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第6章 竜吟虎嘯の章
第220話 武田義信の死と新たな嫡男・諏訪四郎勝頼
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東大寺大仏殿に陣を構える三好三人衆に対して松永弾正久秀が奇襲を仕掛けた永禄十年十月十日。この時の失火で大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちたという一大事が大和国で起こった日より九日が過ぎた同月十九日。
この日、畿内より遠く離れた甲斐国にて凶事の一つが起こった。
「なに、太郎が亡くなったと申すか……!」
「はっ!」
腹心・馬場美濃守信春からの報告にそれまで書状をしたためていた信玄は筆を取り落とす。以前より病に伏していたこともあり、長男・太郎義信の死が訪れることは予期していたが、それがかくも急に訪れるとは想像だにしていなかったのである。
甲斐の山々はすでに紅に染まり、躑躅ヶ崎館の庭先にも落葉が舞う秋の静けさの中、武田太郎義信は幽閉先の東光寺にて病死。享年三十と、まだまだこれからという年でこの世を去ってしまったのである。
「美濃守」
「ははっ!」
「松姫を呼んで参れ」
「御屋形様、どちらの松姫様にございましょうか」
「太郎の夫人の方じゃ。儂の娘ではないぞ」
「はっ!然らばお連れいたしまする!」
武田家には二人の松姫がいた。一人は信玄の末娘であり、もう一人は亡き義信の正室であった。馬場美濃守は主命を帯びて信玄のいる大広間を離れると、義信正室・松姫を呼ぶべく馬を走らせていく。
そうして一刻ほどが経った頃、絵図を前に今後の方策を練っていた信玄のもとへ、馬場美濃守が当の松姫を伴って戻ってきたのである。
「御屋形様、お連れいたしました」
「大儀であった。しばし下がって休んでおれ。二人きりで話がしたい」
「ははっ!では、失礼仕りまする!」
馬場美濃守は信玄の側に仕える近習らにも目配せをすると、信玄と松姫を二人きりにするべく近習らともども退室していく。
そして、二人きりとなった躑躅ヶ崎館大広間にて信玄は姪でもある義信正室・松姫と向き合う。泣いた後の腫れぼったい眼をした松姫。齢二十七にして最愛の夫を亡くした姪にどう言葉をかければよいか、信玄自身も戸惑っている様子であった。
そんな不自然な空白を埋めるように口を開いたのは、信玄ではなく松姫の方であった。
「……此度のこと、夢のようでございます」
「うむ。そなたは愛する夫を死へ追いやる要因を生み出した儂のことを恨むか」
「いえ、お恨みいたしませぬ。そもそもいかなる理由であれ、実父へご謀反とは許容できるものではございませぬ」
きりっと目を細め、語気強く言い切る松姫の言葉に、信玄は臓腑をえぐられる思いであった。言葉通りに受け取ったならば義父のしたことを肯定するかのようであるが、実父を国外へ追放したうえで甲斐国主となった義父への意趣返しとも取れる発言であったからである。
「ふ、ふふふ、左様か。されば、その父を追い、甲斐を手に入れた儂から姫へ頼みたきことがある」
「日ノ本に武名を轟かせる叔父上ともあろう方が、このような小娘へ頼み事とは、一体何事でございましょうか」
松姫の再び意趣返しとも取れる発言に信玄は戦慄する。義信が死するまでは『義父上』と呼び慕ってくれていた松姫が、自分のことを『叔父上』と呼称したのである。それは彼女自身が義信の死でもって信玄は義父でないと認識していることを物語っていたからである。
「なに、姫にはこの後も甲斐へ留まってもらいたいという願いじゃ」
「今、なんと申されましたか……?」
「駿河へ帰国せず、太郎の菩提を弔いながら甲斐にて過ごしてはくれぬか、とかように申しておる」
齢四十七にもなり、嫁いできた頃とは段違いに凄みの増した叔父を前に、聡い松姫は思考を巡らせる。一体なぜ自分を甲斐へ留めようとするのか、を。
「承知いたしました。されど、そうまでして妾を留めおこうとなされるのは、世評を気にしてのことでございましょうか」
「さすがは姫よ、存じておったか」
「はい。すでに噂は広まっております。太郎様は病死などではなく、御父上に命じられての自害である、と。むしろ、病死であると知っている人よりも、自害したと思っている人の方が数の上では多いのではありませぬか」
「さすがは姫じゃ。そして、儂が危惧しておるのは、そのことをそなたの兄が聞けばどう動くであろうか、ということじゃ」
「兄のことです。武田は信用できぬと申して、妾の身柄を駿河へ返すよう申し入れてくる――」
そこまで行って松姫は目の前の叔父・信玄が何を案じて、甲斐へ留まるよう説得してくるのかが理解できたような心地がした。
「さては、叔父上は今川との同盟継続を望んでおられる……?」
「然り。儂はすでに越後の長尾弾正少弼との戦で手一杯じゃ。そして、これまで領土拡大に邁進出来て参ったのは今川、北条両家との三国同盟あってこそ。ゆえに姫を駿河へ返したことで今川との同盟が手切れとなっては武田にとって大いなる災いとなろう」
松姫は信玄と自分との間に置かれている絵図へ視線を移す。一体、叔父は自分が大広間へ到着するまで何に悩み、何を考えていたのかが垣間見えたような心地がした。
「して、どうであろうか。姫は甲斐へ留まること、承諾してはもらえぬか。上総介殿へは儂からも書状をもって説明するとしよう」
「一向構いませぬ。しかし、縁が切れた以上、妾はすでに今川家の人間。当主である兄の命に従わねばならぬこと、あらかじめご承知おきくださいませ」
「……そうであろうな。よかろう、武田と今川の両家が以後も手を携えて葉を唱えるためにも、ここが正念場といったところか。では、儂より駿府へ急ぎの書状をしたため、姫の今後の身の振り方について協議することとしようぞ」
松姫はそれ以上は何かを申し述べる必要はないと判断し、ただ静かに一礼した。
「では叔父上、これにて失礼いたしまする。屋敷におります娘が寂しがってもおりますゆえ」
「うむ。儂も近いうちに孫娘の顔も見たいゆえ、折を見て館へ連れてきてはもらえぬか」
「はい。それについては娘も喜びましょう。ではこれにて」
松姫は教養の高さをうかがわせる優雅な立ち居振る舞いで起立し、大広間を後にする。そのか細い後ろ姿を見送ると、信玄は腹をくくって駿府へ太郎の死と松姫を甲斐に今後も留め置きたい意向であることを併せて書状にしたためていく。
そうして信玄の長男・太郎義信が亡くなった十月も瞬く間に過ぎ去り、一層冬の到来を感じさせる霜月へ入った。
その月の十日のことである。躑躅ヶ崎館にて今川家との関係維持に四苦八苦する信玄のもとへ信濃国高遠城より吉報が届けられたのは――
「なんと!四郎の子が生まれたか!」
「はっ!去る十日に男子がお産まれになったとのこと!四郎様御付きの重臣どもからの報せゆえ、まず間違いございませぬ!まこと、おめでとうございまする!」
躑躅ヶ崎館にて信玄へ諏訪四郎勝頼のもとに男子が産まれたことを報告するのは齢二十一の奥近習衆・武藤喜兵衛であった。
「喜兵衛、そなた金丸平八郎や三郎兵衛尉とともに生誕祝いの使者として高遠城へ向かってくれぬか」
「はっ!承知いたしました!然らば、ただちに出立いたしまする!」
「うむ、頼むぞ。四郎へは嫡孫の誕生を儂が心より喜んでいたこと、伝えておくように」
「ははっ!お任せくださいませ!」
信玄より大切な嫡孫誕生を祝う使者の任を与えられ、勇躍する武藤喜兵衛は同僚の金丸平八郎とともに重臣・山県三郎兵衛尉昌景を訪ね、即日高遠城へと出立したのである。
一方で、嫡男と将来を嘱望していた長男・太郎義信が死去した翌月には、新たに嫡男と心に決めた諏訪四郎勝頼のもとに嫡男が誕生したという不思議な巡り合わせに、喜びたい気持ちと悲しい気持ちとが入り混じった複雑な思いで胸を満たされていた。
信玄より使者を命じられた山県三郎兵衛尉、武藤喜兵衛、金丸平八郎の三名が馬蹄の音高らかに信州高遠城の大手門をくぐると、信玄よりの使者が甲斐を発ったことを早馬にて知らされていた勝頼附属の重臣らがこれを出迎え、本丸館へ案内したのであった。
「御屋形様からの使者と聞いてはおったが、よもや御三方が参られようとは諏訪四郎勝頼、望外の喜びにござる」
城主であり親族衆として上座に座する諏訪四郎勝頼は使者三名の顔を流し見ると、自らの胸中を正直に吐露していく。その傍らでは産後の体を休めながら、正室・遠山夫人が産まれたばかりの嫡男・武王丸の頭を撫でて落ち着かせていた。
諏訪四郎勝頼と遠山夫人の間に生まれた武王丸。血筋の上では武田信玄の嫡孫であり、織田信長の姪孫にあたり、その存在こそが甲尾同盟をより強固なものとする。
「御屋形様は嫡孫である武王丸君ご誕生を心底より喜んでおられました」
「左様か、御屋形様は武王丸のことを嫡孫であると申しておられたか」
「いかにも。御屋形様は先月のこともあり、次なる嫡男は四郎殿と定めておられるご様子」
「そうであったか。されど、父の継室であらせられる三条の方は我が異母弟である五郎を当主に据えたいと思っておられる様子。未だ父上が某を嫡男に据えられるとは考えられぬ」
諏訪四郎勝頼の申すことはもっともであった。武田信玄継室・三条の方はすでに諏訪家の名跡を継承させた勝頼ではなく、信玄の後を継ぐ候補者として他家を継ぐ予定が立てられていなかった武田五郎を後継者にする構想を描き、動き出していた。
そのことは父・信玄はもちろん、高遠城に座する勝頼も言うまでもなく知っていることであったのだ。だが、あくまでも当主である信玄は後継者として武勇に優れる諏訪四郎勝頼を据えようと考えていることから、家中でも後継者について未だ意見が割れているのである。
それゆえに、使者に立てられた山県三郎兵衛尉、武藤喜兵衛、金丸平八郎の三名は信玄から伝えられた以上のことを告げることはできなかった。
「貴公らにも答え辛いことを聞いてしもうたこと、相済まぬ」
「いえ、滅相もございませぬ」
「して、御屋形様のご様子はいかがでござろう。意気消沈してはおられぬか」
「はっ、そのようなご様子は見受けられませぬ。されど、今川家との婚姻同盟解消ともなり、いかにして今川家との同盟を継続するか、これに苦心しておられるご様子」
山県三郎兵衛の明瞭な返答に諏訪四郎は顎に手を当て、考える素振りを見せ、数秒の間をおいてふと笑みをこぼした。
「いっそのこと、上杉と和睦し、今川との決戦に臨むという手もあろう」
「なっ、なんと!」
「三郎兵衛尉殿、落ち着かれよ。和睦とはならずとも、越中か越後を荒らし、上杉の目を北信濃から逸らさせることが叶えば、今川との開戦にも踏み切れよう。さすれば、盟友として心許ない今川に対して、まどろっこしいことをせずとも良くなるであろう」
諏訪四郎勝頼の常識に捉われない発想に、山県三郎兵衛と金丸平八郎は驚愕する一方で、残る武藤喜兵衛はその思いがけない勝頼の軍略に瞳を輝かせる。
「某如きの策を御屋形様が選ばれるとは思えぬが、御屋形様ならばより驚天動地の一手を考えられましょうし、このことを某に代わり、御屋形様にお伝えくださらぬか」
「然らば、この三郎兵衛尉が責任をもって御屋形様へ四郎殿のご意見を伝えさせていただきまする」
「三郎兵衛尉殿、何卒よろしくお願い申し上げる」
かくして諏訪四郎勝頼が何気なく口にした対上杉の軍略を胸中に秘し、山県三郎兵衛尉、武藤喜兵衛、金丸平八郎の三名は甲斐への帰国の途についた。
そうして帰国した日の夜、山県三郎兵衛尉は躑躅ヶ崎館に座する主君・信玄のもとを訪れ、諏訪四郎の秘策を伝えたのである。
「ほう、四郎がそのようなことを」
「はっ、このような荒唐無稽な策でご当家の方針を定めるわけには参らぬかと」
「うむ。されど、荒唐無稽であるというならば、儂が仔細を考えて荒唐無稽でなくしてしまおうものならば、そなたも同意してくれるであろう」
「それは無論のことにございます!御屋形様の命は絶対にございますれば!」
山県三郎兵衛尉の率直な意見に信玄は笑みを浮かべる。しかし、山県三郎兵衛尉も諏訪四郎の軍才を内心では認めていないことが痛感できる返答でもあり、信玄としても諏訪四郎こそ武田家の後継者に相応しいことを内外に示す必要に迫られることになる。
――四郎め、長尾の目を背けるため、越後か越中を荒らすか。ならば会津の蘆名、越中の一向一揆あたりを動かすがよかろうか。
諏訪四郎勝頼からの提言を受け、次なる一手を思いついた信玄は早速筆を取り、対上杉の戦略を練り始めた信玄であったが、懸念していた南より重大な申し入れがなされ、その対応に追われることになる――
この日、畿内より遠く離れた甲斐国にて凶事の一つが起こった。
「なに、太郎が亡くなったと申すか……!」
「はっ!」
腹心・馬場美濃守信春からの報告にそれまで書状をしたためていた信玄は筆を取り落とす。以前より病に伏していたこともあり、長男・太郎義信の死が訪れることは予期していたが、それがかくも急に訪れるとは想像だにしていなかったのである。
甲斐の山々はすでに紅に染まり、躑躅ヶ崎館の庭先にも落葉が舞う秋の静けさの中、武田太郎義信は幽閉先の東光寺にて病死。享年三十と、まだまだこれからという年でこの世を去ってしまったのである。
「美濃守」
「ははっ!」
「松姫を呼んで参れ」
「御屋形様、どちらの松姫様にございましょうか」
「太郎の夫人の方じゃ。儂の娘ではないぞ」
「はっ!然らばお連れいたしまする!」
武田家には二人の松姫がいた。一人は信玄の末娘であり、もう一人は亡き義信の正室であった。馬場美濃守は主命を帯びて信玄のいる大広間を離れると、義信正室・松姫を呼ぶべく馬を走らせていく。
そうして一刻ほどが経った頃、絵図を前に今後の方策を練っていた信玄のもとへ、馬場美濃守が当の松姫を伴って戻ってきたのである。
「御屋形様、お連れいたしました」
「大儀であった。しばし下がって休んでおれ。二人きりで話がしたい」
「ははっ!では、失礼仕りまする!」
馬場美濃守は信玄の側に仕える近習らにも目配せをすると、信玄と松姫を二人きりにするべく近習らともども退室していく。
そして、二人きりとなった躑躅ヶ崎館大広間にて信玄は姪でもある義信正室・松姫と向き合う。泣いた後の腫れぼったい眼をした松姫。齢二十七にして最愛の夫を亡くした姪にどう言葉をかければよいか、信玄自身も戸惑っている様子であった。
そんな不自然な空白を埋めるように口を開いたのは、信玄ではなく松姫の方であった。
「……此度のこと、夢のようでございます」
「うむ。そなたは愛する夫を死へ追いやる要因を生み出した儂のことを恨むか」
「いえ、お恨みいたしませぬ。そもそもいかなる理由であれ、実父へご謀反とは許容できるものではございませぬ」
きりっと目を細め、語気強く言い切る松姫の言葉に、信玄は臓腑をえぐられる思いであった。言葉通りに受け取ったならば義父のしたことを肯定するかのようであるが、実父を国外へ追放したうえで甲斐国主となった義父への意趣返しとも取れる発言であったからである。
「ふ、ふふふ、左様か。されば、その父を追い、甲斐を手に入れた儂から姫へ頼みたきことがある」
「日ノ本に武名を轟かせる叔父上ともあろう方が、このような小娘へ頼み事とは、一体何事でございましょうか」
松姫の再び意趣返しとも取れる発言に信玄は戦慄する。義信が死するまでは『義父上』と呼び慕ってくれていた松姫が、自分のことを『叔父上』と呼称したのである。それは彼女自身が義信の死でもって信玄は義父でないと認識していることを物語っていたからである。
「なに、姫にはこの後も甲斐へ留まってもらいたいという願いじゃ」
「今、なんと申されましたか……?」
「駿河へ帰国せず、太郎の菩提を弔いながら甲斐にて過ごしてはくれぬか、とかように申しておる」
齢四十七にもなり、嫁いできた頃とは段違いに凄みの増した叔父を前に、聡い松姫は思考を巡らせる。一体なぜ自分を甲斐へ留めようとするのか、を。
「承知いたしました。されど、そうまでして妾を留めおこうとなされるのは、世評を気にしてのことでございましょうか」
「さすがは姫よ、存じておったか」
「はい。すでに噂は広まっております。太郎様は病死などではなく、御父上に命じられての自害である、と。むしろ、病死であると知っている人よりも、自害したと思っている人の方が数の上では多いのではありませぬか」
「さすがは姫じゃ。そして、儂が危惧しておるのは、そのことをそなたの兄が聞けばどう動くであろうか、ということじゃ」
「兄のことです。武田は信用できぬと申して、妾の身柄を駿河へ返すよう申し入れてくる――」
そこまで行って松姫は目の前の叔父・信玄が何を案じて、甲斐へ留まるよう説得してくるのかが理解できたような心地がした。
「さては、叔父上は今川との同盟継続を望んでおられる……?」
「然り。儂はすでに越後の長尾弾正少弼との戦で手一杯じゃ。そして、これまで領土拡大に邁進出来て参ったのは今川、北条両家との三国同盟あってこそ。ゆえに姫を駿河へ返したことで今川との同盟が手切れとなっては武田にとって大いなる災いとなろう」
松姫は信玄と自分との間に置かれている絵図へ視線を移す。一体、叔父は自分が大広間へ到着するまで何に悩み、何を考えていたのかが垣間見えたような心地がした。
「して、どうであろうか。姫は甲斐へ留まること、承諾してはもらえぬか。上総介殿へは儂からも書状をもって説明するとしよう」
「一向構いませぬ。しかし、縁が切れた以上、妾はすでに今川家の人間。当主である兄の命に従わねばならぬこと、あらかじめご承知おきくださいませ」
「……そうであろうな。よかろう、武田と今川の両家が以後も手を携えて葉を唱えるためにも、ここが正念場といったところか。では、儂より駿府へ急ぎの書状をしたため、姫の今後の身の振り方について協議することとしようぞ」
松姫はそれ以上は何かを申し述べる必要はないと判断し、ただ静かに一礼した。
「では叔父上、これにて失礼いたしまする。屋敷におります娘が寂しがってもおりますゆえ」
「うむ。儂も近いうちに孫娘の顔も見たいゆえ、折を見て館へ連れてきてはもらえぬか」
「はい。それについては娘も喜びましょう。ではこれにて」
松姫は教養の高さをうかがわせる優雅な立ち居振る舞いで起立し、大広間を後にする。そのか細い後ろ姿を見送ると、信玄は腹をくくって駿府へ太郎の死と松姫を甲斐に今後も留め置きたい意向であることを併せて書状にしたためていく。
そうして信玄の長男・太郎義信が亡くなった十月も瞬く間に過ぎ去り、一層冬の到来を感じさせる霜月へ入った。
その月の十日のことである。躑躅ヶ崎館にて今川家との関係維持に四苦八苦する信玄のもとへ信濃国高遠城より吉報が届けられたのは――
「なんと!四郎の子が生まれたか!」
「はっ!去る十日に男子がお産まれになったとのこと!四郎様御付きの重臣どもからの報せゆえ、まず間違いございませぬ!まこと、おめでとうございまする!」
躑躅ヶ崎館にて信玄へ諏訪四郎勝頼のもとに男子が産まれたことを報告するのは齢二十一の奥近習衆・武藤喜兵衛であった。
「喜兵衛、そなた金丸平八郎や三郎兵衛尉とともに生誕祝いの使者として高遠城へ向かってくれぬか」
「はっ!承知いたしました!然らば、ただちに出立いたしまする!」
「うむ、頼むぞ。四郎へは嫡孫の誕生を儂が心より喜んでいたこと、伝えておくように」
「ははっ!お任せくださいませ!」
信玄より大切な嫡孫誕生を祝う使者の任を与えられ、勇躍する武藤喜兵衛は同僚の金丸平八郎とともに重臣・山県三郎兵衛尉昌景を訪ね、即日高遠城へと出立したのである。
一方で、嫡男と将来を嘱望していた長男・太郎義信が死去した翌月には、新たに嫡男と心に決めた諏訪四郎勝頼のもとに嫡男が誕生したという不思議な巡り合わせに、喜びたい気持ちと悲しい気持ちとが入り混じった複雑な思いで胸を満たされていた。
信玄より使者を命じられた山県三郎兵衛尉、武藤喜兵衛、金丸平八郎の三名が馬蹄の音高らかに信州高遠城の大手門をくぐると、信玄よりの使者が甲斐を発ったことを早馬にて知らされていた勝頼附属の重臣らがこれを出迎え、本丸館へ案内したのであった。
「御屋形様からの使者と聞いてはおったが、よもや御三方が参られようとは諏訪四郎勝頼、望外の喜びにござる」
城主であり親族衆として上座に座する諏訪四郎勝頼は使者三名の顔を流し見ると、自らの胸中を正直に吐露していく。その傍らでは産後の体を休めながら、正室・遠山夫人が産まれたばかりの嫡男・武王丸の頭を撫でて落ち着かせていた。
諏訪四郎勝頼と遠山夫人の間に生まれた武王丸。血筋の上では武田信玄の嫡孫であり、織田信長の姪孫にあたり、その存在こそが甲尾同盟をより強固なものとする。
「御屋形様は嫡孫である武王丸君ご誕生を心底より喜んでおられました」
「左様か、御屋形様は武王丸のことを嫡孫であると申しておられたか」
「いかにも。御屋形様は先月のこともあり、次なる嫡男は四郎殿と定めておられるご様子」
「そうであったか。されど、父の継室であらせられる三条の方は我が異母弟である五郎を当主に据えたいと思っておられる様子。未だ父上が某を嫡男に据えられるとは考えられぬ」
諏訪四郎勝頼の申すことはもっともであった。武田信玄継室・三条の方はすでに諏訪家の名跡を継承させた勝頼ではなく、信玄の後を継ぐ候補者として他家を継ぐ予定が立てられていなかった武田五郎を後継者にする構想を描き、動き出していた。
そのことは父・信玄はもちろん、高遠城に座する勝頼も言うまでもなく知っていることであったのだ。だが、あくまでも当主である信玄は後継者として武勇に優れる諏訪四郎勝頼を据えようと考えていることから、家中でも後継者について未だ意見が割れているのである。
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「いえ、滅相もございませぬ」
「して、御屋形様のご様子はいかがでござろう。意気消沈してはおられぬか」
「はっ、そのようなご様子は見受けられませぬ。されど、今川家との婚姻同盟解消ともなり、いかにして今川家との同盟を継続するか、これに苦心しておられるご様子」
山県三郎兵衛の明瞭な返答に諏訪四郎は顎に手を当て、考える素振りを見せ、数秒の間をおいてふと笑みをこぼした。
「いっそのこと、上杉と和睦し、今川との決戦に臨むという手もあろう」
「なっ、なんと!」
「三郎兵衛尉殿、落ち着かれよ。和睦とはならずとも、越中か越後を荒らし、上杉の目を北信濃から逸らさせることが叶えば、今川との開戦にも踏み切れよう。さすれば、盟友として心許ない今川に対して、まどろっこしいことをせずとも良くなるであろう」
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「某如きの策を御屋形様が選ばれるとは思えぬが、御屋形様ならばより驚天動地の一手を考えられましょうし、このことを某に代わり、御屋形様にお伝えくださらぬか」
「然らば、この三郎兵衛尉が責任をもって御屋形様へ四郎殿のご意見を伝えさせていただきまする」
「三郎兵衛尉殿、何卒よろしくお願い申し上げる」
かくして諏訪四郎勝頼が何気なく口にした対上杉の軍略を胸中に秘し、山県三郎兵衛尉、武藤喜兵衛、金丸平八郎の三名は甲斐への帰国の途についた。
そうして帰国した日の夜、山県三郎兵衛尉は躑躅ヶ崎館に座する主君・信玄のもとを訪れ、諏訪四郎の秘策を伝えたのである。
「ほう、四郎がそのようなことを」
「はっ、このような荒唐無稽な策でご当家の方針を定めるわけには参らぬかと」
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貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
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