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第三十四話
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大広間を出た廊下は、静かだった。
楽団の音はまだ続いているのに、扉一枚隔てただけで世界が別物になる。
あのざわめきも、扇の囁きも、今は背中に遠ざかっていく。
頬の熱が残っている。
痛みも、確かに残っている。
でも――私は歩ける。
ランドール卿が半歩前に出た。
私を守るための距離だ。
「お嬢様。馬車を」
私は頷いた。
「お願いします、ランドール卿」
声が揺れないことに、自分で少し驚く。
泣きたいわけじゃない。崩れたいわけでもない。
ただ、今は一刻も早く“家”へ戻りたかった。
モンテリオールの名が、私の背中を支えている。
そして今夜は――私もその名を支えた。
玄関へ向かう途中、数人の貴婦人が扇を胸元に当てたまま、私へ道を開けた。
「……セレスティア様」
「今夜のご無事を、何より」
その声音は優しい。
けれど同情ではない。
“正しく立った者”へ向ける敬意の温度だった。
「恐れ入ります」
私は礼をする。深くはない。卑屈に見えない角度で。
そうしてようやく外へ出ると、夜気が頬に触れた。
冷たいのに、ありがたい。
馬車の扉が開き、侍女が手を添える。
私は乗り込む。
扉が閉まる音が、今夜を切り離す。
――その瞬間、ようやく息が深く入った。
馬車が動き出す。
窓の外を王都の灯りが流れていく。
私は膝の上で手袋を外した。
指先が少し震えている。
震えは怒りではない。興奮でもない。
“終わらせる”と決めた人間の、静かな疲労だった。
「お嬢様……お痛みは」
侍女が堪えきれずに聞いた。
私は首を振る。
「大丈夫よ」
――大丈夫、ではない。
でも、痛みの有無は今夜の主語ではない。
主語は、“リヒト殿下の失態”。
それを崩したくなかった。
馬車は侯爵邸へ入り、門が閉まる。
屋敷の灯りが見えた瞬間、胸の奥に別の冷たさが差した。
ここからは、“家の話”だ。
私室続きの小応接間に通されると、父がすでにいた。
手紙を数通、机の上に並べている。
――早い。
王都の貴婦人たちは、囁くより速く動く。
そして父は、その囁きを“取引”に変えるのが上手い。
私は一礼した。
「お父様」
父は私を見る。頬ではなく、出来事の“価値”を量る目で。
「……痛むか」
短い問い。
「いいえ」
私は即答した。
痛む、と言えば私情になる。
私情は使えるが、今夜はまだ出すべきではない。
父は机上の手紙を指で叩いた。
「今夜の件は、もう回っている」
「“証言”という形でな」
証言。
その一語だけで、背筋が少し軽くなる。
「――王家は動く。動かざるを得ない」
父は淡々と続けた。
「私の考えも固まった」
「モンテリオールは安い泥は被らない」
「価値のない婚約は、破棄にする」
私は頷く。
「はい」
父の目が細くなる。
「……お前の背後に誰がいる」
また、それだ。
私は息を整えた。
ここで名前を出すべきではない。
でも、“いない”とは言えない。
「お父様がご存じの方です」
父は短く笑う。
「分かっている」
分かっている。
その言い方が、怖い。
けれど私は目を逸らさない。
父が机上の手紙を一枚取り上げた。
「明日、王宮から何か来る」
「来なければ、こちらから行く。――“礼を尽くして”な」
礼。
またその言葉。
私が今夜、身につけ直した武器だ。
父は最後に、私を見た。
「……セレスティア」
「次の場でも、同じように立て」
命令だ。
けれど私は、頷いた。
「承知しております」
私の声は静かだった。
怖いからじゃない。決めたからだ。
――そのとき、扉の外で足音が止まった。
控えめなノック。
「旦那様。第一王子殿下より使者が」
空気が、変わる。
父の指先が止まり、私の心臓も一拍遅れて鳴った。
父は表情を崩さないまま言う。
「通せ」
扉が開く。
入ってきたのは、王宮の紋章入りの封を携えた男だった。
「モンテリオール侯爵閣下」
「殿下より――“今夜の件について、明朝、陛下が正式に伺う”とのことにございます」
明朝。
正式に。
陛下が。
父は、静かに頷いた。
「承った」
使者が退出する。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、私と父と、沈黙。
父が言った。
「……明日で決まる」
「婚約も。王家の顔も。――お前の“扱い”も」
私は頬の熱を、もう一度息で冷ました。
「はい」
――決まるのは、婚約だけではない。
私の“人生”も、明日、決められる。
楽団の音はまだ続いているのに、扉一枚隔てただけで世界が別物になる。
あのざわめきも、扇の囁きも、今は背中に遠ざかっていく。
頬の熱が残っている。
痛みも、確かに残っている。
でも――私は歩ける。
ランドール卿が半歩前に出た。
私を守るための距離だ。
「お嬢様。馬車を」
私は頷いた。
「お願いします、ランドール卿」
声が揺れないことに、自分で少し驚く。
泣きたいわけじゃない。崩れたいわけでもない。
ただ、今は一刻も早く“家”へ戻りたかった。
モンテリオールの名が、私の背中を支えている。
そして今夜は――私もその名を支えた。
玄関へ向かう途中、数人の貴婦人が扇を胸元に当てたまま、私へ道を開けた。
「……セレスティア様」
「今夜のご無事を、何より」
その声音は優しい。
けれど同情ではない。
“正しく立った者”へ向ける敬意の温度だった。
「恐れ入ります」
私は礼をする。深くはない。卑屈に見えない角度で。
そうしてようやく外へ出ると、夜気が頬に触れた。
冷たいのに、ありがたい。
馬車の扉が開き、侍女が手を添える。
私は乗り込む。
扉が閉まる音が、今夜を切り離す。
――その瞬間、ようやく息が深く入った。
馬車が動き出す。
窓の外を王都の灯りが流れていく。
私は膝の上で手袋を外した。
指先が少し震えている。
震えは怒りではない。興奮でもない。
“終わらせる”と決めた人間の、静かな疲労だった。
「お嬢様……お痛みは」
侍女が堪えきれずに聞いた。
私は首を振る。
「大丈夫よ」
――大丈夫、ではない。
でも、痛みの有無は今夜の主語ではない。
主語は、“リヒト殿下の失態”。
それを崩したくなかった。
馬車は侯爵邸へ入り、門が閉まる。
屋敷の灯りが見えた瞬間、胸の奥に別の冷たさが差した。
ここからは、“家の話”だ。
私室続きの小応接間に通されると、父がすでにいた。
手紙を数通、机の上に並べている。
――早い。
王都の貴婦人たちは、囁くより速く動く。
そして父は、その囁きを“取引”に変えるのが上手い。
私は一礼した。
「お父様」
父は私を見る。頬ではなく、出来事の“価値”を量る目で。
「……痛むか」
短い問い。
「いいえ」
私は即答した。
痛む、と言えば私情になる。
私情は使えるが、今夜はまだ出すべきではない。
父は机上の手紙を指で叩いた。
「今夜の件は、もう回っている」
「“証言”という形でな」
証言。
その一語だけで、背筋が少し軽くなる。
「――王家は動く。動かざるを得ない」
父は淡々と続けた。
「私の考えも固まった」
「モンテリオールは安い泥は被らない」
「価値のない婚約は、破棄にする」
私は頷く。
「はい」
父の目が細くなる。
「……お前の背後に誰がいる」
また、それだ。
私は息を整えた。
ここで名前を出すべきではない。
でも、“いない”とは言えない。
「お父様がご存じの方です」
父は短く笑う。
「分かっている」
分かっている。
その言い方が、怖い。
けれど私は目を逸らさない。
父が机上の手紙を一枚取り上げた。
「明日、王宮から何か来る」
「来なければ、こちらから行く。――“礼を尽くして”な」
礼。
またその言葉。
私が今夜、身につけ直した武器だ。
父は最後に、私を見た。
「……セレスティア」
「次の場でも、同じように立て」
命令だ。
けれど私は、頷いた。
「承知しております」
私の声は静かだった。
怖いからじゃない。決めたからだ。
――そのとき、扉の外で足音が止まった。
控えめなノック。
「旦那様。第一王子殿下より使者が」
空気が、変わる。
父の指先が止まり、私の心臓も一拍遅れて鳴った。
父は表情を崩さないまま言う。
「通せ」
扉が開く。
入ってきたのは、王宮の紋章入りの封を携えた男だった。
「モンテリオール侯爵閣下」
「殿下より――“今夜の件について、明朝、陛下が正式に伺う”とのことにございます」
明朝。
正式に。
陛下が。
父は、静かに頷いた。
「承った」
使者が退出する。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、私と父と、沈黙。
父が言った。
「……明日で決まる」
「婚約も。王家の顔も。――お前の“扱い”も」
私は頬の熱を、もう一度息で冷ました。
「はい」
――決まるのは、婚約だけではない。
私の“人生”も、明日、決められる。
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