不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第108話 両水野家の統合と岡崎を取り巻く情勢と

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 ――苅谷城主・水野藤九郎信近、討ち死。享年三十六。

 そんな衝撃的な一報は逃げ帰った高木主水助清秀によって緒川城にて戦支度を進める水野下野守信元のもとへ届けられた。

「なにっ、藤九郎が討たれたと申すか!」

「はっ、ははっ!鳴海城より引き揚げる途中であった岡部丹波守らの襲撃を受け、苅谷城外にて白兵戦となりましてございます!」

「よもや、これから進軍しようかというところを襲われようとは……」

 偶然とは恐ろしいものである。

 元康の尾張侵攻に、その隙をついての松平領への侵攻、鳴海城の開城といった要素が相互に影響し合い、元康は岡崎へ撤退し、水野藤九郎信近は鳴海城を開城した岡部丹波守元信に襲撃されて戦死するという事態を生んだのだ。

「今、苅谷城はどうなっておる!」

「はっ、嫡男である信政殿が敗残兵を収容し、家中の動揺を鎮めておる最中にございますれば」

「伝兵衛はいかがした!」

「はっ、自ら槍を取って奮戦なされましたが、岡部勢の騎馬にはねられ、頭を強く打たれ、昏倒したままにございまする!」

「これは不味いことになった。この苅谷水野の混乱が岡崎へ漏れ伝われば、苅谷が攻められることにもなりかねん!」

 苅谷と連携して松平領国へ侵攻し、屈服させる考えであった水野下野守は、弟・藤九郎の戦死を受けて、大きく方針を転換する必要に迫られていた。

「兄上」

「おお、織部か」

「緒川は某にひとまず某にお預けくだされ。兄上は藤十郎を連れて急ぎ苅谷へお入りくださいませ」

「うむ、わしもそうしようと思うておった。ならば、織部。ここはそなたに任す!」

 水野下野守はかつて清六郎と名乗っていた異母弟・水野織部忠守に緒川の留守を任せ、末弟にあたる藤十郎忠重を伴い、急ぎ苅谷へ出立。

 今川義元戦死を受けて三河衆が動揺している今この時を逃せば、水野家が松平家を併呑する機会は金輪際訪れない。そんな折に苅谷水野が軍事的に機能しないとあっては、他ならぬ水野下野守が困るのである。

 水野下野守が僅かな供廻りを連れて苅谷城へ入ると、驚いた様子で藤九郎の嫡男・信政が出迎えた。

「これは伯父上!突然のお越しとは――」

「お主の父が戦死したことを受けて、この苅谷領は緒川水野氏が接収し、両水野氏を一つに束ねる」

「そ、そのようなこと、突然仰られましても……!」

「良いか、信政。お主のような若造では苅谷水野はまとめられぬ。見てみよ、家臣どもの不安に満ちた目を」

「さ、されど、当家領を接収するとは理不尽至極!」

 突如として苅谷領を接収すると言い出した伯父に歯向かう信政であったが、幾分にも潜り抜けてきた修羅場が違いすぎた。

「黙らっしゃい!かように家中も統制できぬ若造に任せてなどおけぬ!これより緒川と苅谷の両家を統合し、この水野下野守が当主として差配する」

 取り付く島もない返答に、唇を噛む水野信政。しかし、それを見た水野下野守は思い出したように一言を付け加える。

「じゃが、生憎と跡取りがおらぬゆえ、信政。そなたをわしの養嗣子としたいが、それでも良いか」

「そ、某を養嗣子に!?」

「うむ。お主に足らぬのは才覚ではない。経験じゃ。わしの背を見て、国衆としての立ち回り方をよく見て学ぶがよい。さすれば、わしが死ぬ頃には一人前の当主となっておろう」

 これが信元がかけた情けともいうべき処置であった。しかし、苅谷水野家当主であった藤九郎の遺児を養嗣子に迎えることは、緒川に併合されることに不服な苅谷の者たちを宥めることに大いに役立つと判断してのことでもあった。

「殿!伝兵衛様が目を覚まされました!」

「おう、安堵いたしたぞ。危うく、一気に二人も弟を失うところであった」

「されど、半身不随の身の上にて、これ以上の奉公はできぬゆえ、致仕いたしたいと申されております」

「ちっ、分かった。信政を伴って、直に話をいたす。案内いたせ」

 異母弟・近信が目を覚ましたとの一報を受けた水野下野守。しかし、先の苅谷城外の戦いで負った傷がもとで奉公できぬと言い出した弟と直に話すべく、彼の運ばれた一室へと向かった。

「伝兵衛!伝兵衛はおるか!」

「これは兄上。ご無沙汰しております」

「おう、問題なく口はきけるようで安堵したわ」

 異母兄・下野守が安堵の息とともに吐き捨てた心配のひとことに、伝兵衛は拳をぎゅっと握りしめる。

「されど、右半身が動かぬのです。頭の傷も痛みまするゆえ、こうして話すのがやっとにございますれば」

「左様か。ならば、ここ苅谷にて余生を過ごすがよかろう。後のことはわしに任せよ。そうじゃ、藤九郎の遺児を養嗣子にしたうえで、緒川と苅谷の両家を一つに束ねることとした。これにて水野はさらに強くなるぞ」

「それは妙案。水野が一つとなり、織田様の後ろ盾があれば、やがては西三河をも統べることも叶いましょう」

「されど、そなたや藤九郎と共に成したかったことなのじゃ」

「申し訳ございませぬ。某はここまでのようにございます。されど、織部に藤十郎もおれば、織田へ奉公に出ている藤二郎、今川へ仕えておる弥平大夫と、頼りになる兄弟はまだまだおりまする」

「そうじゃな。分かった。そなたはゆっくり休め。そしてな、水野が更なる飛躍を遂げた暁には兄弟皆で集まって酒宴でも開こう」

「はっ、それまで何としても生き延びねばなりませぬな。そうですな、庭に咲く花でも愛でながら、水野家の発展をここよりお祈りしておりますぞ」

 水野下野守はそれ以上伝兵衛に言葉をかけることはなく、立ち去っていく。伝兵衛は無言で立ち去る兄の目元にきらりと光るものを見ながら、悲しそうに笑うのであった。

「伯父上。いえ、父上」

「いたがした、信政」

「先ほどのお話を聞き、某は心を入れ替え、身命を賭して働いて参る所存。それを表明するため、名を改めたく存じます」

「ほう、名を改めると申すか。して、いかなる名とするか」

「はい。現当主の父上より『元』の一字を、先代当主である祖父の妙茂より『茂』の一字を拝領し、諱を『元茂』と改めたく存じます!」

 水野信政改め、水野元茂。まこと良き名である、と水野下野守は内心ほくそ笑んでいたのだが、それをおくびにも出さず、「そうか」の一言で済ませてしまうのであった。

 かくして、水野下野守信元が緒川・苅谷の両水野家を統べる指導者として君臨することになった頃、元康は岡崎城にて政務に忙殺されていた。

「殿、苅谷でのこと、お聞きになられましたか」

「うむ、岡部丹波守が駿府へ帰還する途次に水野藤九郎を討ったというのであろう」

「はい。その混乱を鎮めるべく、水野下野守自らが苅谷に入り、慰撫に努めておる由」

「左様であったか。ならば、今しばらく水野攻めは後回しにいたそう。寺社への禁制発給やら他の松平家へ宛てた書状のやり取りで繁忙を極めておるゆえな」

 家老となった石川与七郎と事務的なやり取りを交えながら、元康は手元の筆を止めることなく、書状を書いてはどこそこへ届けるべしと指示を発し、また書状をしたためるという一日を数日間続けていた。

「そうじゃ、長沢松平家から何ぞ便りはなかったか」

「はっ、こちらに」

「おお、与七郎ではなく左衛門尉が持っておったか。どれ、見せてみよ」

 先月十九日の桶狭間での一戦において討ち死を遂げた長沢松平家当主・松平政忠。その跡を十五歳とまだ若い源七郎が継承したことを元康も耳にしていたが、書状の送り主は当主・源七郎でなく、隠居の身である松平政忠の老父・上野介親広であった。

「なるほど、長沢松平家の家政を取り仕切るのは当面の間、上野介殿がなされるとのことじゃ」

「やはり、そのように定まりましたか」

「うむ、妥当な判断であろう。何より、家中の混乱なく相続が済んだのは祝着である」

 新たに当主となった松平源七郎は生母が元康の叔母・於久であることから、従弟にあたる。長沢松平家の新当主が従弟というのは、元康にとっても近しいと思える間柄であった。

「そうじゃ、左衛門尉。本日三日付で中島の崇福寺へ発給する禁制が仕上がったぞ」

「ほう、内容は境内における山林竹木の伐採の禁止や殺生の禁止。加えて、諸税の免除を認めるものにございますな」

「いかにも。あくまでも太守様が崇福寺へお与えになっていた内容を追認したものじゃが、まずはわしの名義で禁制を与えることこそ肝要と考えてのこと」

「殿は良いところに目をお付けなさる。然らば、こちらはすぐにも崇福寺へ届けさせまする」

 酒井左衛門尉忠次が一礼して書状を片手に退出していくと、室内には石川与七郎が残るのみとなった。

「殿、早くも六月となりましたな」

「与七郎、御前の産み月であると、かように申したいのであろう」

「ははっ、さすがは殿。某が申し上げんとすることはお見通しにございましたか」

 そう、時はすでに永禄三年六月。駿府に残してきた元康の正室・駿河御前の産み月となっていた。

「尾張侵攻がそう早く片付かぬと分かっていたゆえ、お産には立ち会えぬと思ってはいたが、太守様がお討ち死あそばし、岡崎にて織田軍とにらみ合っていようとは思わなんだ」

「まことですな。しかし、未だ関口刑部少輔さまや朝比奈丹波守さまより色よい返事は得られておりませぬ」

「援軍が来ることを期待しておったが、来る気配など微塵もないではないか。他の三河国衆も対岸の火事としか思っておらぬのが、書状をやり取りしていて分かった」

「されど、義元公の仇討ちに動かれぬことについて、八名郡の西郷弾正左衛門正勝殿、野田城の菅沼新八郎定盈殿らは吉田城代の大原肥前守殿へ不服を申し立てておる様子。この状況を口惜しいと思っておる者がおらぬわけではございますまい」

 石川与七郎数正の言葉に静かに頷く元康であったが、牛久保の牧野民部丞成定や上之郷の鵜殿藤太郎長照からの返答は鈍かった。

「今しばらく、駿府へ働きかけて参るとするが、我らだけでは防ぎえぬ事、御屋形様にも伝わってくれれば良いのじゃが」

 今川の援軍を渇望する元康が崇福寺へ禁制を出した翌四日。駿府の松平屋敷では新たな命が誕生していたのである。

「瀬名、ようやりましたぞ」

「母上、手伝っていただき、ありがとうございました」

「娘のお産じゃ。指を咥えて見ておるだけなど、到底できませぬ」

 駿河御前の実家・関口家や隣の北条助五郎氏規の屋敷からも出産経験のある侍女らが手伝いに向かい、駿河御前の出産は行われた。

 新たに生まれたのは女子で、長寿の願いを込めて亀姫と名付けられた。元康と駿河御前にとっての長女。待望の娘の誕生であった。

「見てくだされ、まるで我が子のように頬ずりしておりますよ」

「ふふふ、父上にとっては目にいれても痛くない孫娘にございます。仕方なきことかと」

「このこと、三河の蔵人佐殿が聞いたならば、さぞかし喜ばれましょう」

「ええ」

 竹千代誕生の折には屋敷にいた夫・元康がいない。今も遠く三河で戦い続けているのだと思うと、駿河御前の胸は何か締め付けられるような思いであった。

「そうです、父上。御屋形様は産後の状態を見て、私と生まれたばかりの子は岡崎へ送り届けるとのことでしたが」

「うむ、御屋形様にお会いした時にはたった今瀬名が申しておったことを口にしておられた。駿府に留め置くのは竹千代だけでよい、産後の母子の体調を鑑みて、吉日を見計らって三河へ送り届けるようにいたす、と」

 竹千代だけを駿府へ残していく。なんとも辛いことではあったが、もう一月近く会えていない夫と会えるのだと思うと、どうしてか胸が高鳴ってしまう。

「そういえば、岡崎とはどのようなところなのでしょうか」

「この場におる者で岡崎へ行ったことのある者がおらぬゆえ、何とも言えぬが、駿府よりも四季を身近に感じられると婿殿が随分昔に申しておったのぅ」

「左様でしたか。岡崎、いかような場所なのか、早う自分の眼で確かめてみとうございます」

「ははは。ならば、そなたのこれよりの仕事は旅に耐えうるくらいに体力を戻すことであろうな」

「まさしく、その通りにございまする。瀬名は殿のおられる三河へ参れるよう、体の具合に気をつけまする」

 産前の時では考えられないほどに明るい笑顔を見せる娘を見て、関口夫妻は胸をなでおろした。

 そんな関口刑部少輔氏純の心中では、未だに婿からの要望である三河への援軍を叶えられずにいることについて申し訳ないという気持ちが強まっていたのであった。
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