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第5章 飛竜乗雲の章
第200話 木を数えて林を忘れる
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地上が春の温かさを思い出そうとしている頃、渥美半島の波打ち際へは多くの兵船が停泊していた。岸辺でうごめくのはすべて、本多豊後守広孝の指揮下に置かれた松平兵である。
「豊後守殿!総員、上陸を完了したとのことじゃ」
「おお、左近殿。報せかたじけない。まずは手筈通りに加治砦跡へ本陣を構えまする」
「うむ。承知しております。すでに皆、部隊をまとめて進軍の号令を今か今かと待ちわびておりますぞ」
東条松平勢を統率する松井左近忠次のいかつい顔から視線を外し、周囲を見渡すと幡豆小笠原勢、形原松平勢、藤井松平勢といった頼もしい味方が大将である本多豊後守の命令を待ち望んでいるのである。
「では、全軍!加治砦跡へ進軍せよ!まずは砦跡を復旧させたうえで、渥美郡経略の本陣とする!」
本多豊後守の号令に兵らは鬨の声を挙げて応じ、各隊大将の命令に従って進軍を開始する。
「そうじゃ、亀千代殿は壮健であられたか」
「うむ、壮健でござる。されど、戦に出れぬことを口惜しがっておられます」
「ははは、まだ十にございましょう。それでは出陣など叶いますまい」
「いかにも。戦場に立つはまだ五年は先でござるとお伝えしたら、悔し泣きおりました」
「そうか、まだ幼いとは申せ、心意気は立派な武士でござる。きっと勇ましき当主となられましょう」
東条松平家当主・松平亀千代の消息を陣代・松井左近より聞き、満足げに笑ってみせる本多豊後守。
彼の正室は松平右京亮義春の娘。この松平右京亮こそ松平亀千代の祖父にあたるため、松平亀千代から見れば本多豊後守は叔母の婿、すなわち義理の叔父にあたるのである。
そして、陣代を務める松井左近は松平亀千代にとって母の兄、すなわち伯父に該当するため、今ここでこうしてやり取りしている二人は松平亀千代からすれば、どちらも『叔父』にあたる。
何はともあれ、海手からの別動隊は無事に加治砦跡へ入ると、そこを拠点として整備を開始。その間にも渥美郡の制圧を進めるべく、田原城代・朝比奈肥後守元智をはじめとする今川方へ降伏を勧告していく。
「本多豊後守様!お目通りを願う者が手勢を引き連れて参っております!」
「おおっ、もしや戸田左門殿ではなかろうな」
「そ、その通りにございます!これへ通しましょうか」
「いや、某自ら出迎えるとする。案内いたせ」
松平勢の渥美郡上陸に合わせて、本陣と定めた加治砦跡へやって来たということは松平へ服属することを表明したことを意味する。渥美郡の戸田左門一西が松平へ従属を誓った。これを渥美郡内で流布するだけでも、大いに効果を発揮するに違いなかった。
本多豊後守は偉そうに本陣でふんぞり返るのではなく、加治砦跡の外までやって来ている戸田左門を出迎えるべく陣幕を払って外へ出た。すると、遠方で馬の手綱を引く先頭の青年とばしっと目が合ったのである。
「貴殿が戸田左門殿か!某、渥美郡経略を任されておる本多豊後守広孝と申す!」
「いかにも!戸田左門一西にござる!ご挨拶が遅れましたこと、まこと申し訳ございませぬ!」
互いに大声で呼び合い、相手が何者であるかを把握した両者は足早に歩み寄る。齢三十八にもなる本多豊後守に対し、目の前の戸田左門は家康よりさらに一ツ下の齢二十三であった。
「左門殿、そう謝られることではござらぬ。情勢が情勢にござれば、周囲に今川方の者が多くおっては当家へ与することを表明するのも大変でしたでしょう。さっ、設営中ではございますが、中へ」
「かたじけのうございます。では、これより我ら多米戸田勢も同道仕る!」
敵地にて多米戸田勢という頼もしい味方を得た本多豊後守ら別動隊は地の利を得ている戸田左門を加えたうえで軍評定を開いていく。
その中で戸田左門が示したのは田原城を降伏開城させるだけでなく、高縄城も下すこと。そうすれば渥美郡の過半を制したことにもなり、残る渥美郡の今川方も抵抗することの無益を悟って降伏してくるであろう、との見解であった。
「ふむ、左門殿が申されることは分かり申した。されど、田原城代の朝比奈肥後守がそう易々と田原城の開城に応じるであろうか」
「某の見るところ、十中八九応じまする。元より朝比奈肥後守は城代に過ぎず、本貫は別にございます。ゆえに、城と命運を共にするほどの抵抗をしようはずもございませぬ。その朝比奈肥後守を下せば、高縄城の者らもそれに続いて参りましょう。上首尾に参れば、一滴の血を流すことなく渥美郡の過半を制圧できまする」
「ともすれば、朝比奈肥後守を上手く説得できるかにかかっておるか。ひとまず、『抵抗せずに城を明け渡すならば、城代を含む城兵皆の一命を助け、本国へ撤兵する際も追い討ちはせぬ』との条件で降伏開城を打診してみるとする」
陽が落ちれば、たちまち残冬を感じさせる寒さが訪れる。その中で田原城へ本多豊後守より降伏開城を促す使者が入り、その日のうちに使者は本陣である加治砦跡へと帰還した。
「して、朝比奈肥後守の返答やいかに!」
「はっ!城代を含む城兵全員の一命を助けるとあらば降伏開城に応じる、と即答し、すでに城を明け渡すべく支度にかかっておる模様!」
「なんと!これほど容易く降伏開城を呑むとは思わなんだ……」
「某の申した通りにございましょう。渥美郡におる今川方はさほど戦意はございませぬ。駿府からの命で在番しておるだけにすぎませぬ」
戸田左門の申したことは真であった。本多豊後守がたった一度の使者を派遣しただけで田原城は無血開城となった。
さらに驚くべきは、翌日には高縄城もまた開城することを応諾し、上陸からほどなくして渥美郡の半分が松平家の支配下に置かれる運びとなったのである。
「ここまで首尾よく参るとは、この本多豊後守とて思わなんだ」
「某はこの地の今川勢と常に接しておりますゆえ、こうなることは予見しておりました」
「ははは、さすがにござる。然らば、次なる一手はいかがすべきであろうか」
「そうですな。吉田城から渥美半島を遮断するように、大崎と草間の地へ砦を築いておくのがよろしいかと」
「ほう、さすれば吉田城の大原肥前守は仰天するであろうな。すでに渥美郡の半分が松平家の傘下に収まっていると知れば」
「そうでしょうな。おそらく、吉田城の今川勢は北と西に兵を多く割いておりましょうが、渥美郡が敵の手に渡ったと知れば南にも兵を配置せねばならなくなりまするゆえ、蔵人佐殿率いる本隊の援護ともなりましょう」
戸田左門の献策を快く聞き入れた本多豊後守の動きは迅速であった。
吉田城を締め上げるように、これ見よがしに大崎と草間の地へ砦を築き始めたのである。さらに本多豊後守は吉田城東に位置する船形山砦に小笠原摂津守安元率いる幡豆小笠原勢を配備し、吉田城への包囲を強めていく。
こうした松平勢の動きに、吉田城の大原肥前守ら籠城衆は仰天せずにはいられなかった。
「肥前守殿!一大事にござる!」
「新七郎か!大崎と草間に敵が砦を築いておること、すでに斥候より報せがあったわ!おのれ、蔵人佐め、渥美郡にも軍勢を送り込んでおったとは卑劣な……!」
「それもありますが、それだけではございませぬ!」
「なにっ、それだけではないと申すか?」
「はっ!先ほど弟の藤三郎が城下で田原城下で商いをしておったとか申す行商人をひっ捕らえて聞き出したところ、すでに城代の朝比奈肥後守殿は城を明け渡して遠江へと落ち延びていかれたと!加えて、高縄城も開城し、渥美郡の過半がすでに松平の手に落ちておるとのこと!」
怒りに扇子を握る拳を震わせる大原肥前守であったが、すでに田原城代・朝比奈肥後守が逃げおおせたと聞いた瞬間、扇子を床に落としてしまっていた。
「馬鹿な、すでに肥後守めが田原城を明け渡して本国へ逃げおおせたと……!?」
「はっ!渥美郡の者らは松平勢を快く迎え入れておるとのこと!これに呼応するように酒井左衛門尉率いる松平方の軍勢が牛久保城を包囲!松平蔵人佐家康自らも伊奈城に入り、東三河の完全制圧を狙っておるものと思われまする!」
「新七郎、報せ大儀。ともすれば、蔵人佐めの狙いは牛久保城と田原城であったわけか。そして、その後に吉田城を攻めに参る心積もりと見ゆる」
「ともすれば、牛久保城へ至急後詰めをせねばなりませぬ!牛久保城を囲む松平勢が三千、伊奈城に入ったのもほぼ同数とのことゆえ、総勢六千ともなりまする」
「じゃが、牛久保城の後詰めへ動けば、渥美郡に入った松平勢に吉田城を攻められるおそれもある。ここは籠城にて時を待つよりほかはない」
家康の狙いは牛久保城と田原城、その次に吉田城を攻め落として三河一統の総仕上げとするつもりである。そう判断した大原肥前守であったが、渥美郡を制圧されてしまったがゆえにまったく身動きが取れなくなってしまっていた。
城代の不甲斐ない対応に鵜殿新七郎氏長が歯がゆい想いをしているところへ、彼の弟・鵜殿藤三郎氏次が額に汗をにじませながら駆け込んできた。
「藤三郎!いかがした!」
「はっ!対岸の下地砦前に松平勢が布陣!」
「ちっ、我らを牽制するつもりか。して、数は!」
「およそ三千!その中には松平蔵人佐めの馬印もございました!」
――三千。
その数を聞いた刹那、大原肥前守は決して牽制などではないことを悟った。牛久保城を攻めた後に吉田城。そう思い込んでいたが、家康の狙いはあくまでも吉田城なのだということが分かれば落ち着いてもいられなかった。
そこへ来て、大原肥前守の目に映ったのは城の南より昇る火の手であった。
「なんじゃ、あの煙は……!」
「燃えておるのは喜見寺砦ではございませぬか!?」
鵜殿新七郎の言葉に大原肥前守は言葉を失った。城の南を守備する砦である喜見寺砦がいつの間にやら陥落している。喜見寺砦が攻められているという報せが届くより先に火の手が上がるほどの攻撃を受けるとは一体どういうことなのか。まったくもって理解が追いつかない。
「申し上げます!喜見寺砦は二連木城より後詰めに参った朝比奈真次隊の裏切りにより陥落と相成りました!」
「馬鹿者!後詰めなど要望しておらぬわ!二連木城を守備しておった朝比奈真次が寝返ったか……!思えば、二連木城攻めを命じた折も朝比奈勢の攻撃が手緩かったと大澤左衛門佐も申しておったが、その時から松平へ寝返る腹積もりであったということか……!」
思い返せば思い返すほどに憎たらしいのは朝比奈真次であった。しかし、すでに喜見寺砦も陥落した今、吉田城南部を守る砦は全滅。残る砦は松平本隊が眼前に布陣した下地砦のみ。
そんな下地砦方面より突如として鬨の声が上がる。
「今度は何事じゃ!?」
「はっ、下地砦へ松平勢が攻め込んでおりまする!攻め手の大将は大久保七郎右衛門忠世と渡辺半蔵守綱!」
「両名とも武勇に優れた猛将であること、わしも存じておる。そのような者らを先鋒としてぶつけて参ったということは、敵も本気で攻めてきたということじゃ」
「仰せの通りにございます!さすれば、いかにして事に当たりましょう!」
「籠城じゃ。ただ堅く門を閉ざし、城を守れ!すでに駿府へは早馬を出した!牛久保城ともども城に籠もり、御屋形様のご到着を心待ちにしております、とな!」
完全に打ち手を封じられた、というのが大原肥前守の感想であった。吉田城と牛久保城、互いに援軍を派遣し合える至近距離にいながら、その選択が採れないように松平勢はすべてにおいて先手を打ってきているのである。
大原肥前守がだんまりを決め込んでいる間にも下地砦は松平勢の猛攻を受け続け、わずか一刻と持ちこたえられず、陥落となった。
さらには二連木城から旧臣を集めた戸田甚平忠重が出陣し、東から吉田城の包囲に加わり、時を同じくして渥美郡の制圧を順調に進める本多豊後守率いる別動隊も龍粘寺に本陣を置き、総攻めの下知を待っているかのように動きを停止させた。
一日二日で支城をすべて松平方に奪われ、来るかもわからない援軍に望みをつなぐ吉田城代・大原肥前守と彼に率いられた今川勢。
――もはや城を枕に討ち死にするよりほかはない。
そうして吉田城に籠る今川勢が上も下も玉砕する覚悟を決めているところへ、家康より降伏を促す使者として大久保七郎右衛門が送り込まれてきたのである。
降伏を促すべく吉田城へ乗り込んできた大久保七郎右衛門を介して、家康が一体いかなる条件を提示してくるというのか。鼓動が早まる胸を押さえながら、大原肥前守は大久保七郎右衛門を本丸屋敷にて迎賓するのであった。
「豊後守殿!総員、上陸を完了したとのことじゃ」
「おお、左近殿。報せかたじけない。まずは手筈通りに加治砦跡へ本陣を構えまする」
「うむ。承知しております。すでに皆、部隊をまとめて進軍の号令を今か今かと待ちわびておりますぞ」
東条松平勢を統率する松井左近忠次のいかつい顔から視線を外し、周囲を見渡すと幡豆小笠原勢、形原松平勢、藤井松平勢といった頼もしい味方が大将である本多豊後守の命令を待ち望んでいるのである。
「では、全軍!加治砦跡へ進軍せよ!まずは砦跡を復旧させたうえで、渥美郡経略の本陣とする!」
本多豊後守の号令に兵らは鬨の声を挙げて応じ、各隊大将の命令に従って進軍を開始する。
「そうじゃ、亀千代殿は壮健であられたか」
「うむ、壮健でござる。されど、戦に出れぬことを口惜しがっておられます」
「ははは、まだ十にございましょう。それでは出陣など叶いますまい」
「いかにも。戦場に立つはまだ五年は先でござるとお伝えしたら、悔し泣きおりました」
「そうか、まだ幼いとは申せ、心意気は立派な武士でござる。きっと勇ましき当主となられましょう」
東条松平家当主・松平亀千代の消息を陣代・松井左近より聞き、満足げに笑ってみせる本多豊後守。
彼の正室は松平右京亮義春の娘。この松平右京亮こそ松平亀千代の祖父にあたるため、松平亀千代から見れば本多豊後守は叔母の婿、すなわち義理の叔父にあたるのである。
そして、陣代を務める松井左近は松平亀千代にとって母の兄、すなわち伯父に該当するため、今ここでこうしてやり取りしている二人は松平亀千代からすれば、どちらも『叔父』にあたる。
何はともあれ、海手からの別動隊は無事に加治砦跡へ入ると、そこを拠点として整備を開始。その間にも渥美郡の制圧を進めるべく、田原城代・朝比奈肥後守元智をはじめとする今川方へ降伏を勧告していく。
「本多豊後守様!お目通りを願う者が手勢を引き連れて参っております!」
「おおっ、もしや戸田左門殿ではなかろうな」
「そ、その通りにございます!これへ通しましょうか」
「いや、某自ら出迎えるとする。案内いたせ」
松平勢の渥美郡上陸に合わせて、本陣と定めた加治砦跡へやって来たということは松平へ服属することを表明したことを意味する。渥美郡の戸田左門一西が松平へ従属を誓った。これを渥美郡内で流布するだけでも、大いに効果を発揮するに違いなかった。
本多豊後守は偉そうに本陣でふんぞり返るのではなく、加治砦跡の外までやって来ている戸田左門を出迎えるべく陣幕を払って外へ出た。すると、遠方で馬の手綱を引く先頭の青年とばしっと目が合ったのである。
「貴殿が戸田左門殿か!某、渥美郡経略を任されておる本多豊後守広孝と申す!」
「いかにも!戸田左門一西にござる!ご挨拶が遅れましたこと、まこと申し訳ございませぬ!」
互いに大声で呼び合い、相手が何者であるかを把握した両者は足早に歩み寄る。齢三十八にもなる本多豊後守に対し、目の前の戸田左門は家康よりさらに一ツ下の齢二十三であった。
「左門殿、そう謝られることではござらぬ。情勢が情勢にござれば、周囲に今川方の者が多くおっては当家へ与することを表明するのも大変でしたでしょう。さっ、設営中ではございますが、中へ」
「かたじけのうございます。では、これより我ら多米戸田勢も同道仕る!」
敵地にて多米戸田勢という頼もしい味方を得た本多豊後守ら別動隊は地の利を得ている戸田左門を加えたうえで軍評定を開いていく。
その中で戸田左門が示したのは田原城を降伏開城させるだけでなく、高縄城も下すこと。そうすれば渥美郡の過半を制したことにもなり、残る渥美郡の今川方も抵抗することの無益を悟って降伏してくるであろう、との見解であった。
「ふむ、左門殿が申されることは分かり申した。されど、田原城代の朝比奈肥後守がそう易々と田原城の開城に応じるであろうか」
「某の見るところ、十中八九応じまする。元より朝比奈肥後守は城代に過ぎず、本貫は別にございます。ゆえに、城と命運を共にするほどの抵抗をしようはずもございませぬ。その朝比奈肥後守を下せば、高縄城の者らもそれに続いて参りましょう。上首尾に参れば、一滴の血を流すことなく渥美郡の過半を制圧できまする」
「ともすれば、朝比奈肥後守を上手く説得できるかにかかっておるか。ひとまず、『抵抗せずに城を明け渡すならば、城代を含む城兵皆の一命を助け、本国へ撤兵する際も追い討ちはせぬ』との条件で降伏開城を打診してみるとする」
陽が落ちれば、たちまち残冬を感じさせる寒さが訪れる。その中で田原城へ本多豊後守より降伏開城を促す使者が入り、その日のうちに使者は本陣である加治砦跡へと帰還した。
「して、朝比奈肥後守の返答やいかに!」
「はっ!城代を含む城兵全員の一命を助けるとあらば降伏開城に応じる、と即答し、すでに城を明け渡すべく支度にかかっておる模様!」
「なんと!これほど容易く降伏開城を呑むとは思わなんだ……」
「某の申した通りにございましょう。渥美郡におる今川方はさほど戦意はございませぬ。駿府からの命で在番しておるだけにすぎませぬ」
戸田左門の申したことは真であった。本多豊後守がたった一度の使者を派遣しただけで田原城は無血開城となった。
さらに驚くべきは、翌日には高縄城もまた開城することを応諾し、上陸からほどなくして渥美郡の半分が松平家の支配下に置かれる運びとなったのである。
「ここまで首尾よく参るとは、この本多豊後守とて思わなんだ」
「某はこの地の今川勢と常に接しておりますゆえ、こうなることは予見しておりました」
「ははは、さすがにござる。然らば、次なる一手はいかがすべきであろうか」
「そうですな。吉田城から渥美半島を遮断するように、大崎と草間の地へ砦を築いておくのがよろしいかと」
「ほう、さすれば吉田城の大原肥前守は仰天するであろうな。すでに渥美郡の半分が松平家の傘下に収まっていると知れば」
「そうでしょうな。おそらく、吉田城の今川勢は北と西に兵を多く割いておりましょうが、渥美郡が敵の手に渡ったと知れば南にも兵を配置せねばならなくなりまするゆえ、蔵人佐殿率いる本隊の援護ともなりましょう」
戸田左門の献策を快く聞き入れた本多豊後守の動きは迅速であった。
吉田城を締め上げるように、これ見よがしに大崎と草間の地へ砦を築き始めたのである。さらに本多豊後守は吉田城東に位置する船形山砦に小笠原摂津守安元率いる幡豆小笠原勢を配備し、吉田城への包囲を強めていく。
こうした松平勢の動きに、吉田城の大原肥前守ら籠城衆は仰天せずにはいられなかった。
「肥前守殿!一大事にござる!」
「新七郎か!大崎と草間に敵が砦を築いておること、すでに斥候より報せがあったわ!おのれ、蔵人佐め、渥美郡にも軍勢を送り込んでおったとは卑劣な……!」
「それもありますが、それだけではございませぬ!」
「なにっ、それだけではないと申すか?」
「はっ!先ほど弟の藤三郎が城下で田原城下で商いをしておったとか申す行商人をひっ捕らえて聞き出したところ、すでに城代の朝比奈肥後守殿は城を明け渡して遠江へと落ち延びていかれたと!加えて、高縄城も開城し、渥美郡の過半がすでに松平の手に落ちておるとのこと!」
怒りに扇子を握る拳を震わせる大原肥前守であったが、すでに田原城代・朝比奈肥後守が逃げおおせたと聞いた瞬間、扇子を床に落としてしまっていた。
「馬鹿な、すでに肥後守めが田原城を明け渡して本国へ逃げおおせたと……!?」
「はっ!渥美郡の者らは松平勢を快く迎え入れておるとのこと!これに呼応するように酒井左衛門尉率いる松平方の軍勢が牛久保城を包囲!松平蔵人佐家康自らも伊奈城に入り、東三河の完全制圧を狙っておるものと思われまする!」
「新七郎、報せ大儀。ともすれば、蔵人佐めの狙いは牛久保城と田原城であったわけか。そして、その後に吉田城を攻めに参る心積もりと見ゆる」
「ともすれば、牛久保城へ至急後詰めをせねばなりませぬ!牛久保城を囲む松平勢が三千、伊奈城に入ったのもほぼ同数とのことゆえ、総勢六千ともなりまする」
「じゃが、牛久保城の後詰めへ動けば、渥美郡に入った松平勢に吉田城を攻められるおそれもある。ここは籠城にて時を待つよりほかはない」
家康の狙いは牛久保城と田原城、その次に吉田城を攻め落として三河一統の総仕上げとするつもりである。そう判断した大原肥前守であったが、渥美郡を制圧されてしまったがゆえにまったく身動きが取れなくなってしまっていた。
城代の不甲斐ない対応に鵜殿新七郎氏長が歯がゆい想いをしているところへ、彼の弟・鵜殿藤三郎氏次が額に汗をにじませながら駆け込んできた。
「藤三郎!いかがした!」
「はっ!対岸の下地砦前に松平勢が布陣!」
「ちっ、我らを牽制するつもりか。して、数は!」
「およそ三千!その中には松平蔵人佐めの馬印もございました!」
――三千。
その数を聞いた刹那、大原肥前守は決して牽制などではないことを悟った。牛久保城を攻めた後に吉田城。そう思い込んでいたが、家康の狙いはあくまでも吉田城なのだということが分かれば落ち着いてもいられなかった。
そこへ来て、大原肥前守の目に映ったのは城の南より昇る火の手であった。
「なんじゃ、あの煙は……!」
「燃えておるのは喜見寺砦ではございませぬか!?」
鵜殿新七郎の言葉に大原肥前守は言葉を失った。城の南を守備する砦である喜見寺砦がいつの間にやら陥落している。喜見寺砦が攻められているという報せが届くより先に火の手が上がるほどの攻撃を受けるとは一体どういうことなのか。まったくもって理解が追いつかない。
「申し上げます!喜見寺砦は二連木城より後詰めに参った朝比奈真次隊の裏切りにより陥落と相成りました!」
「馬鹿者!後詰めなど要望しておらぬわ!二連木城を守備しておった朝比奈真次が寝返ったか……!思えば、二連木城攻めを命じた折も朝比奈勢の攻撃が手緩かったと大澤左衛門佐も申しておったが、その時から松平へ寝返る腹積もりであったということか……!」
思い返せば思い返すほどに憎たらしいのは朝比奈真次であった。しかし、すでに喜見寺砦も陥落した今、吉田城南部を守る砦は全滅。残る砦は松平本隊が眼前に布陣した下地砦のみ。
そんな下地砦方面より突如として鬨の声が上がる。
「今度は何事じゃ!?」
「はっ、下地砦へ松平勢が攻め込んでおりまする!攻め手の大将は大久保七郎右衛門忠世と渡辺半蔵守綱!」
「両名とも武勇に優れた猛将であること、わしも存じておる。そのような者らを先鋒としてぶつけて参ったということは、敵も本気で攻めてきたということじゃ」
「仰せの通りにございます!さすれば、いかにして事に当たりましょう!」
「籠城じゃ。ただ堅く門を閉ざし、城を守れ!すでに駿府へは早馬を出した!牛久保城ともども城に籠もり、御屋形様のご到着を心待ちにしております、とな!」
完全に打ち手を封じられた、というのが大原肥前守の感想であった。吉田城と牛久保城、互いに援軍を派遣し合える至近距離にいながら、その選択が採れないように松平勢はすべてにおいて先手を打ってきているのである。
大原肥前守がだんまりを決め込んでいる間にも下地砦は松平勢の猛攻を受け続け、わずか一刻と持ちこたえられず、陥落となった。
さらには二連木城から旧臣を集めた戸田甚平忠重が出陣し、東から吉田城の包囲に加わり、時を同じくして渥美郡の制圧を順調に進める本多豊後守率いる別動隊も龍粘寺に本陣を置き、総攻めの下知を待っているかのように動きを停止させた。
一日二日で支城をすべて松平方に奪われ、来るかもわからない援軍に望みをつなぐ吉田城代・大原肥前守と彼に率いられた今川勢。
――もはや城を枕に討ち死にするよりほかはない。
そうして吉田城に籠る今川勢が上も下も玉砕する覚悟を決めているところへ、家康より降伏を促す使者として大久保七郎右衛門が送り込まれてきたのである。
降伏を促すべく吉田城へ乗り込んできた大久保七郎右衛門を介して、家康が一体いかなる条件を提示してくるというのか。鼓動が早まる胸を押さえながら、大原肥前守は大久保七郎右衛門を本丸屋敷にて迎賓するのであった。
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前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
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歴史・時代
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HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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