不屈の葵

ヌマサン

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第6章 竜吟虎嘯の章

第218話 織田信長、美濃を経略す

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 武田家と今川家の甲駿同盟が不協和音を奏で始めたのと時を同じくして、永禄十年八月。織田尾張守信長は足利義秋の帰洛実現のため、昨年七月に尾濃無事を反故にした甥・一色治部大輔義棟を討ち滅ぼすべく、稲葉山城へと出兵していた。

「今こそ美濃を取る刻よ」

「殿、某がかねてより内応を打診しておりました西美濃三人衆より、人質を受け取って貰いたいとの申し出がございましたが……」

「案ずるに及ばず。先ほど村井貞勝と島田秀満の両名を受け取りに向かわせておる。でかしたぞ、三左衛門」

「有り難きお言葉……!」

 信長に付き従う重臣・森三左衛門可成は髭を蓄えた厳めしい面を下げ、信長よりの賛辞を正直に受け取った。

「これより稲葉山城のすぐ西、瑞竜寺山へ駆け上る!我が背を見失うでないぞ!者共、続けっ!」

 相も変わらずの高い判断力を武器に、信長率いる織田軍は電光石火の勢いで美濃侵攻を開始。稲葉山城に詰める美濃一色勢が敵か味方か分からず動揺する間に信長自らが指揮を執る織田軍は城下の井口へと攻め入ったのである。

 城下へ一直線に突入した信長は馬上の背に吹き付ける強風を逆手に取り、ある策を実行に移した。

「者共、火を放て!」

 扇を開き、弓兵に火矢を射させ、足軽らには家屋へ放火させる。風に煽られて瞬く間に火の手は広がり、稲葉山城の兵らの戦意を挫くには十分な一手であった。

 そうして信長による稲葉山城攻めが開始されて十三日後の八月十四日。信長は城普請の分担を決めつつ、城の周囲に鹿垣を作って閉じ込める策でじっくりと美濃一色勢を締め上げていた。

「殿、来客にございまする」

「で、あるか。して、このような時に一体誰が訪ねて参ったか」

「はっ、西美濃三人衆揃い踏みで殿へお目通りを願っておりまする」

 取次の一言を聞き、信長は大きく目を見開く。西美濃三人衆とはすなわち、先に降伏した安藤伊賀守守就、稲葉右京亮良通、氏家常陸介直元の三名である。

 思いがけない来訪者であったが、通さない道理はなかった。信長はすぐにも会おうと申し入れ、西美濃三人衆を本陣へ招き入れたのである。

「尾張守殿、参陣が遅れましたこと、まこと申し訳ござらぬ。某が稲葉右京亮良通にございまする」

「右に同じく、安藤伊賀守守就にございまする」

「同じく氏家常陸介直元」

「織田尾張守信長である。貴公らの協力もあり、稲葉山城攻めは捗っておる。改めて礼を申す」

 信長が頭を下げると、西美濃三人衆は慌てて顔を上げるよう駆け寄る。何せ、彼らの今の主君は他ならぬ織田信長なのであるから、主君に頭を下げさせるわけにはいかなかった。

「たしか、伊賀守とは十三年前に一度那古野城にて会っておったか」

「はっ、あの折は殿が今川軍に攻められた水野家の村木砦へ援軍へ向かっておる間、今は亡き道三公の命を受けて那古野城に在城しておりました」

「で、ある。村木砦とは懐かしいが、あの折の援軍には助けられてもおる。そして、伊賀守は今この時も当家を助けてくれてもおる」

「もったいなきお言葉!して、殿はこのまま稲葉山城を兵粮攻めになされるご所存で?」

「否。そなたら西美濃三人衆の参陣を利用して落城を早めることとする」

 自分たちの参陣をどう利用して落城を早めるというのか。西美濃三人衆は顔を見合わせたが、信長の指示に従い、軍勢を率いて言われた通りの働きをしていく。

 そう、信長からの指示というのは、裏切った西美濃三人衆の旗を稲葉山城から見える位置に掲げさせ、そのうえで軍勢を展開するというものであった。

 至って単純な手ではあるが、西美濃三人衆が織田家へついたことを稲葉山城の城兵たちに見せつけることは戦意喪失に一役も二役も買うことになる。それこそが信長の目論見であり、それは想像以上に稲葉山城に籠る美濃一色勢の心をへし折った。

 次の日には美濃一色方は降伏を申し出、城主である一色治部大輔はもはや織田軍とのこれ以上戦い続けることは不可能と悟り、両の手で数えきれるほどの家臣らを伴って城を脱出。長良川を下って伊勢国長島へと敗走していったのであった。

「殿!敵の大将、一色治部大輔は長良川を下り、北伊勢方面へ逃亡!」

「で、あるか」

「されど殿!ここで治部大輔を取り逃がすようなこととなっては……!」

 当主・一色治部大輔の逃亡を報せたのは西美濃三人衆の一人・稲葉右京亮であった。執念深い元の主君の性格を知り抜いているためか、ここで討ち漏らしては禍根を残すことになるのだと信長に訴えたいのである。しかし、そんな焦る稲葉右京亮の不安を信長は一笑に付した。

「案ずることはない。あの腰抜けが城から逃げ出すことは織り込み済みよ。左近将監率いる軍勢が今ごろは北伊勢に攻め寄せておる頃。それゆえ、生け捕りとなるのも時間の問題であろう」

 信長は西美濃三人衆から内応を受諾する旨の返書を読み、美濃への出陣を触れ回るなかで、滝川左近将監一益に北伊勢へ軍勢を付けて派遣していたのである。

 この伊勢へと動かした軍勢に発見されたが最後、一色治部大輔は生け捕られて信長の面前に引き据えられ、屈辱を味わうこととなる。

「なんと、すでに北伊勢へ軍勢を派遣しておられましたか……!」

「この信長の眼は万物を見通しておる。じきにおれの面目を失墜させた一色治部大輔はおれの前へ連行されて参ろうぞ」

 肩を揺らして笑う信長であったが、稲葉右京亮に語った一色治部大輔の生け捕りは失敗に終わってしまったのである。

 ともあれ、八月十五日。この日、織田信長によって稲葉山城は落城となり、織田家は正式に尾張・美濃を支配する大名となったのである。

 そして、信長は本拠地を小牧山城から稲葉山城へと移転。さらには古代中国において周の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで、稲葉山の城と町の名を「岐阜」と改めた。

「舅殿、遺言の通り、この信長が美濃を平らげましたぞ……!」

 その日の夜、信長は辺りに誰もいない寝所で静かに星空を見上げ、今は亡き舅・斎藤道三の顔を思い浮かべる。

 長良川の戦いにて斎藤義龍に討たれた日から十一年。よもや遺言の通りに美濃を併呑するまでにこれだけの月日を要するとは、信長とて予想だにしなかった。

 だがしかし、昨年の足利義秋入洛を阻んだ邪魔者は美濃にはもういない。北伊勢の制圧も進んでいる旨が滝川左近将監一益から戦果報告が届いている以上、足利義秋入洛に向けての準備は整ったといって良かった。

「いよいよ上洛か。おれも尾張と美濃、伊勢の三国に跨る所領を有する大大名となったが、まだ足場固めに時がかかろう。されど、来年には義秋様を擁しての上洛も成し遂げられよう。そのためにも、まだまだ成すべきことが山ほどあるわ」

 従属を申し出てきた国衆らへの本領安堵、さらにはより京に近い岐阜城への本拠移転と上洛までに成すべきことが山積している状態のままなのである。

 一方で、すでに美濃経略を遂げたことを祝する書状が遠く越後国の上杉弾正少弼輝虎からも届いている中、信長は慢心することなく、足利義秋帰洛の実現に向けて次の一手を模索していた。

「まずは越前におられる義秋様、それを庇護する左衛門督殿へも協力を要請する使者を送らねばならぬか。南近江の六角は恐るるに足らず。されど、北近江の備前守殿へよくよく監視しておくよう、要請しておくべきであろうか」

 信長はひとりごちながら、脳内で日ノ本の地図を広げる。誰が敵で、誰が味方か。敵の中でもどこが最も厄介であるのか。そうしたことをもとに、信長は打ち手を考えていく。

 畿内近国において信長と肩を並べる味方勢力は越前、若狭、北近江を領国とする朝倉左衛門督義景。現在足利義秋を庇護している関係からも、越前朝倉家との連携は必要不可欠であった。

 そして、昨年美濃一色氏とともに三好三人衆の誘いに乗って足利義秋を裏切った南近江の六角家については北近江の戦国大名で信長の妹・お市の方が嫁いでいる浅井備前守長政に牽制する役割を担ってもらうのが得策といえた。

「義秋様は当家と朝倉家の他では越後の上杉家を頼りにしておるようだが、それは厳しかろう」

 そう言って信長は輝虎からの書状に視線を落とす。文面は信長が美濃経略を遂げたことを慶ぶだけでなく、信長が自身と敵対している武田領国へ侵攻すると見立てていた。

 足利義秋の帰洛を支援したいという信長の意向が伝わっていないだけでなく、輝虎には半年前の二月に足利義秋が強く要望している上杉・北条・武田の三家による和睦、すなわち三和に応じるつもりがないことをにおわせた文面であったのだ。

 ――上杉弾正少弼は敵対する武田や北条との和睦に応じるつもりはなく、足利義秋の帰洛実現への支援するよりも武田や北条との戦を優先するつもりである。

 それが上杉家を帰洛実現において頼りにするべきでないという信長の考えを裏付ける証左となっていた。

「頼みの綱は徳川家となろうが、三州殿には今川家を牽制する背後固めの役を担ってもらうことになろうゆえ、参陣を求めるは厳しかろう」

 足利義秋の帰洛への支援について今川上総介氏真は協力する姿勢を示していない。そんな今川家は徳川勢が畿内へ兵を出せば、すかさず出兵してくることは信長にも容易に想像がつく。ともすれば、盟友・家康には領国に留まってもらう方が上洛の援護となりそうであった。

「武田へは我が姪が信玄殿の四男である諏訪四郎勝頼へ嫁がせたことで、東美濃の国境での紛争や足利義秋の帰洛実現に協力する点で一致してもおるゆえ、背後を襲われる心配はない。残るはもう一つ、か」

 信長の意識が外交面から上洛するにあたっての背後固めへ向けられた頃、北伊勢攻めを命じられていた滝川左近将監が信長のもとを訪ねてきた。

「殿、夜分遅くに失礼いたしまする」

「左近将監か。このような夜更けに何事ぞ」

「はっ、北伊勢のことにつき、直接ご報告したきことがあり、参上いたしました」

「で、あるか。申してみよ」

 齢四十三となった滝川左近将監は静かに言上する。信長は桶狭間合戦以後、頭角を現してきた彼の意見に目を閉じ、そっと耳を傾けた。

「まず、一色治部大輔の身柄にございますが、行方知れずとなりましてございます」

「で、あるか。取り逃がしたならば致し方あるまい。あのような小者、放っておいたとて障りはない。して、報告がまだあろう」

 信長からの催促とも取れる物言いに、滝川左近将監は焦りを覚えながらも発言を続ける。

「はい。ご当家が平定を進めております北伊勢八郡がことにございます」

「それは先ほどまでおれも思案しておったところよ。神戸家や長野工藤家あたりを武力で屈服させるはたやすいが、それでは心服とまではいくまい、とな」

「さすがは殿。某が申し上げたかったことは、まさしくそのことについてでございます。殿が近々上洛することを見据えておられる以上、殿の不在を突いて北伊勢が荒れることだけは避けねばなりませぬ。それゆえにただ平定するだけでなく、もう一手工夫が必要であろうと思い、具申しに参った次第」

「左近将監が申すこと、もっともである。されど、おれにもまだいかに処置すべきか思いついてはおらぬ。そなたは引き続き先鋒となりて北伊勢への侵攻を続けよ。伊勢北中部の豪族どもをいかにして服属させるがよいかは、近いうちに改めて指示するゆえ、報せを待て」

「はっ!承知いたしました!然らば、某はこれにて失礼いたしまする!」

 信長は滝川左近将監が離席すると、北伊勢の背後固めについて思い悩むこととなった。そう、信長が上洛するにあたり、意識する必要のある背後固めは二つ。駿河・遠江を領有する大名・今川家、そして豪族が割拠する北伊勢である。

 前者は婚姻同盟を締結している徳川三河守家康に牽制させることで背後を気遣う心配はなくなるのだが、後者はといえば滝川左近将監が具申したようにただ武力で屈服させるのではなく、心服させられる一手を打つ必要があった。

「北伊勢は尾張に隣接する要地でもあるゆえ、一門を配して支配を固めたいが、それでは在地豪族どもが納得すまい。ともすれば、そのいずれも解決することのできるあの手しかないであろうか」

 信長の中である妙案が思い浮かんだが、それを誰に口外することもなく、心の内に秘められたままであった。そして、この時信長が思いついた秘策は翌永禄十一年二月に実行に移されることとなるのである――
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