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第6章 竜吟虎嘯の章
第219話 浩然の気
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永禄十年九月末。酒井将監忠尚の死から二年、五本松城の戦いで西郷孫六郎元正が、藤波畷の戦いで大久保大八郎忠包が討ち死にして六年、第二次安祥合戦にて松平広忠を逃がすために殿を務めた本多平八郎忠豊が戦死して二十二年が経ったこの頃。
虫の音が響く岡崎城の書院にて書状をしたためる家康のもとへ、鳥居彦右衛門尉元忠に伴われた一人の僧がやって来ていた。
「殿」
「彦右衛門尉か。何用じゃ」
「はっ、我が兄よりお伝えしたきことがあるとのことゆえ、お連れいたしました」
「ほう、不退院の――」
興味を抱いているのか、家康は手にした筆を置き、鳥居彦右衛門尉の実兄にして、鳥居伊賀守忠吉の次男である本翁意伯と相対した。
本翁意伯は浄土宗西山深草派の僧であり、大変博学であったことから、本山の任命で三河十二本寺の一つである不退院の第六世の住職になった人物である。
――そんな彼が一体家康に何を告げようというのか。
何より、わざわざ西尾の不退院からやってきたのも何かわけがありそうであった。
「三河守様、お久しゅうございます。本翁意伯にございます」
「うむ。こうして会うのは数年ぶりか。して、わしに伝えたきことがあるとのことじゃが、それは一体何事じゃ」
「はい。実は拙僧、葬儀のために河内国へ先日行って参ったのでございます」
「ほう、河内へ参っておられたと」
河内国。家康もまだ足の踏み入れたことのない畿内にあり、今では三好家の内訌や足利義親派と足利義秋派の大名らが争う、戦乱の地。
そのような地で亡くなった者の葬儀に招かれようとは、本翁意伯の僧としての有名さが窺い知れるというものであった。
「して、畿内の様子はいかがでござった」
「戦乱が続き、民は疲弊しております。政も未だ第十四代将軍が定まらず、混乱が続いておりますれば、訪れるたびに何故争いが鎮まらぬものかと祈りたくなりまする」
「そうか、畿内はやはり戦続きで荒廃しておるか」
畿内でのことは風の噂程度には家康も耳にすることはある。だがしかし、側近の親族から直接惨状のほどを聞かされると、何とも言えない気持ちになる。
三河は戦乱がなく、民が疲弊していない――とは言えないまでも、惨状を聞けば聞くほど三河の方が戦乱による被害は軽度なのではないかと思えてしまう。
「三河守様、その河内国での葬儀にございまするが、殿もご存じの方にございました」
「なにっ、わしも知っておる者の葬儀であったと申すか……!」
葬儀は家康も知っているであろう人物であるとの本翁意伯の言葉に仰天した。しかし、そのように言われたとしても、家康の脳裏に河内国で亡くなるような人物に心当たりはなかった。
「いかん、皆目見当もつかぬ。一体誰の葬儀であったのじゃ」
「荒川甲斐守義広殿にございますれば」
「なにっ、甲斐守の葬儀であったと!?」
足利御一家の一つ・吉良家の出身で、荒川家を興したのが荒川甲斐守である。その荒川甲斐守は三河一向一揆よりも早く、上野城の酒井将監忠尚らに便乗して家康に反旗を翻し、戦後、家康の命によって追放された人物。
今も岡崎城に暮らしている荒川甲斐守の正室・市場姫は家康の異母妹であり、家康の甥姪にあたる長男・次郎九郎、次男・平右衛門、長女・崎姫の三人の子らは健やかに暮らしている。
追放する際、荒川甲斐守が最後まで案じていたのが妻子のことであり、その身柄を家康は責任もって引き受け、今なおその責務を果たし続けているのである。
「たしか甲斐守殿は国外追放となっておりましたな」
「そうじゃ。わしに楯突いたのじゃ、妹婿であったとて断じて許すわけには参らぬ。じゃが、まことに二度と三河の地を踏むことなく亡くなってしまおうとは……」
そう言う家康の脳裏に思い描かれるは、追放を命じた際、妻子のことを懇ろに頼み、叛乱を起こしたことを心の底から悔いている様子の荒川甲斐守。その事情を詳細までは知らずとも、そうなった経緯までは存じている本翁意伯は静かに相槌を打つ。
「法名は不退院殿智空上衍大居士、となってございます」
「そうか、西尾の不退院にて埋葬されたか」
「はい。生前、甲斐守殿は当寺院の再建に尽力してくださいましたゆえ、そのような御仁が亡くなられたとあっては無下にもできますまい。たとえ、ご領主に背いた御仁であったとしても」
「ははは、それゆえに気を遣ってわしのもとを訪ねて参られたと申されるか。そのような気遣いは無用じゃ。たしかに甲斐守は謀反人であるが、わしにとって妹婿でもあるゆえな。おそらく、甲斐守が死を聞けば、我が妹が子供らを連れて不退院を尋ねるであろうゆえ、その折には応対を頼むぞ」
「はい。それはもう、もちろんのことにございまする」
本翁意伯にとって市場姫は父や弟らが仕えている主君の妹という間柄ともなる。そんな遠いとも近いとも言えない関係であるが、この二つを結び付けているのは間違いなく荒川甲斐守の功績といえよう。
「彦右衛門尉」
「はっ!」
「そなたの兄を城外へ送り届けた後で良いのじゃが、妹の於市にもこのことを伝え、これへ参るよう伝えてはくれぬか」
「承知いたしました!然らば、ただちに兄を送り届け、お伝えして参りまする!」
「おい、そう急がずともよいと――」
忠実に主君の命を全うしようとする鳥居彦右衛門尉は急かすように兄・本翁意伯の背を押して書院を退出。家康が言葉を付け足すのも聞かず、足早にその場を立ち去ってしまっていたのである。
「まったく、彦右衛門尉め」
忠実に自分の命令を実行しようとしている鳥居彦右衛門尉の様子を見て、家康は不意に笑みをこぼす。
そうして待つ間にも家康は遠江国衆らへ発給する書状をしたため、読み直していく。来たる遠江侵攻を見据えて、こうした根回しは欠かせなかった。
家康が調略のための書状を準備していると、思っていたよりも早く、鳥居彦右衛門尉に導かれて異母妹・市場姫が書院へ到着したのである。
「兄上、お呼びでございましょうか」
「うむ。彦右衛門尉からは何も聞いておらぬのか」
「はい。用件は兄上が申されると伺っておりまする」
「そ、そうであったか」
市場姫がきょとんとしていることから、本当に詳細を知らないのだと気づいた家康は書院の隅で畏まったままの鳥居彦右衛門尉を一瞥すると、正面に座る妹へと視線を移す。
「実はの、そこにおる彦右衛門尉の兄で不退院で住職を務めておる本翁意伯が参っておった」
「左様でございましたか。それにしても、彦右衛門尉殿の兄君が不退院のご住職であられたとは初めて耳にいたしました」
「そうであったか。されど、於市は不退院を存じておったとは意外じゃ」
「夫が再建に尽力した寺院にございますゆえ」
しんみりとした語気で発せられた言葉からは市場姫の夫への愛情を感じられる。それだけに、その夫を国外追放した身としても、これから話すことが家康にとって心苦しいものであった。
「於市よ、今から話すこと、心穏やかに聞くように」
「はっ、はい!」
話すという覚悟を固めた家康の真面目な表情を見て、市場姫もまた背筋を伸ばして座り直し、畏まった様子でじっと異母兄の瞳を見つめる。
「そなたの夫、甲斐守は三年前に我が命により国外追放を命じた」
「……はい。兄上に背いたのですから、当然のことと心得ます」
「うむ。それ以来、何の音沙汰もなく、どうしておるのかはわしも知らなんだ。されど、先ほど彦右衛門尉の兄、本翁意伯伝手に聞いたところ、去る二十九日に河内国にて葬儀を営んだと」
「あ、あの、葬儀とは……!?夫はすでにこの世の人ではなくなってしまったと……!?」
突然夫の訃報を知らされ、市場姫が唇をふるわせて動揺するのは無理もなかった。家康は市場姫の言葉に瞠目して頷くと、瞳から一粒の雫をこぼす。
「兄上、泣いておられるのですか……!」
「たわけ。於市、そなたとて泣いておろうが」
「あら、いつの間に……」
兄妹揃って涙を流す様は側で控える鳥居彦右衛門尉の心を打った。家康に指摘されるまで、己が涙を流していることに気づかなかった市場姫であったが、自覚したことが影響したのか、そこから溢れ出す涙の量が目に見えて増加していく。
「兄上」
「なんじゃ」
「死ぬまでに一度、良人に会いとうございました」
「それは……すまぬ」
てっきり市場姫が夫・荒川甲斐守を三河より追放したことを恨んでいるのだと思い、謝罪してしまう家康であったが、それを市場姫は慌てて制止する。
「兄上、謝らないでくださいませ。何も、兄上が夫を三河より追放としたことを恨んでおるのではございませぬ。兄上は主君として当然のことをしたまでにございます」
「そうか。されど、わしはそなたの夫と約束したのだ」
「夫と、何か約束をしたのでございますか?」
「そなたを追放とする代わり、妻子の安全は保証するとな」
市場姫は兄と夫との間でひそかに交わされていた約束。それを三年の歳月が経ち、ようやく知ることとなった市場姫は謀反人の妻として扱われなかった理由を知り、そこには夫の尽力があったのだと分かるとまたもや涙腺が崩壊してしまっていた。
「於市よ、これで涙を拭くがよい」
「兄上、ありがとうございまする。されど、懐紙ならばわたくしも持っております」
家康から差し出される懐紙よりも早く、自分の懐より懐紙を取り出す市場姫。そんな彼女は悲しみの山を越えたのか、落ち着きを取り戻しつつあった。
「兄上、夫が亡くなりしこと、お話しくださりありがとう存じます」
「よい。これは隠すことでもなんでもないゆえ、そなたには直にわしから話しておこうと思ったまでのことじゃ」
「はい」
「良いか、これより先、甲斐守の分もそなたは強う生きねばならぬ。残された子供たちのためにも」
「心得ております。次郎九郎も平右衛門も立派な武士に育て上げ、於崎も荒川家の名に恥じぬ姫に育て上げてご覧に入れまする。そうでなくては、泉下の夫も浮かばれませんでしょうから」
市場姫の言葉を聞き、家康は我が妹ながら天晴だと、実に殊勝な心掛けであると感心した。夫の後を追うなどと言われた時にはどうしようかと戦々恐々としていたのだが、そうはならず、家康も安心した様子であった。
「次郎九郎も平右衛門も齢は竹千代と近いゆえ、元服した暁には竹千代附きの家臣としても良いとわしは考えておる。竹千代にとっても数少ない従弟ゆえな」
「それは有り難いこと。竹千代様もすくすくと育っておること、わたくしの耳にも届いております。甥の成長を聞くのはこれほどまでに幸せなことであったのかと自分でも驚かされておりまする」
「ははは、それはわしとて同じこと。次郎九郎と平右衛門が健やかに育っておると耳にして、わしも同じことを日々痛感しておる」
甥や姪の成長を互いに喜び合うことができる。この骨肉相食む乱世において、それはもっとも幸福なことであることに違いなかった。
「兄上。兄上はこれより遠江へご出陣にございますか」
「うむ。されど、今すぐにという話ではない。仮に遠江侵攻を始めたとして、足利義秋様を擁して上洛を目指しておられる織田殿より援兵を求められた折、これに応じることができなくもなるゆえな」
「でしたら、今は遠江へ兵をお出しになる支度を進めるのみ、であると」
「そうじゃ。ひょっとするとわしも畿内へ出陣せねばならなくなることも有り得るゆえ、東へ進むか、踏ん切りがつかぬと言った方が正しかろうな」
三河国主となり、徳川三河守家康として朝廷にも認められている兄も、東西の大勢力に挟まれ、その動き次第で動向を左右される小さな存在であろうとは、市場姫は兄の口から聞かされてようやく実感が湧いた。
「於市よ、情けないか。夫を追放した兄が三河国主でありながら東の敵や西の味方の顔色ばかり窺っておるのが……」
「滅相もございませぬ。ですが、わたくしにもようやくわかったことがございます」
「それは?」
「夫は実に小さきことで挙兵に及んだのだと。勝敗を分けたのは見ていた世の広さではないかと」
「面白いことを申すな、於市。じゃが、その通りやもしれぬ。仮にわしがそなたの夫の反乱を鎮められなければ、今以上に東西の大勢力に翻弄されるか弱き存在であったことは想像に難くない。ゆえに、わしはそなたの夫を打ち負かした者として、この国をより強くする責務があるのじゃ」
敗者には敗者の、勝者には勝者の考えがある。そのことを改めて痛感させられる、市場姫なのであった――
虫の音が響く岡崎城の書院にて書状をしたためる家康のもとへ、鳥居彦右衛門尉元忠に伴われた一人の僧がやって来ていた。
「殿」
「彦右衛門尉か。何用じゃ」
「はっ、我が兄よりお伝えしたきことがあるとのことゆえ、お連れいたしました」
「ほう、不退院の――」
興味を抱いているのか、家康は手にした筆を置き、鳥居彦右衛門尉の実兄にして、鳥居伊賀守忠吉の次男である本翁意伯と相対した。
本翁意伯は浄土宗西山深草派の僧であり、大変博学であったことから、本山の任命で三河十二本寺の一つである不退院の第六世の住職になった人物である。
――そんな彼が一体家康に何を告げようというのか。
何より、わざわざ西尾の不退院からやってきたのも何かわけがありそうであった。
「三河守様、お久しゅうございます。本翁意伯にございます」
「うむ。こうして会うのは数年ぶりか。して、わしに伝えたきことがあるとのことじゃが、それは一体何事じゃ」
「はい。実は拙僧、葬儀のために河内国へ先日行って参ったのでございます」
「ほう、河内へ参っておられたと」
河内国。家康もまだ足の踏み入れたことのない畿内にあり、今では三好家の内訌や足利義親派と足利義秋派の大名らが争う、戦乱の地。
そのような地で亡くなった者の葬儀に招かれようとは、本翁意伯の僧としての有名さが窺い知れるというものであった。
「して、畿内の様子はいかがでござった」
「戦乱が続き、民は疲弊しております。政も未だ第十四代将軍が定まらず、混乱が続いておりますれば、訪れるたびに何故争いが鎮まらぬものかと祈りたくなりまする」
「そうか、畿内はやはり戦続きで荒廃しておるか」
畿内でのことは風の噂程度には家康も耳にすることはある。だがしかし、側近の親族から直接惨状のほどを聞かされると、何とも言えない気持ちになる。
三河は戦乱がなく、民が疲弊していない――とは言えないまでも、惨状を聞けば聞くほど三河の方が戦乱による被害は軽度なのではないかと思えてしまう。
「三河守様、その河内国での葬儀にございまするが、殿もご存じの方にございました」
「なにっ、わしも知っておる者の葬儀であったと申すか……!」
葬儀は家康も知っているであろう人物であるとの本翁意伯の言葉に仰天した。しかし、そのように言われたとしても、家康の脳裏に河内国で亡くなるような人物に心当たりはなかった。
「いかん、皆目見当もつかぬ。一体誰の葬儀であったのじゃ」
「荒川甲斐守義広殿にございますれば」
「なにっ、甲斐守の葬儀であったと!?」
足利御一家の一つ・吉良家の出身で、荒川家を興したのが荒川甲斐守である。その荒川甲斐守は三河一向一揆よりも早く、上野城の酒井将監忠尚らに便乗して家康に反旗を翻し、戦後、家康の命によって追放された人物。
今も岡崎城に暮らしている荒川甲斐守の正室・市場姫は家康の異母妹であり、家康の甥姪にあたる長男・次郎九郎、次男・平右衛門、長女・崎姫の三人の子らは健やかに暮らしている。
追放する際、荒川甲斐守が最後まで案じていたのが妻子のことであり、その身柄を家康は責任もって引き受け、今なおその責務を果たし続けているのである。
「たしか甲斐守殿は国外追放となっておりましたな」
「そうじゃ。わしに楯突いたのじゃ、妹婿であったとて断じて許すわけには参らぬ。じゃが、まことに二度と三河の地を踏むことなく亡くなってしまおうとは……」
そう言う家康の脳裏に思い描かれるは、追放を命じた際、妻子のことを懇ろに頼み、叛乱を起こしたことを心の底から悔いている様子の荒川甲斐守。その事情を詳細までは知らずとも、そうなった経緯までは存じている本翁意伯は静かに相槌を打つ。
「法名は不退院殿智空上衍大居士、となってございます」
「そうか、西尾の不退院にて埋葬されたか」
「はい。生前、甲斐守殿は当寺院の再建に尽力してくださいましたゆえ、そのような御仁が亡くなられたとあっては無下にもできますまい。たとえ、ご領主に背いた御仁であったとしても」
「ははは、それゆえに気を遣ってわしのもとを訪ねて参られたと申されるか。そのような気遣いは無用じゃ。たしかに甲斐守は謀反人であるが、わしにとって妹婿でもあるゆえな。おそらく、甲斐守が死を聞けば、我が妹が子供らを連れて不退院を尋ねるであろうゆえ、その折には応対を頼むぞ」
「はい。それはもう、もちろんのことにございまする」
本翁意伯にとって市場姫は父や弟らが仕えている主君の妹という間柄ともなる。そんな遠いとも近いとも言えない関係であるが、この二つを結び付けているのは間違いなく荒川甲斐守の功績といえよう。
「彦右衛門尉」
「はっ!」
「そなたの兄を城外へ送り届けた後で良いのじゃが、妹の於市にもこのことを伝え、これへ参るよう伝えてはくれぬか」
「承知いたしました!然らば、ただちに兄を送り届け、お伝えして参りまする!」
「おい、そう急がずともよいと――」
忠実に主君の命を全うしようとする鳥居彦右衛門尉は急かすように兄・本翁意伯の背を押して書院を退出。家康が言葉を付け足すのも聞かず、足早にその場を立ち去ってしまっていたのである。
「まったく、彦右衛門尉め」
忠実に自分の命令を実行しようとしている鳥居彦右衛門尉の様子を見て、家康は不意に笑みをこぼす。
そうして待つ間にも家康は遠江国衆らへ発給する書状をしたため、読み直していく。来たる遠江侵攻を見据えて、こうした根回しは欠かせなかった。
家康が調略のための書状を準備していると、思っていたよりも早く、鳥居彦右衛門尉に導かれて異母妹・市場姫が書院へ到着したのである。
「兄上、お呼びでございましょうか」
「うむ。彦右衛門尉からは何も聞いておらぬのか」
「はい。用件は兄上が申されると伺っておりまする」
「そ、そうであったか」
市場姫がきょとんとしていることから、本当に詳細を知らないのだと気づいた家康は書院の隅で畏まったままの鳥居彦右衛門尉を一瞥すると、正面に座る妹へと視線を移す。
「実はの、そこにおる彦右衛門尉の兄で不退院で住職を務めておる本翁意伯が参っておった」
「左様でございましたか。それにしても、彦右衛門尉殿の兄君が不退院のご住職であられたとは初めて耳にいたしました」
「そうであったか。されど、於市は不退院を存じておったとは意外じゃ」
「夫が再建に尽力した寺院にございますゆえ」
しんみりとした語気で発せられた言葉からは市場姫の夫への愛情を感じられる。それだけに、その夫を国外追放した身としても、これから話すことが家康にとって心苦しいものであった。
「於市よ、今から話すこと、心穏やかに聞くように」
「はっ、はい!」
話すという覚悟を固めた家康の真面目な表情を見て、市場姫もまた背筋を伸ばして座り直し、畏まった様子でじっと異母兄の瞳を見つめる。
「そなたの夫、甲斐守は三年前に我が命により国外追放を命じた」
「……はい。兄上に背いたのですから、当然のことと心得ます」
「うむ。それ以来、何の音沙汰もなく、どうしておるのかはわしも知らなんだ。されど、先ほど彦右衛門尉の兄、本翁意伯伝手に聞いたところ、去る二十九日に河内国にて葬儀を営んだと」
「あ、あの、葬儀とは……!?夫はすでにこの世の人ではなくなってしまったと……!?」
突然夫の訃報を知らされ、市場姫が唇をふるわせて動揺するのは無理もなかった。家康は市場姫の言葉に瞠目して頷くと、瞳から一粒の雫をこぼす。
「兄上、泣いておられるのですか……!」
「たわけ。於市、そなたとて泣いておろうが」
「あら、いつの間に……」
兄妹揃って涙を流す様は側で控える鳥居彦右衛門尉の心を打った。家康に指摘されるまで、己が涙を流していることに気づかなかった市場姫であったが、自覚したことが影響したのか、そこから溢れ出す涙の量が目に見えて増加していく。
「兄上」
「なんじゃ」
「死ぬまでに一度、良人に会いとうございました」
「それは……すまぬ」
てっきり市場姫が夫・荒川甲斐守を三河より追放したことを恨んでいるのだと思い、謝罪してしまう家康であったが、それを市場姫は慌てて制止する。
「兄上、謝らないでくださいませ。何も、兄上が夫を三河より追放としたことを恨んでおるのではございませぬ。兄上は主君として当然のことをしたまでにございます」
「そうか。されど、わしはそなたの夫と約束したのだ」
「夫と、何か約束をしたのでございますか?」
「そなたを追放とする代わり、妻子の安全は保証するとな」
市場姫は兄と夫との間でひそかに交わされていた約束。それを三年の歳月が経ち、ようやく知ることとなった市場姫は謀反人の妻として扱われなかった理由を知り、そこには夫の尽力があったのだと分かるとまたもや涙腺が崩壊してしまっていた。
「於市よ、これで涙を拭くがよい」
「兄上、ありがとうございまする。されど、懐紙ならばわたくしも持っております」
家康から差し出される懐紙よりも早く、自分の懐より懐紙を取り出す市場姫。そんな彼女は悲しみの山を越えたのか、落ち着きを取り戻しつつあった。
「兄上、夫が亡くなりしこと、お話しくださりありがとう存じます」
「よい。これは隠すことでもなんでもないゆえ、そなたには直にわしから話しておこうと思ったまでのことじゃ」
「はい」
「良いか、これより先、甲斐守の分もそなたは強う生きねばならぬ。残された子供たちのためにも」
「心得ております。次郎九郎も平右衛門も立派な武士に育て上げ、於崎も荒川家の名に恥じぬ姫に育て上げてご覧に入れまする。そうでなくては、泉下の夫も浮かばれませんでしょうから」
市場姫の言葉を聞き、家康は我が妹ながら天晴だと、実に殊勝な心掛けであると感心した。夫の後を追うなどと言われた時にはどうしようかと戦々恐々としていたのだが、そうはならず、家康も安心した様子であった。
「次郎九郎も平右衛門も齢は竹千代と近いゆえ、元服した暁には竹千代附きの家臣としても良いとわしは考えておる。竹千代にとっても数少ない従弟ゆえな」
「それは有り難いこと。竹千代様もすくすくと育っておること、わたくしの耳にも届いております。甥の成長を聞くのはこれほどまでに幸せなことであったのかと自分でも驚かされておりまする」
「ははは、それはわしとて同じこと。次郎九郎と平右衛門が健やかに育っておると耳にして、わしも同じことを日々痛感しておる」
甥や姪の成長を互いに喜び合うことができる。この骨肉相食む乱世において、それはもっとも幸福なことであることに違いなかった。
「兄上。兄上はこれより遠江へご出陣にございますか」
「うむ。されど、今すぐにという話ではない。仮に遠江侵攻を始めたとして、足利義秋様を擁して上洛を目指しておられる織田殿より援兵を求められた折、これに応じることができなくもなるゆえな」
「でしたら、今は遠江へ兵をお出しになる支度を進めるのみ、であると」
「そうじゃ。ひょっとするとわしも畿内へ出陣せねばならなくなることも有り得るゆえ、東へ進むか、踏ん切りがつかぬと言った方が正しかろうな」
三河国主となり、徳川三河守家康として朝廷にも認められている兄も、東西の大勢力に挟まれ、その動き次第で動向を左右される小さな存在であろうとは、市場姫は兄の口から聞かされてようやく実感が湧いた。
「於市よ、情けないか。夫を追放した兄が三河国主でありながら東の敵や西の味方の顔色ばかり窺っておるのが……」
「滅相もございませぬ。ですが、わたくしにもようやくわかったことがございます」
「それは?」
「夫は実に小さきことで挙兵に及んだのだと。勝敗を分けたのは見ていた世の広さではないかと」
「面白いことを申すな、於市。じゃが、その通りやもしれぬ。仮にわしがそなたの夫の反乱を鎮められなければ、今以上に東西の大勢力に翻弄されるか弱き存在であったことは想像に難くない。ゆえに、わしはそなたの夫を打ち負かした者として、この国をより強くする責務があるのじゃ」
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歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
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