10 / 30
2
10
しおりを挟む
ジェームズはその夜遅くに夫婦の寝室に戻ってきた。
ガチャリと小さな音を立ててドアノブが回された時、エラは既に照明を落としベッドに入っていたので咄嗟に寝たふりをした。ジェームズはそのまま静かに浴室へ向かい、彼の気配が消えると同時に、エラは小さく呻く。
どうして、どうして今夜も此処で寝るの?
しばらくして彼が出てきて、エラの隣に静かに身を滑り込ませると、石鹸の香りがふわりと漂った。
そういえば戦争前まで彼は必ず香水をつけていたような…?
(香水はそういえばルーリアさんがお好きだって言ってたわね)
彼の私物はほとんどこの部屋にないのだが一度間違って新入りのメイドがその香水を持ってきたことがある。それに気づいた彼が取りに来て、洒落っ気がないエラのことを鼻で笑ったのだ。
ルーリアは俺が彼女がつけているのと同じ香水をつけると喜ぶんだ。色気のないお前はせめてそうやって俺を少しでも喜ばせるような物言いを覚えろよ、と。
エラがかつての彼の不愉快な物言いを思い出してぎゅっと瞼を強くつむると、まるで彼女がそのことを思い出しているのを知っているかのように隣からふと彼の手が伸びてきて、さらっと彼女の髪の毛に触れたので一瞬呼吸が乱れた。彼に触られたことは、公の場で必要に迫られた時のみなので、今まで数えるほどしかない。彼女が身を強張らせるより先に、彼の囁き声が聞こえる。
「ゆっくりおやすみ、エラ」
ジェームズはそのまますぐに寝息を立て始めたのだった。
ジェームズが家に戻ってきて、一月が過ぎた。
相変わらず彼は、規則正しい生活を送り、執務室に籠もり続け、仕事をこなし、夜はエラと共に夫婦の寝室で眠る。エラに対しては節度ある距離を保ちながらも、彼女を見つめる瞳は熱く、明らかに今までとは違う夫らしい態度を取り続けていた。彼女が寝ていると思っているときだけ、彼はそっと髪の毛に触れるがあくまでもそれだけなのでエラは気づいても我慢していた。
そして愛人の家に出向く様子は一切見られなかった。まるで記憶からすっぽりと彼女の存在が抜け落ちているかのように。
ジェームズの両親は、そんな息子にすっかり満足し、ある日エラに以前からブラウン家が取り組んでいる慈善活動の一貫の、孤児院への視察にジェームズと共に行くことを提案してきた。エラは内心嫌でたまらなかったが義母は翌朝の朝食の席で彼にその話をしてしまった。以前のジェームズなら間違いなく鼻で笑ったというのに、彼は実に興味深いとでも言いたげに頷いた。
「一度は俺も直接、視察に行くのが筋だな」
思わず手元が狂い、カチャンと食器の音を立ててしまう。
「し、失礼しました」
震える声で無礼を詫びると、ジェームズが分かっているよと言わんばかりの柔らかい眼差しで彼女を見た。
「俺が驚かせたんだろう。昔の俺ならさしずめ『そんなお堅い正しいことをするなんて』と馬鹿にしただろうからな」
エラは以前彼にかけられた舌打ちまじりの言葉を思い出す。
『どうせ結婚したらお前は慈善事業に打ち込むような、お堅い”正しい女”になるんだろ』
(この人は…どうしてこんなに…変わってしまったの?)
エラの心は揺れ続ける。
「全く戦争に行く前のお前ときたら、物語に出てくる放蕩者そのものだったからな」
義父が笑い混じりにからかう。
「父さん、もうやめてくれよ」
ジェームズは真っ青になってすっかり食欲が失われたエラを見た。
「今の俺はエラに捨てられないように必死なんだから」
ガチャリと小さな音を立ててドアノブが回された時、エラは既に照明を落としベッドに入っていたので咄嗟に寝たふりをした。ジェームズはそのまま静かに浴室へ向かい、彼の気配が消えると同時に、エラは小さく呻く。
どうして、どうして今夜も此処で寝るの?
しばらくして彼が出てきて、エラの隣に静かに身を滑り込ませると、石鹸の香りがふわりと漂った。
そういえば戦争前まで彼は必ず香水をつけていたような…?
(香水はそういえばルーリアさんがお好きだって言ってたわね)
彼の私物はほとんどこの部屋にないのだが一度間違って新入りのメイドがその香水を持ってきたことがある。それに気づいた彼が取りに来て、洒落っ気がないエラのことを鼻で笑ったのだ。
ルーリアは俺が彼女がつけているのと同じ香水をつけると喜ぶんだ。色気のないお前はせめてそうやって俺を少しでも喜ばせるような物言いを覚えろよ、と。
エラがかつての彼の不愉快な物言いを思い出してぎゅっと瞼を強くつむると、まるで彼女がそのことを思い出しているのを知っているかのように隣からふと彼の手が伸びてきて、さらっと彼女の髪の毛に触れたので一瞬呼吸が乱れた。彼に触られたことは、公の場で必要に迫られた時のみなので、今まで数えるほどしかない。彼女が身を強張らせるより先に、彼の囁き声が聞こえる。
「ゆっくりおやすみ、エラ」
ジェームズはそのまますぐに寝息を立て始めたのだった。
ジェームズが家に戻ってきて、一月が過ぎた。
相変わらず彼は、規則正しい生活を送り、執務室に籠もり続け、仕事をこなし、夜はエラと共に夫婦の寝室で眠る。エラに対しては節度ある距離を保ちながらも、彼女を見つめる瞳は熱く、明らかに今までとは違う夫らしい態度を取り続けていた。彼女が寝ていると思っているときだけ、彼はそっと髪の毛に触れるがあくまでもそれだけなのでエラは気づいても我慢していた。
そして愛人の家に出向く様子は一切見られなかった。まるで記憶からすっぽりと彼女の存在が抜け落ちているかのように。
ジェームズの両親は、そんな息子にすっかり満足し、ある日エラに以前からブラウン家が取り組んでいる慈善活動の一貫の、孤児院への視察にジェームズと共に行くことを提案してきた。エラは内心嫌でたまらなかったが義母は翌朝の朝食の席で彼にその話をしてしまった。以前のジェームズなら間違いなく鼻で笑ったというのに、彼は実に興味深いとでも言いたげに頷いた。
「一度は俺も直接、視察に行くのが筋だな」
思わず手元が狂い、カチャンと食器の音を立ててしまう。
「し、失礼しました」
震える声で無礼を詫びると、ジェームズが分かっているよと言わんばかりの柔らかい眼差しで彼女を見た。
「俺が驚かせたんだろう。昔の俺ならさしずめ『そんなお堅い正しいことをするなんて』と馬鹿にしただろうからな」
エラは以前彼にかけられた舌打ちまじりの言葉を思い出す。
『どうせ結婚したらお前は慈善事業に打ち込むような、お堅い”正しい女”になるんだろ』
(この人は…どうしてこんなに…変わってしまったの?)
エラの心は揺れ続ける。
「全く戦争に行く前のお前ときたら、物語に出てくる放蕩者そのものだったからな」
義父が笑い混じりにからかう。
「父さん、もうやめてくれよ」
ジェームズは真っ青になってすっかり食欲が失われたエラを見た。
「今の俺はエラに捨てられないように必死なんだから」
387
あなたにおすすめの小説
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
戻る場所がなくなったようなので別人として生きます
しゃーりん
恋愛
医療院で目が覚めて、新聞を見ると自分が死んだ記事が載っていた。
子爵令嬢だったリアンヌは公爵令息ジョーダンから猛アプローチを受け、結婚していた。
しかし、結婚生活は幸せではなかった。嫌がらせを受ける日々。子供に会えない日々。
そしてとうとう攫われ、襲われ、森に捨てられたらしい。
見つかったという遺体が自分に似ていて死んだと思われたのか、別人とわかっていて死んだことにされたのか。
でももう夫の元に戻る必要はない。そのことにホッとした。
リアンヌは別人として新しい人生を生きることにするというお話です。
元婚約者が愛おしい
碧井 汐桜香
恋愛
いつも笑顔で支えてくれた婚約者アマリルがいるのに、相談もなく海外留学を決めたフラン王子。
留学先の隣国で、平民リーシャに惹かれていく。
フラン王子の親友であり、大国の王子であるステファン王子が止めるも、アマリルを捨て、リーシャと婚約する。
リーシャの本性や様々な者の策略を知ったフラン王子。アマリルのことを思い出して後悔するが、もう遅かったのだった。
フラン王子目線の物語です。
【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです
大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。
「俺は子どもみたいな女は好きではない」
ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。
ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。
ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。
何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!?
貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる