不屈の葵

ヌマサン

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第5章 飛竜乗雲の章

第199話 徳政をめぐる相論解決と来るべき吉田城攻めに向けて

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 明けて永禄八年。三河一向一揆との本格的な戦が開始した永禄七年一月から一年が経過した、一つの節目でもあった。

 正月ともなり、家康は寺内町と深溝松平氏をはじめとする諸将の間に生じた相論解決に尽力し、昨年十二月もとい先月、ようやく解決へと漕ぎつけた伯父・水野下野守信元を岡崎城へ呼び寄せ、祝いの酒を酌み交わしていた。

「伯父上、この度は徳政をめぐる相論の解決に尽力くださり、心底より御礼申し上げる」

「堅苦しいことを申すでないわ。まあ、あまりにこじれておったゆえ、何度匙を投げようと思ったことか」

「そ、それはまことに面倒をおかけいたしました」

「よいよい。それをそなたの母の前で愚痴をこぼしたのじゃが、何と言われたか、そなたは分かるか」

「はて、母が何をおっしゃったかなど、某には分かりかねまするが……」

 水野下野守が解決に奔走した徳政をめぐる相論。一向一揆と戦うにあたり、家康が松平方諸将と寺内町の間に存在した売買・賃借関係の破棄、すなわち徳政を認めていた。

 そのことが一向一揆と和睦した際、土呂本宗寺の寺内町などに売買や賃借によって得た土地や米銭が保証されることとなったため、ややこしいこととなった。

 徳政によって借りていた土地や米銭を帳消しとなったはずであるのに、今さら和睦したので帳消ししたことを帳消しすると言われても困るといったことが発端となり、発生したのが徳政をめぐる相論であった。

 その解決にあたったのが寺側にも松平側にも属していない水野下野守。十ヵ月近い年月をかけて粘り強く関係各所との調整に当たったのだ。

 その大変さを久松家の屋敷で妹婿・久松佐渡守へ愚痴をこぼしていたのを耳にした家康の生母・於大の方が何と言ったと思うか。それが水野下野守から家康へ投げかけられた問いなのであるが、家康にも皆目見当もつかなかった。

「ははは、『兄上がやらぬと申したのは蔵人佐殿を見限るお気持ちからでしょうか!』と、それはもう物凄い剣幕であった。儂は何もやらぬとは申しておらぬ、苦労しておるからこうして義弟を相手に吐露しておるのだと弁解して、ようやく事なきを得た」

「な、なんと、そのようなことがございましたか」

「それだけ、我が子のことを思うておるがゆえ、あれほどまでの剣幕で兄を怒鳴りつけられるのだ。まこと強き、良い母親を持ったものよ」

「す、素直に喜べませぬ……」

 苦笑交じりの家康を見て、水野下野守は豪快に肩を揺らして笑い、盃に満々と注がれた酒を勢いよく飲み干していく。

「まあ、相論の方じゃが、寺内町への返却は今年からということで話をまとめておいた」

「ええ、詳細は当家の家老、石川彦五郎より伺っております。徳政は昨年限りとし、今年からは借りたものは返却していくように、とのことでしょう」

「そうじゃ。だが、それでは借りた側は納得せぬ。それゆえ、返却するのは元本のみとし、利息については帳消しとさせた。元本だけでも帰ってくるならばと寺側も納得し、来年から元本だけ返済すればよいのならばと諸将も得心した、というわけじゃ」

「さすがは伯父上。よくぞ双方ともに納得のいくような条件を出してくださいました」

「ははは、骨は折れるが、これこそ交渉の基本ぞ。蔵人佐殿、双方の面目を立てる良い条件を提示できるのが交渉上手のすること、それができればお主にも益があろう」

 人生の先達である水野下野守の言うことはもっともであった。下は紛争の解決から、上は大名同士の駆け引きにも応用できる基本原則とも言うべき事柄。これを学び、取り入れることで得られる利益は計り知れないものがある。

「そうじゃ、伯父上に聞いておきたき儀がございまする」

「ほう、儂に聞きたいことがあると申すか。どうせ、織田殿のことであろう」

「何故それを!?」

 どうして自分が聞こうとしていることを知っているのかと驚く家康であったが、その後ににやりと笑う水野下野守を見て悟った。これは鎌をかけられたのだ、と。

「まあ、お主からそのくらいのことは聞かれるであろうと思うておったが。織田殿は犬山城を攻め落とし、名実ともに尾張国主となられたぞ」

「なんと、風説かと思うておりましたが、真のことにございましたか。然らば、賀詞を述べる使者を小牧山城へ派遣せねばなりませぬか」

「そういたせ。儂もこの足で向かうつもりじゃ。儂にとって織田殿は従属先、機嫌を損ねることなどあってはならぬ。蔵人佐殿も使者を送られるならば、早くなさるがよい」

「そういたしまする」

 家康の返事を聞き届け、次に話しかけようとする頃には水野下野守は夢の世界の住人となっていた。家康は水野家の近習らを呼び、寝所へ移動させると、自らもまた近侍らとともに寝所の方へと酔っ払った足取りで歩きだす。

 齢三十二にして名実ともに尾張国主となった盟友・織田上総介信長。それに対し、家康は齢二十四となり、三河国主まであと一息というところまで漕ぎつけている。

 年齢のことを加味すれば、信長よりも早熟。だが、石高や動員できる兵力については、仮に三河国主となったにせよ、大きな開きがあることは言わずもがなであった。

 それでも己もまた国主とならねば、織田との対等な同盟相手として並び立つことはできぬ。ましてや、ここで信長の美濃制圧の足を引っ張るような動きを見せては、呆れた信長から同盟を破棄される可能性すらあり得る。

 ――これは後れを取ってはならぬ。

 焦燥感に近い感情を抱いた家康は翌二月には戦支度を本格化させていく。狙いは言うまでもなく、今川の城代が入っている吉田城と田原城、その周辺領域であった。

 そこで家康は、吉田城を与えると約束した家老・酒井左衛門尉忠次、同じく田原城を知行すると約束した本多豊後守広孝の両名を呼び寄せ、軍議を執り行うこととした。

 如月某日、岡崎城の大広間には家康と酒井左衛門尉、本多豊後守の両名が招集され、広間の隅々には家康の近侍らが展開し、周囲に不審な影がないか、周囲へ目を光らせていた。

「殿、此度の狙いは吉田城と田原城の奪取。となれば、吉田城へ向かう途上に位置する牛久保城の抑えをいかにするか、そこが肝となりましょう」

「うむ。吉田城攻めの最中に牛久保城の牧野勢が打って出てきては、挟撃されることとなる。ゆえに、牛久保城の抑えには左衛門尉、そなたを配置したい」

「はっ、承知いたしました!すでに作手亀山城の奥平美作守定能殿、野田城の菅沼新八郎定盈殿、八名郡の西郷孫九郎清員殿の三名からは兵を出す旨の返書が届いており、某の手勢と合わせて三千ほどにはなろうかと。また、設楽越中守貞通殿には遠江より来援が来ぬか、見張っておくよう依頼してもおりまする」

「おう、三千か。それほどの数で睨みつけておけば、まず牛久保城の牧野民部丞も身動きが取れまい。加えて、設楽越中守を領内へ留めたのは良き判断じゃ。わしもそう命じようと思っておったところゆえな」

 酒井左衛門尉率いる松平別動隊は東三河国衆の軍勢を主力とした三千。対する牛久保牧野勢は集まって一千ほど。これならば無暗に城を打って出ようなどとは思わないはず。目論見通り、しっかりとした牽制となっている。

「加えて、本多隼人佑からは例の者の調略が成せた、と報せがございました」

「ほう、あの者の調略が成せたか。さすがは隼人佑じゃ、命じたことをしかと実行に移す男よ。わしが大層喜んでおったと、そなたから伝えておいてくれ」

「はっ、しかと承りましてございます」

 頼れる家老であり、叔父でもある酒井左衛門尉。彼が上手く東三河国衆と連携を取れていることを直に確認できた家康は、やはりこの者を吉田城主へ据える選択をしたのは正しかったと思えていた。

 そして、酒井左衛門尉とのやり取りが一段落したところで開口したのは土居の本多豊後守であった。

「殿、渥美郡の方にございますが、攻め入る際は三河湾を南下して渥美半島へ上陸するつもりでおります」

「うむ。すでに船の方は水野家からもいくらか出してもらえると話がついておるゆえ、船の方は調達済みゆえ案ずるでない。海沿いに知行を有しておる幡豆小笠原や形原松平、そなたと所領も近い藤井松平、東条松平といった諸勢も同行させるゆえ、兵数はおよそ千五百となろう」

「はっ、それだけいただければ渥美郡の制圧は成せましょう。また、多米戸田氏の戸田左門一西かずあき殿からは当家へ味方するとの約を得ております」

「ほう、戸田左門と申せば、当家に従っておる二連木戸田家とは同族であろう」

「はい。昨年戦死した戸田主殿助殿、戸田甚平忠重殿とは曽祖父同士が兄弟にあたるとのことゆえ、同族ともなります。また、戸田左門殿が申すには、戸田家の姫が先代へ嫁いでいることもご当家へ味方する一因になったと。所詮今川など三河の者にあらず、よそ者なり。従うならば松平一択である、とも書状に記してございました」

 ここへ来て、父・広忠が田原御前を通じて縁を結んでいた戸田家の者たちが活躍し始めるとは、何がどのように芽吹くか、まこと読めないものであった。

「左様であったか。渥美郡へ渡った時にでも、わしが合力かたじけないと申しておったと伝えておいてくれ。そして、吉田城と田原城、両城の経略が成せた暁には陣中で対面したいと考えておる旨も付け加えて申し述べておくように」

「ははっ、殿よりの伝言、しかと預かりましてございます。して、肝心の殿はいかがなされるおつもりにございましょうや」

「わしか。左衛門尉率いる別動隊は東海道より宝飯郡へ進ませるつもりでおる。それゆえ、わし率いる本隊は平坂街道を進むつもりじゃ。他の松平家の諸勢と合流しながら行軍することとなろうが、兵数は三千ほどとなる予定じゃ」

「ともすれば、総勢八千近い兵数で東三河へ攻め入ると……!これは昨年の吉田城攻めを遥かに上回る兵数にございまするな」

 ――よもや自分が生きている間に、松平が八千近い兵力を動員できるほどの勢力に成長しようとは。

 本多豊後守はそうした感慨に耽っているようであった。そして、それは家老・酒井左衛門尉とて同じことであった。

 そうして軍議を終えた松平勢は各地へ早馬を飛ばし、陣触れしていく。

「皆の者!これより始まる戦にて、四年の長きに渡る三河での今川との戦を終わらせる!各々我が命に従い、数多の勲功を得ることを願ってもおる!さぁ、出陣ぞ!」

 家康の号令一下、岡崎城を松平本隊が発していく。

 本隊が平坂街道を用いて南下するのと同じ頃、本多豊後守率いる海手の別動隊は帆を挙げて出航。渥美半島制圧に向けて、三河湾を南下していく。

 そして、もう一つの別動隊を率いる酒井左衛門尉は奥平勢、菅沼勢、西郷勢を糾合すると、牧野民部丞成定が籠もる牛久保城を包囲する構えを見せる。

「殿!本多豊後守様率いる海手隊は無事出航!渥美郡を目指して進んでおる由!」

「報せ大儀!」

「申し上げます!酒井左衛門尉様率いる山手隊は東海道を進軍!牛久保城を包囲するべく、夫人を進めておるとの由!」

「報せ大儀!また何かあればすぐに報せよ!」

 平坂街道を進んで伊奈城へ入った家康のもとへは注進櫛の歯を挽くが如し、とでも言うべき状況であった。床几に腰かける若い二十四の大将は金溜塗具足をその身に纏い、凛とした面持ちで伝令へ返事をしていく。

「殿、いよいよ三河を統べられるのですな」

「気が早いぞ、隼人佑。まだ戦は始まったばかりじゃ」

「はっ、申し訳ございませぬ!されど、敵がこの局面を打ち破るには、駿府より今川上総介氏真自らが大軍を率いて三河へ後詰めしに来るよりほかはございませぬ」

 まさしく伊奈城主・本多隼人佑忠次の申す通りであった。戸田主殿助重貞を討ち取り、吉田城を奪い返したとはいえ、三河国内における今川方の衰退は明白。言うなれば、強引に延命措置を講じているような状態なのである。

「そうであろうな。斥候からの報告によれば、援軍はおろか、吉田城奪還に伴い、堀江城の大澤勢と駿河の三浦勢は本国へ引き揚げていったそうではないか」

「いかにも!二連木城へは宇津山城の朝比奈勢が在番しておるとの報せも受けておりますれば」

「それだけであろう。吉田城は苦もなく抑えられようものぞ。されど、桶狭間合戦のように戦は何が起こるか知れたものではない。ゆめゆめ油断だけはしてはならぬぞ」

「心得ておりまする!殿、どうかご武運を!」

 家康は若き伊奈城主からの激励を受けると、その日は城にて一泊し、翌早朝に全軍へ吉田城への進軍を下知したのであった。

 今再び、吉田城をめぐる戦いが幕を開けようとしていた――
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