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第4章 苦海の章
第109話 元康と氏真、それぞれが成すべきこと
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駿府において駿河御前が亀姫が誕生した二日後。元康のもとへも、長女・亀姫誕生の報せがもたらされていた。
「おお、左様であったか。瀬名が――」
「ははっ、母子ともに健康であらせられます。また、出産の折には関口家や隣の北条助五郎殿の屋敷からも人が派遣されましてございます」
「左様であったか。これは舅殿や義弟殿にもお礼をせねばならぬか。うむ、後日進物を届けることといたそうぞ」
駿府の屋敷に詰めている家臣からの報告を笑顔で聞いていた元康。だが、頭の中ではどう対応すべきか、思考を巡らせていた。
一番良いのは元康自らが駿府へ戻って舅の関口刑部少輔氏純や相婿の北条助五郎氏規へお礼を述べ、進物を贈ることである。
されど、西三河情勢を鑑みれば、到底元康が駿府へ帰ることなどできそうにない。そのため、お礼をしたためた書状を進物と合わせて送り届ける程度に留めざるを得なかった。
「また、関口刑部少輔様より言伝がございます」
「おお、舅殿からか。聞かせてくれい」
「はっ!『先日いただいた書状のこと、御屋形様へ取り次ぎて候。なれど、同盟先との雲行き甚だ芳しからざるゆえに当面の間、遠江よりの援軍は差し控えることとなりたる由』と仰せにございました」
まだまだ援軍が送られてくる予定はない。それがはっきりしたことに元康は安堵したものの、先行き不透明なままであることに変わりはなく、胸中に抱いた不安は払しょくされることはおろか、増大するのみであった。
「して、雲行きが芳しからざる同盟先とは北条か、武田か」
「武田であろうかと。今川の御家中では先の尾張侵攻時の武田家よりの援軍が何の役も果たさなかったことを受けて、徳栄軒信玄殿への不信感や反感が渦巻いておる様子」
「やはり武田であったか。されど、御屋形様ご生母は徳栄軒信玄殿の姉君。すなわち、お二方は叔父甥の間柄。双方ともに手切れは不本意であろうが」
「あくまでも駿府で流れる風説にすぎませぬゆえ」
「うむ、分かっておる。惑わされてはならぬか」
元康は使者に駿府の屋敷へ諸々の指示を伝えると、書きかけの書状に筆を走らせていく。
宛先は青野松平家当主・亀千代ではなく、その伯父で名代を務める松井左近忠次となっている。
四年前の日近合戦において先代当主・松平甚太郎忠茂が討ち死した後に今川義元から保証された名代としての立場、すなわち進退の保証とこれまで通り青野松平家を主導していく立場を元康も了承するという内容である。
「松井左近もしたたかな男よ。駿府の御屋形様でなく、宗家の当主であるわしに名代の立場の保証を働きかけて参るとは」
今年で四十にもなっている松井左近。年の功か、この場合誰に働きかけるのが良い効果を得られるかの勘所を心得ている。
松井左近としては領国内の統制に苦心している今川氏真よりも元康へ対応を依頼する方が迅速に対応してもらえる。
そして、対応した元康にとっても、松井左近へ直接指示することによって青野松平家を統制していく姿勢を青野松平家中へ示すことができる。
まさに両者の利害が一致したこともあって、今川義元戦死から一月も経過しない間に青野松平家と宗家の間の関係性がより良い方向へと進展したのである。
「亀千代はまだ五ツ。元服まで十年以上もある。亀千代元服の折には松井左近も齢五十となっておるゆえ、可愛い甥っ子の将来を見据えて苦心しているのであろう」
乱世に生きる者は皆必死なのである。自分が生き残ることはもちろん、自分にとって大事な所領や家族を守るためにはどう立ち回るべきか、常に頭の片隅に置いておかねばならないのだ。
「大給松平家を除けば、他の松平家との関係性に問題はない。むしろ、織田や水野の脅威が近いからこそ、一丸となって敵に当たろうとする姿勢が強いように思える」
そう、元康は未だに独立独歩の家風である大給松平家との関係性に思い悩んでいた。ともに今川家に従属しているため、敵対しているわけではないが、自発的に助け合える関係とはかけ離れていた。
そうして松井左近宛ての書状を書き終えて筆を置くと、夕暮れ時であった。そこへ、石川彦五郎が畏まった様子でやって来る。
「殿、先ほど駿府より早馬が到着。昨日、駿府にて御屋形様が今川義元公の御葬儀を執り行われたとの由」
「左様であったか。もし叶うのであれば、わしも参列したかったのじゃが」
「然らば、駿府へお戻りになられた折、墓参をなされてはいかがでございましょう」
「そうじゃな。せめて墓前にてお悔やみの言葉を申し上げたきところ。加えて、三河を織田と水野より死守したことも報告いたし、黄泉におられる太守様を安堵させねばならぬ」
そのために、今の自分ができること。それはいつ来るかも分からない援軍を頼みに守りに徹するのではなく、果敢に立ち向かってこそ成し得ることではないか。そう元康は考えていた。
「彦五郎、苅谷か緒川に動きはあったか」
「はっ、戦支度をしている気配はないと、草の者は申しておりまする。されど……」
「されど、いかがしたのじゃ」
「ははっ、我が父安芸守や鳥居伊賀守殿、大久保新八郎殿は水野のことゆえ、裏で秘かに戦支度を進めておるに違いない。油断はならぬ、とかように申しておりまして」
『いやはや、まったく疑り深いものですな』と、そのように言葉を付け加える彦五郎に、元康は首を横に振った。
「いや、今の水野はこれまでの水野に非ず。緒川と苅谷の両家が一つとなり、その長としてあるのは謀略を好む水野下野守じゃ。今の水野家は水野下野守の一声で三千を動かせる難敵となってしもうた。草の者を増やし、逐一岡崎へ報告させるようにせよ」
「はっ、しかと承りました。それと、殿。先ほど廊下で随念院さまとすれ違いました折に聞いた話にございまするが、駿河より殿のご正室が下向されるのであれば新たに屋敷を造営せねばならぬのではないか、と申されておりました」
「瀬名が入る屋敷か。そうじゃな、築山あたりが良かろう」
「城外に屋敷をこしらえるのですな。承知いたしました、築山へ屋敷を造営する支度にかかりまする」
「お、おお。頼むぞ、彦五郎」
元康の周囲では戦の事、家族の事、領国内のことと実に様々な情報が錯綜している頃、まもなく今川義元戦死から一ヵ月が経過しようとしている駿府館では、当主・今川治部太輔氏真が政務におわれる日々を送っていた。
「あなた様、少しはお休みになられませぬと」
「おお、春姫か。すまぬが、今は休んでおられぬ。やらねばならぬことが山積しておるのだ。それに、三河では蔵人佐が織田や水野を相手に単騎奮戦しておる。一刻も早う予が出陣せねば、仇討ちもままならぬのだ」
自らを追い詰めるように政務に打ち込む氏真に、正室である春姫は心配を帯びた眼を向ける。
春姫の実家は相模国小田原の北条家。当主である北条左京大夫氏康こそ、春姫の実父であった。
時が経つのは早いもので、嫁いできた頃は幼女であった春姫も十四歳となり、少しずつ体つきも大人の女性らしくなってきていた。されど、二十三歳となった夫・氏真を支えるにはまだまだ未熟であることを、誰よりも当人が理解していた。
「春姫よ、舅殿から何ぞ便りでもあったか」
「はい。父は房総にて里見を追い詰めておられるそうで、里見を滅ぼした後、今後の事を改めて話し合いたいと」
「そうか、それならば安堵いたした。相模の北条家とは今後とも良い付き合いができそうじゃ。残すは甲斐の武田家か」
家中に渦巻く武田家への不信感。これは氏真も春姫も感知するところであり、その真偽について早急に確かめたいと思いながらも、なかなか確かめられずにいる事柄であった。
そこへ、岡部元信より面会の申し入れがあったのである。氏真は駿府への途次に父をたばかった水野藤九郎信近を討ち取った武士と面会すべく、政務に一区切りつけたうえで、春姫を伴って大広間へと移動したのであった。
「これは御屋形様、御前さまにおかれましては、ご機嫌麗しく」
「よい、面を上げよ」
「ははっ!」
以前にも増して精悍な顔つきとなった当主・氏真と対面した豪傑・岡部元信は懐から一通の書状を取り出して見せる。
「こちら、去る十三日付の徳栄軒信玄殿よりの書状にございまする」
「なに、甲斐の信玄殿よりの書状とな」
「はっ。御屋形様に対し、武田家を警戒すべきと進言した者らがおることを耳にしたらしく、某に讒言を御屋形様がお信じにならぬよう取り計らってほしい、と」
「持参したということは、予にも読ませるつもりであろう。見せてみよ」
恐縮した様子の岡部元信より受け取った書状を読む限り、氏真や今川家に対する敵意など微塵も感じられない。
まずは連絡が途絶えてしまったことは信玄にとっても不本意であったこと。さらには、桶狭間合戦のことを『不慮之仕合』、すなわち不幸な出来事であると表現している。
「ふふふ、そなたの武功も高く評価されておるようじゃな」
「はっ、ははっ。某には過ぎたる評価にございますれば」
大高城や沓掛城が落城した中で岡部元信が鳴海城に踏みとどまって、主君・氏真より許しを得てから撤退したことを武功の至り、さらには比類なきものとして絶賛している。
「ふむ、そうか。そなたは一時武田家へ身を寄せていたゆえ、こうして書状が送られてきたわけか。それに、そなたの諱の『信』は信玄殿よりの偏諱であったな」
「はい。過分にも某のような無骨者の身を案じていただけたようで。また、書状の末尾にもありますように、徳栄軒信玄殿としても御屋形様とはとりわけ昵懇にしたいと考えておるとのこと」
「そうであったか。予には信玄殿がそなたに書状に送ったわけがこれにて理解できたぞ。今川譜代の家格を持ち、それに恥じぬ戦功を先の尾張侵攻で挙げ、なおかつ信玄殿が当家で頼りにできる人物がそなたであったからであろう」
「おそらくは、某であれば武田家に対する悪しき風説を抑え込める。そう考えての事かと」
初めは風説に惑わされて武田信玄に対する疑念を抱いていた氏真であったが、こうして岡部元信と話し、彼が書いた書状を見せられると、所詮は風説にすぎなかったのだと思い知らされていた。
そんな折のことである。甲斐より派遣された武田信玄の姉を正室に迎えている武田一門・穴山幡龍斎が駿河に入ったとの報せが氏真へ飛び込んできたのは。
穴山幡龍斎との対面は日を改めたうえ、行われる運びとなり、迎えたその日。氏真のほかに、関口刑部少輔や三浦備後守正俊、岡部元信といった重臣らが顔をそろえていた。
今、氏真の眼は出家して頭を丸めている武田一門である穴山幡龍斎を捉えている。主君・信玄よりも年を重ねていることもあり、今川家重臣らに囲まれている状況下にあっても終始落ち着き払っている様子なのだ。
そんな人生経験豊富な武田一門・穴山幡龍斎は今川家当主である氏真へ一礼すると、ゆっくりと口を開いた。
「今川治部太輔氏真様、お初に御意を得ます。穴山幡龍斎、主命を帯びて参上いたしました」
「うむ。穴山殿、遠路はるばるよくぞお越しくださった。妹の輿入れの折には大変世話になったと聞く。改めて、御礼申し上げる」
「頭をお上げくださいませ」
深々とお辞儀をする氏真に、初めて慌てた様子を見せる穴山幡龍斎。そんな彼の口から伝えられたこと。
それは、主君・徳栄軒信玄からの伝言と今川家のことは疎かにせず、今度とも同盟関係を維持していきたい考えであることを述べたのである。
事前に岡部元信から武田信玄に敵意などないことを聞かされていた氏真は、穴山幡龍斎からの言伝に対し、直ちに同意する旨を表明。
「穴山幡龍斎殿。立ち戻って信玄殿へお伝えあれ。氏真に甲駿同盟を破棄する意思など微塵もないこと、叔父甥の間柄でもあることゆえ今後とも親しく交流して参りたい所存である、とな」
「その御言葉、我が主が聞いたならば涙して喜びましょう。また、主は尾張へ仇討ちに向かわれる折には必ずや力添えいたす、と申しておりました。ぜひとも、先代義元公の仇討ちを成される折には、当家にもお声がけくださいませ」
「承知した。然らば、武田家へ援軍を求める際には必ず援軍を要請すると、お伝えくだされ」
「ははっ、しかと言伝を承りましてございます。では、某はこれにて失礼つかまつります」
かくして武田家と今川家の甲駿同盟は継続されるとの方向で定まった。重要な外交課題を処理した氏真は内政へと神経を集中させていくのであった――
「おお、左様であったか。瀬名が――」
「ははっ、母子ともに健康であらせられます。また、出産の折には関口家や隣の北条助五郎殿の屋敷からも人が派遣されましてございます」
「左様であったか。これは舅殿や義弟殿にもお礼をせねばならぬか。うむ、後日進物を届けることといたそうぞ」
駿府の屋敷に詰めている家臣からの報告を笑顔で聞いていた元康。だが、頭の中ではどう対応すべきか、思考を巡らせていた。
一番良いのは元康自らが駿府へ戻って舅の関口刑部少輔氏純や相婿の北条助五郎氏規へお礼を述べ、進物を贈ることである。
されど、西三河情勢を鑑みれば、到底元康が駿府へ帰ることなどできそうにない。そのため、お礼をしたためた書状を進物と合わせて送り届ける程度に留めざるを得なかった。
「また、関口刑部少輔様より言伝がございます」
「おお、舅殿からか。聞かせてくれい」
「はっ!『先日いただいた書状のこと、御屋形様へ取り次ぎて候。なれど、同盟先との雲行き甚だ芳しからざるゆえに当面の間、遠江よりの援軍は差し控えることとなりたる由』と仰せにございました」
まだまだ援軍が送られてくる予定はない。それがはっきりしたことに元康は安堵したものの、先行き不透明なままであることに変わりはなく、胸中に抱いた不安は払しょくされることはおろか、増大するのみであった。
「して、雲行きが芳しからざる同盟先とは北条か、武田か」
「武田であろうかと。今川の御家中では先の尾張侵攻時の武田家よりの援軍が何の役も果たさなかったことを受けて、徳栄軒信玄殿への不信感や反感が渦巻いておる様子」
「やはり武田であったか。されど、御屋形様ご生母は徳栄軒信玄殿の姉君。すなわち、お二方は叔父甥の間柄。双方ともに手切れは不本意であろうが」
「あくまでも駿府で流れる風説にすぎませぬゆえ」
「うむ、分かっておる。惑わされてはならぬか」
元康は使者に駿府の屋敷へ諸々の指示を伝えると、書きかけの書状に筆を走らせていく。
宛先は青野松平家当主・亀千代ではなく、その伯父で名代を務める松井左近忠次となっている。
四年前の日近合戦において先代当主・松平甚太郎忠茂が討ち死した後に今川義元から保証された名代としての立場、すなわち進退の保証とこれまで通り青野松平家を主導していく立場を元康も了承するという内容である。
「松井左近もしたたかな男よ。駿府の御屋形様でなく、宗家の当主であるわしに名代の立場の保証を働きかけて参るとは」
今年で四十にもなっている松井左近。年の功か、この場合誰に働きかけるのが良い効果を得られるかの勘所を心得ている。
松井左近としては領国内の統制に苦心している今川氏真よりも元康へ対応を依頼する方が迅速に対応してもらえる。
そして、対応した元康にとっても、松井左近へ直接指示することによって青野松平家を統制していく姿勢を青野松平家中へ示すことができる。
まさに両者の利害が一致したこともあって、今川義元戦死から一月も経過しない間に青野松平家と宗家の間の関係性がより良い方向へと進展したのである。
「亀千代はまだ五ツ。元服まで十年以上もある。亀千代元服の折には松井左近も齢五十となっておるゆえ、可愛い甥っ子の将来を見据えて苦心しているのであろう」
乱世に生きる者は皆必死なのである。自分が生き残ることはもちろん、自分にとって大事な所領や家族を守るためにはどう立ち回るべきか、常に頭の片隅に置いておかねばならないのだ。
「大給松平家を除けば、他の松平家との関係性に問題はない。むしろ、織田や水野の脅威が近いからこそ、一丸となって敵に当たろうとする姿勢が強いように思える」
そう、元康は未だに独立独歩の家風である大給松平家との関係性に思い悩んでいた。ともに今川家に従属しているため、敵対しているわけではないが、自発的に助け合える関係とはかけ離れていた。
そうして松井左近宛ての書状を書き終えて筆を置くと、夕暮れ時であった。そこへ、石川彦五郎が畏まった様子でやって来る。
「殿、先ほど駿府より早馬が到着。昨日、駿府にて御屋形様が今川義元公の御葬儀を執り行われたとの由」
「左様であったか。もし叶うのであれば、わしも参列したかったのじゃが」
「然らば、駿府へお戻りになられた折、墓参をなされてはいかがでございましょう」
「そうじゃな。せめて墓前にてお悔やみの言葉を申し上げたきところ。加えて、三河を織田と水野より死守したことも報告いたし、黄泉におられる太守様を安堵させねばならぬ」
そのために、今の自分ができること。それはいつ来るかも分からない援軍を頼みに守りに徹するのではなく、果敢に立ち向かってこそ成し得ることではないか。そう元康は考えていた。
「彦五郎、苅谷か緒川に動きはあったか」
「はっ、戦支度をしている気配はないと、草の者は申しておりまする。されど……」
「されど、いかがしたのじゃ」
「ははっ、我が父安芸守や鳥居伊賀守殿、大久保新八郎殿は水野のことゆえ、裏で秘かに戦支度を進めておるに違いない。油断はならぬ、とかように申しておりまして」
『いやはや、まったく疑り深いものですな』と、そのように言葉を付け加える彦五郎に、元康は首を横に振った。
「いや、今の水野はこれまでの水野に非ず。緒川と苅谷の両家が一つとなり、その長としてあるのは謀略を好む水野下野守じゃ。今の水野家は水野下野守の一声で三千を動かせる難敵となってしもうた。草の者を増やし、逐一岡崎へ報告させるようにせよ」
「はっ、しかと承りました。それと、殿。先ほど廊下で随念院さまとすれ違いました折に聞いた話にございまするが、駿河より殿のご正室が下向されるのであれば新たに屋敷を造営せねばならぬのではないか、と申されておりました」
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「城外に屋敷をこしらえるのですな。承知いたしました、築山へ屋敷を造営する支度にかかりまする」
「お、おお。頼むぞ、彦五郎」
元康の周囲では戦の事、家族の事、領国内のことと実に様々な情報が錯綜している頃、まもなく今川義元戦死から一ヵ月が経過しようとしている駿府館では、当主・今川治部太輔氏真が政務におわれる日々を送っていた。
「あなた様、少しはお休みになられませぬと」
「おお、春姫か。すまぬが、今は休んでおられぬ。やらねばならぬことが山積しておるのだ。それに、三河では蔵人佐が織田や水野を相手に単騎奮戦しておる。一刻も早う予が出陣せねば、仇討ちもままならぬのだ」
自らを追い詰めるように政務に打ち込む氏真に、正室である春姫は心配を帯びた眼を向ける。
春姫の実家は相模国小田原の北条家。当主である北条左京大夫氏康こそ、春姫の実父であった。
時が経つのは早いもので、嫁いできた頃は幼女であった春姫も十四歳となり、少しずつ体つきも大人の女性らしくなってきていた。されど、二十三歳となった夫・氏真を支えるにはまだまだ未熟であることを、誰よりも当人が理解していた。
「春姫よ、舅殿から何ぞ便りでもあったか」
「はい。父は房総にて里見を追い詰めておられるそうで、里見を滅ぼした後、今後の事を改めて話し合いたいと」
「そうか、それならば安堵いたした。相模の北条家とは今後とも良い付き合いができそうじゃ。残すは甲斐の武田家か」
家中に渦巻く武田家への不信感。これは氏真も春姫も感知するところであり、その真偽について早急に確かめたいと思いながらも、なかなか確かめられずにいる事柄であった。
そこへ、岡部元信より面会の申し入れがあったのである。氏真は駿府への途次に父をたばかった水野藤九郎信近を討ち取った武士と面会すべく、政務に一区切りつけたうえで、春姫を伴って大広間へと移動したのであった。
「これは御屋形様、御前さまにおかれましては、ご機嫌麗しく」
「よい、面を上げよ」
「ははっ!」
以前にも増して精悍な顔つきとなった当主・氏真と対面した豪傑・岡部元信は懐から一通の書状を取り出して見せる。
「こちら、去る十三日付の徳栄軒信玄殿よりの書状にございまする」
「なに、甲斐の信玄殿よりの書状とな」
「はっ。御屋形様に対し、武田家を警戒すべきと進言した者らがおることを耳にしたらしく、某に讒言を御屋形様がお信じにならぬよう取り計らってほしい、と」
「持参したということは、予にも読ませるつもりであろう。見せてみよ」
恐縮した様子の岡部元信より受け取った書状を読む限り、氏真や今川家に対する敵意など微塵も感じられない。
まずは連絡が途絶えてしまったことは信玄にとっても不本意であったこと。さらには、桶狭間合戦のことを『不慮之仕合』、すなわち不幸な出来事であると表現している。
「ふふふ、そなたの武功も高く評価されておるようじゃな」
「はっ、ははっ。某には過ぎたる評価にございますれば」
大高城や沓掛城が落城した中で岡部元信が鳴海城に踏みとどまって、主君・氏真より許しを得てから撤退したことを武功の至り、さらには比類なきものとして絶賛している。
「ふむ、そうか。そなたは一時武田家へ身を寄せていたゆえ、こうして書状が送られてきたわけか。それに、そなたの諱の『信』は信玄殿よりの偏諱であったな」
「はい。過分にも某のような無骨者の身を案じていただけたようで。また、書状の末尾にもありますように、徳栄軒信玄殿としても御屋形様とはとりわけ昵懇にしたいと考えておるとのこと」
「そうであったか。予には信玄殿がそなたに書状に送ったわけがこれにて理解できたぞ。今川譜代の家格を持ち、それに恥じぬ戦功を先の尾張侵攻で挙げ、なおかつ信玄殿が当家で頼りにできる人物がそなたであったからであろう」
「おそらくは、某であれば武田家に対する悪しき風説を抑え込める。そう考えての事かと」
初めは風説に惑わされて武田信玄に対する疑念を抱いていた氏真であったが、こうして岡部元信と話し、彼が書いた書状を見せられると、所詮は風説にすぎなかったのだと思い知らされていた。
そんな折のことである。甲斐より派遣された武田信玄の姉を正室に迎えている武田一門・穴山幡龍斎が駿河に入ったとの報せが氏真へ飛び込んできたのは。
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今、氏真の眼は出家して頭を丸めている武田一門である穴山幡龍斎を捉えている。主君・信玄よりも年を重ねていることもあり、今川家重臣らに囲まれている状況下にあっても終始落ち着き払っている様子なのだ。
そんな人生経験豊富な武田一門・穴山幡龍斎は今川家当主である氏真へ一礼すると、ゆっくりと口を開いた。
「今川治部太輔氏真様、お初に御意を得ます。穴山幡龍斎、主命を帯びて参上いたしました」
「うむ。穴山殿、遠路はるばるよくぞお越しくださった。妹の輿入れの折には大変世話になったと聞く。改めて、御礼申し上げる」
「頭をお上げくださいませ」
深々とお辞儀をする氏真に、初めて慌てた様子を見せる穴山幡龍斎。そんな彼の口から伝えられたこと。
それは、主君・徳栄軒信玄からの伝言と今川家のことは疎かにせず、今度とも同盟関係を維持していきたい考えであることを述べたのである。
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「その御言葉、我が主が聞いたならば涙して喜びましょう。また、主は尾張へ仇討ちに向かわれる折には必ずや力添えいたす、と申しておりました。ぜひとも、先代義元公の仇討ちを成される折には、当家にもお声がけくださいませ」
「承知した。然らば、武田家へ援軍を求める際には必ず援軍を要請すると、お伝えくだされ」
「ははっ、しかと言伝を承りましてございます。では、某はこれにて失礼つかまつります」
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どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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【アラウコの叫び 】第2巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
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HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
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