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嵐の前
託された名
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病院の特別病室。
カーテンは半ば閉じられ、昼の日差しは淡く床を照らしている。
生命維持装置のリズムに合わせ、機械が呼吸音のような音を立てていた。
「……総理……!」
ベッド脇に駆け寄った古味順子は、思わずその手を握った。
血の気が引いたその手は、かつて壇上で記者を一喝した時とは思えないほど細く、冷たかった。
「順子さん……来てくれたか……」
かすれた声。だがその目には、まだ確かに“現役”の火が宿っていた。
すぐ後ろで、白衣の医師がそっと一礼し、退出していく。
「あなたに……伝えておきたいことがある」
順子が首を振る。「そんな、まだ安静に……」
「いや……時間が惜しい。聞いてくれ」
病室に駆け込んだ順子に遅れて俺も入る。
現職総理の病室に入れたのは、順子が育ちは違えど実の娘であり、俺がその夫であるからに他ならない。
「……良一君」
かすれた声に呼びかけられる。
命が危ない病態に違いないが、とても大事なことを託そうとしているように思えた。
「君には……以前から目をかけていた」
元春は絞り出すように言葉を続ける。「野心がなく、まっすぐで……それがかえって希望だった」
俺は「そんなことはない」とは言わず黙って耳を傾けていた。
「今の政界は、力と金と計算ばかりだ。だが、君のような者が、たった一人でも真っ直ぐに立てば……流れが変わるかもしれん」
「……それは私にあなたのような政治家になれということでしょうか?……」
「そうだ」
元春のまなざしが揺れる。
(もしかして俺に総理大臣になれといっているのか?さすがにそんな力はないが……だが、この目、この声は本気だ)
「順子さん、証人になってくれ。これは……遺言だと思ってくれてもいい」
「古味良一君に――未来を託したい」
部屋の空気が静止する。
順子が嗚咽をこらえながら、小さくうなずいた。
彼女の目からは涙が頬を伝い落ち、それでもその姿勢は凛としていた。
(総理は……本当に良一に託すつもりなのね。私が支えなければ――)
古味は唇をかみしめたまま、答えなかった。
「……もちろん、無理にとは言わん」
元春が、かすかな笑みを浮かべる。「君の意志を、誰よりも大事にしたい。だが……」
「君になら、託せる気がしたんだよ」
外では蝉の声が響いていた。
病室には、もう時間が残されていないかもしれない。
それ以降、俺は一言も返さなかった。
そして、深く頭を下げ、泣いたままの順子を置いて静かにその場を去った。
だが、心の奥で何かが音を立てて動き出していた。
――それはまだ小さな火だ。だが、いずれ燃え広がり、己を総理大臣という舞台へ押し上げるかもしれない。
カーテンは半ば閉じられ、昼の日差しは淡く床を照らしている。
生命維持装置のリズムに合わせ、機械が呼吸音のような音を立てていた。
「……総理……!」
ベッド脇に駆け寄った古味順子は、思わずその手を握った。
血の気が引いたその手は、かつて壇上で記者を一喝した時とは思えないほど細く、冷たかった。
「順子さん……来てくれたか……」
かすれた声。だがその目には、まだ確かに“現役”の火が宿っていた。
すぐ後ろで、白衣の医師がそっと一礼し、退出していく。
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順子が首を振る。「そんな、まだ安静に……」
「いや……時間が惜しい。聞いてくれ」
病室に駆け込んだ順子に遅れて俺も入る。
現職総理の病室に入れたのは、順子が育ちは違えど実の娘であり、俺がその夫であるからに他ならない。
「……良一君」
かすれた声に呼びかけられる。
命が危ない病態に違いないが、とても大事なことを託そうとしているように思えた。
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元春は絞り出すように言葉を続ける。「野心がなく、まっすぐで……それがかえって希望だった」
俺は「そんなことはない」とは言わず黙って耳を傾けていた。
「今の政界は、力と金と計算ばかりだ。だが、君のような者が、たった一人でも真っ直ぐに立てば……流れが変わるかもしれん」
「……それは私にあなたのような政治家になれということでしょうか?……」
「そうだ」
元春のまなざしが揺れる。
(もしかして俺に総理大臣になれといっているのか?さすがにそんな力はないが……だが、この目、この声は本気だ)
「順子さん、証人になってくれ。これは……遺言だと思ってくれてもいい」
「古味良一君に――未来を託したい」
部屋の空気が静止する。
順子が嗚咽をこらえながら、小さくうなずいた。
彼女の目からは涙が頬を伝い落ち、それでもその姿勢は凛としていた。
(総理は……本当に良一に託すつもりなのね。私が支えなければ――)
古味は唇をかみしめたまま、答えなかった。
「……もちろん、無理にとは言わん」
元春が、かすかな笑みを浮かべる。「君の意志を、誰よりも大事にしたい。だが……」
「君になら、託せる気がしたんだよ」
外では蝉の声が響いていた。
病室には、もう時間が残されていないかもしれない。
それ以降、俺は一言も返さなかった。
そして、深く頭を下げ、泣いたままの順子を置いて静かにその場を去った。
だが、心の奥で何かが音を立てて動き出していた。
――それはまだ小さな火だ。だが、いずれ燃え広がり、己を総理大臣という舞台へ押し上げるかもしれない。
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