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第四十話
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執務室へ戻った途端、空気が緩むはずだった。
交渉は成立した。
王家の頭が下がり、権益が動いた。
モンテリオールの名は守られ、栄えに繋がる道も確保した。
——私は、そう“整えた”。
扉を閉め、外の気配を切り離す。
机へ向かい、上着の襟を正す。
いつもの手順。いつもの、勝った日の形。
そこで、手が止まった。
机の上に、赤い背表紙が並んでいる。
一冊ではない。
七冊。
革の赤。
擦れた角。
紐の結び目。
——これは。
呼吸が、一つだけ遅れた。
「……リシュアの」
口に出した瞬間、喉が乾いた。
なぜ、ここに。
誰が、これを。
執務室に入れる人間は限られている。
持ち込める人間は、もっと限られる。
そして、こうして“置ける”のは——ひとりしかいない。
セレスティア。
私は椅子に座ることも忘れ、日記帳の前に立ち尽くした。
怒りが先に来るはずだった。
だが、来なかった。
胸の奥に浮かんだのは、切なさに近いものだった。
——あれは、どんな顔でこれを置いた。
私は指先で、いちばん古い一冊の紐をほどいた。
紙が擦れる音がする。
それだけで、胸の奥が冷える。
開く。
最初の頁。
『目が見えることが、こんなに嬉しいなんて。』
息が止まった。
次の行。
『ティアが海外留学へ行くなんて、私は聞いていなかった。』
——留学。
私がついた嘘だ。
リシュアが、セレスティアの不在を気に病まないように。
いや、違う。
気に病ませないためではない。
私が——私の都合を守るために。
ページをめくる指が、勝手に速くなる。
『手紙が届かない』
『返事がない』
『どうして?』
文字が乱れていく。
『知ってしまった。』
その一行の下の余白が、深い。
私は目を動かせなくなった。
紙面に書かれていない言葉が、そこにある。
——知ってしまった。
何を。
次の頁。
『ティア、ごめんなさい。』
『私のティア、ごめんなさい。』
謝罪が繰り返される。
祈りでも、記録でもない。
『会いたい』
『会いたい』
『ごめんなさい』
そして。
『死にたい。』
指先が震えた。
もう一度、頁をめくる。
『死んでしまおうか。』
短い行が、続く。
行の端が滲んでいる。
涙の跡だと、すぐ分かった。
——あの六年が。
あの六年が、リシュアにとって地獄だった。
喉が詰まる。
私は、椅子の背に手を置いた。
座らないと倒れる、という感覚が遅れてきた。
思い出す。
いつも潤んだ目をしていた。
何か言いたげな目をしていた。
その瞳ごと、愛おしいと思っていた。
守るべき唯一の存在だと。
リシュア・モンテリオール。
出会った時から、彼女は特別だった。
没落していく家を守るために、売られるように嫁がされそうだった彼女を。
私は持ちうるもの全てを使って止めた。
腕に抱いて、逃がさないと決めた。
モンテリオールは一枚岩ではなかった。
だからまとめた。
不利益も背負った。
その分、利益を作るように動いた。
誰にも文句は言わせない。
——彼女を守るために。
なのに。
私は、彼女を守るために、彼女の最愛の娘を壊した。
“神殿の秘術”。
血縁者で適応のある者に病を移す。
セレスティア。
あの時の私は思った。
——お前が初めて母の役に立てるのだ、と
頁の上に、リシュアの声が残っている。
『ティアの顔が見たい。』
『見たい。』
見たい。
その願いの裏側に、私がいる。
私は、日記の中の一行に目を止めた。
『でも、あの人が。』
あの人。
私だ。
次の頁。
『今日も、あの人が。』
さらに短くなる。
『あの人が、いるから。』
世界が縮むように、文字が縮む。
呼吸が浅くなる。
リシュアは、私に縋っていたのではない。
——逃げ場がなかったのだ。
喉の奥が、熱い。
私は日記を閉じようとして、閉じられなかった。
閉じれば、なかったことに出来る気がした。
だが、出来るわけがない。
七冊ある。
七冊も。
私は二冊目に手を伸ばす。
開いた瞬間、そこにも同じ言葉がある。
『ごめんなさい』
『死にたい』
紙の上に、リシュアの心が繰り返し死んでいる。
私は、声が出なかった。
執務室は静かなままだ。
私の呼吸だけが、乱れている。
——これを置いたのは、セレスティアだ。
「……終わった、のか」
口の中で、音にならない声が転がる。
私は、今日で全てがまとまったと思っていた。
モンテリオールの栄え。
娘の名誉。
王家の譲歩。
——整理がついた、と。
違う。
整理がついたのは、私の罪だ。
私は、机の縁を掴んだ。
指が白くなるほどに。
そして初めて、はっきりと自分に言い聞かせた。
私は、リシュアを救ったのではない。
私が救いたかったのは、私の愛だ。
私の栄えだ。
私の正しさだ。
そのために、娘の目を奪い、
そのために、妻を地獄に置いた。
——その結果、妻は死にたがり続けた。
息が止まる。
胸が痛い。
だが、この痛みは、私が受け取るべきものだ。
私は日記帳から目を離せなかった。
赤い背表紙が、血のように見える。
執務室の時計が、淡々と時を刻む。
その音だけが、やけに大きかった。
——私は、リシュアの涙を、愛だと思っていた。
交渉は成立した。
王家の頭が下がり、権益が動いた。
モンテリオールの名は守られ、栄えに繋がる道も確保した。
——私は、そう“整えた”。
扉を閉め、外の気配を切り離す。
机へ向かい、上着の襟を正す。
いつもの手順。いつもの、勝った日の形。
そこで、手が止まった。
机の上に、赤い背表紙が並んでいる。
一冊ではない。
七冊。
革の赤。
擦れた角。
紐の結び目。
——これは。
呼吸が、一つだけ遅れた。
「……リシュアの」
口に出した瞬間、喉が乾いた。
なぜ、ここに。
誰が、これを。
執務室に入れる人間は限られている。
持ち込める人間は、もっと限られる。
そして、こうして“置ける”のは——ひとりしかいない。
セレスティア。
私は椅子に座ることも忘れ、日記帳の前に立ち尽くした。
怒りが先に来るはずだった。
だが、来なかった。
胸の奥に浮かんだのは、切なさに近いものだった。
——あれは、どんな顔でこれを置いた。
私は指先で、いちばん古い一冊の紐をほどいた。
紙が擦れる音がする。
それだけで、胸の奥が冷える。
開く。
最初の頁。
『目が見えることが、こんなに嬉しいなんて。』
息が止まった。
次の行。
『ティアが海外留学へ行くなんて、私は聞いていなかった。』
——留学。
私がついた嘘だ。
リシュアが、セレスティアの不在を気に病まないように。
いや、違う。
気に病ませないためではない。
私が——私の都合を守るために。
ページをめくる指が、勝手に速くなる。
『手紙が届かない』
『返事がない』
『どうして?』
文字が乱れていく。
『知ってしまった。』
その一行の下の余白が、深い。
私は目を動かせなくなった。
紙面に書かれていない言葉が、そこにある。
——知ってしまった。
何を。
次の頁。
『ティア、ごめんなさい。』
『私のティア、ごめんなさい。』
謝罪が繰り返される。
祈りでも、記録でもない。
『会いたい』
『会いたい』
『ごめんなさい』
そして。
『死にたい。』
指先が震えた。
もう一度、頁をめくる。
『死んでしまおうか。』
短い行が、続く。
行の端が滲んでいる。
涙の跡だと、すぐ分かった。
——あの六年が。
あの六年が、リシュアにとって地獄だった。
喉が詰まる。
私は、椅子の背に手を置いた。
座らないと倒れる、という感覚が遅れてきた。
思い出す。
いつも潤んだ目をしていた。
何か言いたげな目をしていた。
その瞳ごと、愛おしいと思っていた。
守るべき唯一の存在だと。
リシュア・モンテリオール。
出会った時から、彼女は特別だった。
没落していく家を守るために、売られるように嫁がされそうだった彼女を。
私は持ちうるもの全てを使って止めた。
腕に抱いて、逃がさないと決めた。
モンテリオールは一枚岩ではなかった。
だからまとめた。
不利益も背負った。
その分、利益を作るように動いた。
誰にも文句は言わせない。
——彼女を守るために。
なのに。
私は、彼女を守るために、彼女の最愛の娘を壊した。
“神殿の秘術”。
血縁者で適応のある者に病を移す。
セレスティア。
あの時の私は思った。
——お前が初めて母の役に立てるのだ、と
頁の上に、リシュアの声が残っている。
『ティアの顔が見たい。』
『見たい。』
見たい。
その願いの裏側に、私がいる。
私は、日記の中の一行に目を止めた。
『でも、あの人が。』
あの人。
私だ。
次の頁。
『今日も、あの人が。』
さらに短くなる。
『あの人が、いるから。』
世界が縮むように、文字が縮む。
呼吸が浅くなる。
リシュアは、私に縋っていたのではない。
——逃げ場がなかったのだ。
喉の奥が、熱い。
私は日記を閉じようとして、閉じられなかった。
閉じれば、なかったことに出来る気がした。
だが、出来るわけがない。
七冊ある。
七冊も。
私は二冊目に手を伸ばす。
開いた瞬間、そこにも同じ言葉がある。
『ごめんなさい』
『死にたい』
紙の上に、リシュアの心が繰り返し死んでいる。
私は、声が出なかった。
執務室は静かなままだ。
私の呼吸だけが、乱れている。
——これを置いたのは、セレスティアだ。
「……終わった、のか」
口の中で、音にならない声が転がる。
私は、今日で全てがまとまったと思っていた。
モンテリオールの栄え。
娘の名誉。
王家の譲歩。
——整理がついた、と。
違う。
整理がついたのは、私の罪だ。
私は、机の縁を掴んだ。
指が白くなるほどに。
そして初めて、はっきりと自分に言い聞かせた。
私は、リシュアを救ったのではない。
私が救いたかったのは、私の愛だ。
私の栄えだ。
私の正しさだ。
そのために、娘の目を奪い、
そのために、妻を地獄に置いた。
——その結果、妻は死にたがり続けた。
息が止まる。
胸が痛い。
だが、この痛みは、私が受け取るべきものだ。
私は日記帳から目を離せなかった。
赤い背表紙が、血のように見える。
執務室の時計が、淡々と時を刻む。
その音だけが、やけに大きかった。
——私は、リシュアの涙を、愛だと思っていた。
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