”が増えた。
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