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第三十八話
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誰も入れるなと命じた。
扉の外に立つ侍女にも、近衛にも、二度言った。
私の声は、普段ならそれだけで人を縫い止める。
——なのに。
大きな音がした。
扉が乱暴に押し開けられる。木が軋み、金具が甲高く鳴った。
空気が割れたように、冷たい風が流れ込む。
「母上!」
呼び声は、王子の声ではない。
怒鳴り声よりも泣き声に近い、心の奥底からの叫びだ。
リヒトが入ってきた。
髪が乱れ、息が荒い。手袋は片方だけ。袖口が歪んでいる。
——馬鹿。
その一言すら、口の中で乾いた。
「私は悪くない!」
部屋の静けさを踏み潰す勢いで、リヒトは叫ぶ。
「はめられたんだ!」
「全部、あの女が!」
「セレスティアが——っ!」
名を吐くたび、喉の奥の熱が露骨になる。
怒りではない。恐怖だ。
「おかしいんだ! 別人だ!」
「悪魔でも憑いたに違いない!」
「そうだ、悪魔憑きだ! あの女は!」
言葉が乱暴に跳ね、理屈にならない。
追い詰められた獣が、牙を立てる場所を探しているだけ。
「俺は——俺は、何もやってない」
「皆が見てた、皆が俺を見てた、だから……!」
そこでようやく、自分が何を言っているのか気づいたらしい。
口が止まる。目が泳ぐ。
——見られていた。
見られて、裁かれた。
その事実が、今さらようやく刺さったのだ。
リヒトは一歩、私へ寄る。
救いを求める距離ではない。責任を押しつける距離だ。
「母上、どうにかしてくれ」
「母上なら出来るだろう?」
「王都の貴婦人どもが何を言おうと、紙面が何を書こうと——」
「全部、母上が……」
最後まで言えない。
言えば、自分が誰の力で立っていたかを認めることになるから。
私は机の端に置いた指を、一本だけ動かした。
叱りつける気力すら、なかった。
叱れば、彼は吠える。
慰めれば、彼は縋りついてさらに重くなる。
どちらも“損”だ。
「……リヒト」
やっと口を開いた自分の声が、驚くほど平坦だった。
それだけで、リヒトの顔が歪む。
母の声が、自分の味方ではないと察した顔だ。
「悪魔憑き、ですって?」
私は繰り返す。
嘲りでも、確認でもない。現実を言葉にするだけだ。
「王宮の夜会で婚約者を殴っておいて」
「あなたが言うことが、それ?」
リヒトの喉が鳴る。
「違う! 俺は——」
「“私”でしょう」
短く訂正する。
痛いところを刺すように。
「皆の前では、私。ひとりの時だけ、俺」
リヒトの目が赤くなる。
怒りの色に見えるが、違う。崩れそうなものを怒鳴って支えている色だ。
私は息をひとつ吐いた。
涙の名残が、肺の奥にひっそり残っている。
そして、言う。
「いい?」
「あなたが今するべきことは、叫ぶことではない」
リヒトが口を開く前に、私は続けた。
「黙っていなさい」
「そして、私の言う通りに動きなさい」
——今までと同じ。
けれど今までと違う。
今夜から“私の言う通り”は、上へ行くための道ではない。
これ以上、沈まないためのものだ。
リヒトの顔が、子どもみたいに歪んだ。
「母上……!」
私はその声を切る。
「座りなさい」
「泣き言は後」
机上の手紙に視線を落とす。
封蝋は綺麗で、よそよそしい。
——遅い。もう遅い。
それでも、動かないと終わる。
私は指先で封を一つ、押さえた。
「あなたは“悪魔”ではなく」
「あなた自身の愚かさで、ここまで来たのよ」
その言葉が落ちた瞬間、リヒトの顔から色が抜けた。
初めてだ。
私が、リヒトの逃げ道を塞いだのは。
——そして、私自身も。
逃げ道が消えていることを知った。
扉の外に立つ侍女にも、近衛にも、二度言った。
私の声は、普段ならそれだけで人を縫い止める。
——なのに。
大きな音がした。
扉が乱暴に押し開けられる。木が軋み、金具が甲高く鳴った。
空気が割れたように、冷たい風が流れ込む。
「母上!」
呼び声は、王子の声ではない。
怒鳴り声よりも泣き声に近い、心の奥底からの叫びだ。
リヒトが入ってきた。
髪が乱れ、息が荒い。手袋は片方だけ。袖口が歪んでいる。
——馬鹿。
その一言すら、口の中で乾いた。
「私は悪くない!」
部屋の静けさを踏み潰す勢いで、リヒトは叫ぶ。
「はめられたんだ!」
「全部、あの女が!」
「セレスティアが——っ!」
名を吐くたび、喉の奥の熱が露骨になる。
怒りではない。恐怖だ。
「おかしいんだ! 別人だ!」
「悪魔でも憑いたに違いない!」
「そうだ、悪魔憑きだ! あの女は!」
言葉が乱暴に跳ね、理屈にならない。
追い詰められた獣が、牙を立てる場所を探しているだけ。
「俺は——俺は、何もやってない」
「皆が見てた、皆が俺を見てた、だから……!」
そこでようやく、自分が何を言っているのか気づいたらしい。
口が止まる。目が泳ぐ。
——見られていた。
見られて、裁かれた。
その事実が、今さらようやく刺さったのだ。
リヒトは一歩、私へ寄る。
救いを求める距離ではない。責任を押しつける距離だ。
「母上、どうにかしてくれ」
「母上なら出来るだろう?」
「王都の貴婦人どもが何を言おうと、紙面が何を書こうと——」
「全部、母上が……」
最後まで言えない。
言えば、自分が誰の力で立っていたかを認めることになるから。
私は机の端に置いた指を、一本だけ動かした。
叱りつける気力すら、なかった。
叱れば、彼は吠える。
慰めれば、彼は縋りついてさらに重くなる。
どちらも“損”だ。
「……リヒト」
やっと口を開いた自分の声が、驚くほど平坦だった。
それだけで、リヒトの顔が歪む。
母の声が、自分の味方ではないと察した顔だ。
「悪魔憑き、ですって?」
私は繰り返す。
嘲りでも、確認でもない。現実を言葉にするだけだ。
「王宮の夜会で婚約者を殴っておいて」
「あなたが言うことが、それ?」
リヒトの喉が鳴る。
「違う! 俺は——」
「“私”でしょう」
短く訂正する。
痛いところを刺すように。
「皆の前では、私。ひとりの時だけ、俺」
リヒトの目が赤くなる。
怒りの色に見えるが、違う。崩れそうなものを怒鳴って支えている色だ。
私は息をひとつ吐いた。
涙の名残が、肺の奥にひっそり残っている。
そして、言う。
「いい?」
「あなたが今するべきことは、叫ぶことではない」
リヒトが口を開く前に、私は続けた。
「黙っていなさい」
「そして、私の言う通りに動きなさい」
——今までと同じ。
けれど今までと違う。
今夜から“私の言う通り”は、上へ行くための道ではない。
これ以上、沈まないためのものだ。
リヒトの顔が、子どもみたいに歪んだ。
「母上……!」
私はその声を切る。
「座りなさい」
「泣き言は後」
机上の手紙に視線を落とす。
封蝋は綺麗で、よそよそしい。
——遅い。もう遅い。
それでも、動かないと終わる。
私は指先で封を一つ、押さえた。
「あなたは“悪魔”ではなく」
「あなた自身の愚かさで、ここまで来たのよ」
その言葉が落ちた瞬間、リヒトの顔から色が抜けた。
初めてだ。
私が、リヒトの逃げ道を塞いだのは。
——そして、私自身も。
逃げ道が消えていることを知った。
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