この噛み痕は、無効。

ことわ子

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本気にならないでくださいね

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 いまいち腑に落ちないが、いないというからにはいないのだろう。なんだ、俺と同じか、そう思うと何故か有意に立ったような気になってくる。勝手に恋愛面で遅れをとっているような気になっていたが、どっちも経験がないなら二年長く生きている俺の方が、有利なはずだ。

「え、じゃあもしかして童──」
「勿論、童貞ではないですけどね」
「………………………………え?」

 分からない。
 彼女がいたことないのに童貞じゃない意味が分からない。

「それってどういう…………?」

 声が震えてしまって最高にダサい。しかし脳内はキャパオーバーしていて、それどころではない。

「いざ好きな人を抱くってなった時に下手くそじゃ格好つかないじゃないですか」
「つまり……彼女じゃない女の子で練習してたってこと……?」
「そういうことになりますかね……? 向こうもそれでいいって言ってたんで。まぁでもあんまり参考にならなかったんですけど」

 大人だ。あまりにも大人の爛れた関係だ。
 海外だとそれが普通なんだろうか。それとも自分が子どもなだけで、周りはそれくらい普通なんだろうか。
 俺はとっさに翔の顔を思い浮かべた。
 俺は経験が無いが、勿論翔も経験が無い。と思う。そう言えば、翔から彼女が欲しいという発言を聞いたことがないな、と思い出す。翔に彼女が出来ていたら、俺はもっと焦って追い詰められていたかもしれない。翔が俺と一緒にふわふわつるんでくれるやつで本当に良かったと思った。

「千秋くん、今なに考えてます?」
「え、あ、翔が幼馴染で良かったなって!」

 不意の質問に馬鹿正直に答えてしまいすぐに後悔する。トキの表情が曇ったからだ。

「…………千秋くん」
「はい!」
「キスしたいんですけど、いいですか?」
「はい! え、?」

 トキはそっと俺の頬に手を添えて上を向かせてきた。俺は思い切り目を瞑る。
 トキのキスはいつも優しい。触れるだけのキスを、ちゅっ、ちゅっ、と小さな音を立てながら何回もしてくる。
 気持ちいいのとむず痒さで顔を赤くしながら俺はそれに応える。嫌じゃないからだ。
 つい顔に力が入って険しい顔をしてしまうが、そんな顔も可愛いとトキは言った。
 いつものように唇に感じる熱に集中していると、トキの舌先が俺の下唇を舐めた。
 ざらっとした感覚に驚いて身体が反応してしまう。竦んで動けなくなった俺の背中に手を回し更に引き寄せる。深い熱を帯びた舌に口内も頭の中も全てかき混ぜられる。
 初めての経験に上手く息ができない。おまけに自分のものとは思えない声も押されられなくなってきて、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。

「ト、キっ──誰か来ちゃう、から……」

 精一杯の抵抗をしてみせると、ようやく口を離してくれた。

「残念」

 余裕そうな表情が癪に障る。
 だけど、俺にはやり返せるようなスキルは無い。少しむくれた顔で睨んでやると、今度は額にキスされた。完全に子ども扱いされている気がする。

「もう行くぞ」

 気づけば予鈴が鳴る時間になっていた。
 俺はゴミを纏めると席を立つ。
 顔に熱が集まっているのがバレないよう、俯きがちに歩き出すと、背後から微かなトキの笑い声が聞こえた。

 いつか、トキの余裕を無くしてやる……!

 俺は固く心に誓った。

***

 流石に下校までは一緒じゃなくてもいいか……と思いつつ、気になってしまい校門の付近を彷徨く。
 一言、一緒に帰ろうと連絡を入れればいいだけなのだが、色ボケし過ぎているようで気が引ける。
 もし、仮に、万が一、偶然にも、帰りが一緒になったらいいなと思い、もう十分は経つ。
 もしかしたら、もう帰ってしまったのかもしれない。今日は諦めて帰るかとため息を吐くと、後ろからシャツの裾を引かれた。
 トキだ、と舞い上がる気持ちで振り向くと、そこには筧がいた。

「筧……?」
「トキくんならもう帰りましたよ」

 果たして筧は俺たちのことを知っているんだろか。トキは筧に話したんだろうか。そんなことを考えながら筧の顔を見つめていると、思い切り表情を歪め嫌な顔をされた。

「先輩、ちょっと時間いいですか?」

 あ、これは……

 筧の少し怒った声色にピンときた。
 幼馴染からの説教だ。
 翔は平然としていたが、仲良くしていた幼馴染が突然男と付き合うことを打ち明けてきたら普通なら驚く。心配もするだろうし、相手の男に敵意が向くのも分かる。完璧なαのトキの相手が平凡βの俺では納得いかないのも無理はない。
 もし別れろと言われても別れるつもりは無いが、筧の話を聞いて気持ちを受け止めることは俺の義務だと思う。

「分かった。どこで話する?」
「じゃあ、あの旧校舎の空き教室でどうですか?」
「分かった」

 筧の言い回しに少し引っかかったが、俺は気にせず了承した。

***

 昼はトキと過ごした教室に今度は筧と二人でいることに気まずくなりながら、俺はきっちりとドアを閉めた。昼間の時も思ったが、空き教室周辺は滅多に人が通らない。
 今からする話に最適な場所だな、と思いながら筧が口を開くのを待つ。

「先輩、トキくんとどういう関係ですか?」
「どういうって……」

 あれ? と思った。
 てっきりトキは筧に俺との仲を話したんだと思っていた。それとも、分かっていてわざと聞いてきているのだろうか。
 筧の腹の内が分からなかったため、素直に答えることにした。

「付き合うことになった」

 筧は一瞬、瞳を丸くさせたが、予想外に笑い出した。
 俺は笑われている意味が分からず筧を凝視する。

「付き合う? 本当ですか?」
「本当……だけど」

 何故そこを疑われているのか。
 何故こんなにも嘲笑されているのか。
 俺の中に不快感がどんどん溜まっていく。

「おかしいですね、トキくんはオレの恋人なのに」

 筧の声が反響したように何重にもなって聞こえる。

「え…………?」
「聞こえませんでした? トキくんはオレの恋人なんです。証拠に、ほら」

 筧はおもむろにシャツのボタンを上から外し始め、緩んだ首元を後ろから引っ張った。
 そこには俺と同じ『噛み痕』があった。

「それって……」
「もちろんトキくんがつけてきたものです。オレΩなんで」
「筧がΩ……?」
「びっくりしました? つまり、オレがトキくんの運命の相手なんです」

 運命の相手。
 そういう存在がαにはいるのだと、知っていたはずなのに忘れていた。自分はトキが好きで、トキも俺のことが好きで、それで完璧だと思っていた。運命なんて忘れるぐらいに。

「先輩って、トキくんに好きって言われました?」

 言われてハッとする。筧の言う通り、トキの口から好きと言う言葉を聞いたことは無かった。何となくの雰囲気でキスをして、てっきり気持ちが通じ合ったのだと思っていた。
 付き合う、という関係にしたのも俺からだった。完全に両思いだと思っていたから。

「その顔だとやっぱり言われてませんよね? トキくん、セフレに勘違いさせるようなことしないって言ってたしなぁ」
「セフレ……」

 トキが過去に関係を持ってきた女の子たちの話を思い出した。好きな人のための"練習台"。そこに気持ちなんてものは存在しない。
 その内の一人にいつの間にかなってしまっていた。その事実に力が抜けていく。

「そういう訳なんで、あんまりトキくんに本気にならないでくださいね。先輩があまりにも気の毒なので」

 筧の言葉の意味が分からない。いや、分かっているはずなのに飲み込めない。脳が理解しようとするのを拒否する。

「話はそれだけです。じゃあさようなら」

 シャツを軽く直すと、筧は満面の笑みで教室を出て行った。
 残された俺はしばらく動くこともできず、情けないと思いながらも止まらない涙越しに現実を眺め続けた。
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