とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら

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ジェームズはその夜遅くに夫婦の寝室に戻ってきた。

ガチャリと小さな音を立ててドアノブが回された時、エラは既に照明を落としベッドに入っていたので咄嗟に寝たふりをした。ジェームズはそのまま静かに浴室へ向かい、彼の気配が消えると同時に、エラは小さく呻く。

どうして、どうして今夜も此処で寝るの?

しばらくして彼が出てきて、エラの隣に静かに身を滑り込ませると、石鹸の香りがふわりと漂った。

…?

(香水はそういえばルーリアさんがお好きだって言ってたわね)

彼の私物はほとんどこの部屋にないのだが一度間違って新入りのメイドがその香水を持ってきたことがある。それに気づいた彼が取りに来て、洒落っ気がないエラのことを鼻で笑ったのだ。

ルーリアは俺が彼女がつけているのと同じ香水をつけると喜ぶんだ。色気のないお前はせめてそうやって俺を少しでも喜ばせるような物言いを覚えろよ、と。

エラがかつての彼の不愉快な物言いを思い出してぎゅっと瞼を強くつむると、まるで彼女がそのことを思い出しているのを知っているかのように隣からふと彼の手が伸びてきて、さらっと彼女の髪の毛に触れたので一瞬呼吸が乱れた。彼に触られたことは、公の場で必要に迫られた時のみなので、今まで数えるほどしかない。彼女が身を強張らせるより先に、彼の囁き声が聞こえる。

「ゆっくりおやすみ、エラ」

ジェームズはそのまますぐに寝息を立て始めたのだった。






ジェームズが家に戻ってきて、一月ひとつきが過ぎた。

相変わらず彼は、規則正しい生活を送り、執務室に籠もり続け、仕事をこなし、夜はエラと共に夫婦の寝室で眠る。エラに対しては節度ある距離を保ちながらも、彼女を見つめる瞳は熱く、明らかに今までとは違う態度を取り続けていた。彼女が寝ていると思っているときだけ、彼はそっと髪の毛に触れるがあくまでもそれだけなのでエラは気づいても我慢していた。

そして愛人の家に出向く様子は一切見られなかった。まるで記憶からすっぽりと彼女の存在が抜け落ちているかのように。

ジェームズの両親は、そんな息子にすっかり満足し、ある日エラに以前からブラウン家が取り組んでいる慈善活動の一貫の、孤児院への視察にジェームズと共に行くことを提案してきた。エラは内心嫌でたまらなかったが義母は翌朝の朝食の席で彼にその話をしてしまった。以前のジェームズなら間違いなく鼻で笑ったというのに、彼は実に興味深いとでも言いたげに頷いた。

「一度は俺も直接、視察に行くのが筋だな」

思わず手元が狂い、カチャンと食器の音を立ててしまう。

「し、失礼しました」

震える声で無礼を詫びると、ジェームズが分かっているよと言わんばかりの柔らかい眼差しで彼女を見た。

「俺が驚かせたんだろう。昔の俺ならさしずめ『そんなお堅い正しいことをするなんて』と馬鹿にしただろうからな」

エラは以前彼にかけられた舌打ちまじりの言葉を思い出す。

『どうせ結婚したらお前は慈善事業に打ち込むような、お堅い”正しい女”になるんだろ』

(この人は…どうしてこんなに…変わってしまったの?)

エラの心は揺れ続ける。

「全く戦争に行く前のお前ときたら、物語に出てくる放蕩者そのものだったからな」

義父が笑い混じりにからかう。

「父さん、もうやめてくれよ」

ジェームズは真っ青になってすっかり食欲が失われたエラを見た。

「今の俺はエラに捨てられないように必死なんだから」
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