【完結】「お前を愛する者などいない」と笑われた夜、私は“本物の王子”に拾われた

波依 沙枝

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第三十三話

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扇が止まった。

――王都の貴婦人たちの扇が、一斉に止まった。

それは驚きではない。
合図だ。

その合図を受け取った瞬間、周囲の紳士たちの笑みが固まり、足が一歩、引かれる。
誰も前へ出ない。誰も声を上げない。
ただ、距離だけが生まれていく。

危険なものから。
そして――危険なものを作った者から。

リヒト殿下は騎士に押さえられたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
肩が上下し、手袋の白が、場違いなほど歪む。

「離せ!」

怒号が落ちる。
けれど、その声はもう“威光”にならない。

王都の貴婦人が冷えたとき、紳士は慎重になる。
それは王子だからではない。
“場の規範”だからだ。

私は頬に残る熱を、ゆっくり息で冷ました。
手を当てない。
痛がらない。
泣かない。

――泣くのは、今ではない。

「……リヒト殿下」

私は静かに名を呼んだ。
ちょうど誰の耳にも届くくらいの音量で。

殿下の目が、こちらを刺す。
怒りの色が濃い。
けれど、その怒りはもう“王子の権利”ではなく、“感情の失敗”として見られている。

「衆人の前ですわ」

ただ、それだけ言った。

その一言で、王都の貴婦人たちの視線が、殿下へ揃う。
揃った視線は、剣より細く、剣より鋭い。

「……まあ」

誰かが小さく息を吐いた。
扇の陰から囁きが落ちる。

「今のは、手が出たのよね」
「婚約者に?」
「ええ。しかも、私たちの目の前で」

囁きは波みたいに増えていく。
増えながら、形を変える。

怒りではない。
侮蔑でもない。

“採点”だ。

「セレスティア嬢は、何も乱れていないのに……」
「ねえ、見た? 頬を打たれても、顔を伏せなかったわ」
「品位って、こういうことなのね」

その言葉に、紳士が頷く気配がした。
頷きは音にならない。けれど確かに空気を動かす。

誰かが、扇の向こうで淡く笑う。

「第二王子殿下は、随分と……正直な方なのね」

正直。
つまり――抑えが利かない。

王族にとって最悪の褒め方だ。

殿下の肩が一度だけ跳ねた。
騎士が腕に力を込め、殿下の身がわずかに引かれる。

「殿下、お控えを」

低い声。
侯爵家の騎士の声だ。
執行の声。

王都の貴婦人が冷えた瞬間、紳士は動く。
“守るべきもの”が決まったから。

私は目を伏せないまま、殿下を見た。

殿下の唇が動く。
何か言い返そうとしている。
けれど、今ここで言い返した言葉は、すべて“記録”になる。

殿下はそれを分かっているはずなのに、分かっていない顔をした。

――昔の私なら、その顔を見て怯えていた。
謝って、笑って、耐えて、何事もなかったふりをした。

でも、もう違う。

殿下は、騎士に引かれて後退していく。
怒号を噛み殺せないまま、噛み殺すふりもできないまま。

「……セレスティア!」

私の名が投げつけられる。

私は、微笑まない。
ただ、呼吸を整えたまま、首を傾けた。

「はい、殿下」

丁寧に返した。
それは挑発ではない。

――“婚約者としての礼”だ。

礼を尽くされると困る相手に、礼を尽くす。
それが一番、相手を壊す。

殿下の顔が歪む。
歪んだまま、騎士に引きずられるように大広間の外へ消えていく。

扉が閉まった瞬間。

大広間は、やっと呼吸を再開した。

けれど、ざわめきは止まらない。
むしろ、ここからが本番だ。

王都の貴婦人の口は、刃になる。
紳士の口は、追従する。

「今夜のことは、明日の朝には紙面になるわ」
「ええ。いえ、紙面にする必要もないわね。私たちが“覚えている”もの」
「王家は、どうするのかしら」

どうする。
その問いが、天井の高い大広間に漂う。

私はその問いが、王宮に届くのを想像した。

国王へ。
王妃へ。
そして――レオへ。

胸の奥が、少しだけ熱くなる。

私はゆっくりと外套の裾を整えた。
頬の熱は残っている。
けれど、表情は乱れない。

侍女が一歩寄り、囁く。

「……お嬢様」

私は首を振った。

「大丈夫よ」

大丈夫、ではない。
大丈夫に“見せる”のだ。

ここで私が崩れたら、今夜の主語が変わる。
今夜の主語は、私ではない。

――リヒト殿下だ。

私は視線を上げ、王都の貴婦人たちの輪を見渡した。
誰もが私を見ている。
同情の目ではない。評価の目だ。

私はその目を、受け止めた。

そして、ひとつだけ言う。

「皆さま、ご心配をおかけして申し訳ございません」

謝る必要はない。
けれど“謝れる品位”を見せると、空気は完全にこちらへ傾く。

王都の貴婦人が、ふっと柔らかく微笑んだ。

「まあ、なんて……」
「お強いのね」
「いいえ、“正しい”のよ」

正しい。
またその言葉が落ちる。

その瞬間、私は確信した。

――今夜で、終わり方が決まった。

私は、もう選ばれる側ではない。

選ぶ側だ。

私は、最後に一度だけ扇の陰へ視線を滑らせた。

ここから先の“次の一手”へ。

明日。

王宮は必ず動く。

そして、モンテリオールも動く。
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