不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第110話 運用の妙は一心に存す

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 桶狭間合戦より一月半が経過し、季節も夏から秋へと移り変わろうとしている頃。

 織田上総介信長の命を受け、水野藤二郎忠分が三河国苅谷城へ入った。無論、用件は 当主・水野下野守信元に対するものである。

「おお、藤二郎か。織田殿より何ぞ指示があったようじゃな」

 対面早々明るい声音で弟を迎えた水野下野守であったが、水野藤二郎が顔面蒼白なままであることから、良い話ではないことだけは察しがついていた。

「藤二郎、包み隠さず申してみよ。元茂や藤十郎がおるゆえ話しにくいとあらば、席を外させるが……」

「いえ、人払いは無用にございまする。兄者、信長殿は大層お怒りにございました」

「お、お怒りじゃと!?」

「は、はい。どうやら先般の加茂郡西部で三宅高貞が惨敗し、苅谷城外で藤九郎兄者が討たれたこと、加えて沓掛城まで放火されたこと。これらの敗報が重なり、激怒した信長殿は兄者へただちに松平蔵人佐元康を討て、と命じられたのです。こちらがそれを伝える書状にて」

 ようやく苅谷水野氏の併合が叶い、家中が落ち着きを見せ始めたと思えば、信長からの元康を討てとの厳命。信元としても、頭の痛い問題であった。

「やらなければ、信長殿の逆鱗に触れる。さりとて、ようやく混乱の静まった当家が松平に一戦を挑まなければならぬとは――」

 舌打ちしながら後頭部をかきむしる水野下野守。だが、何をせねばならぬのか、それが分からない水野下野守ではなかった。

「よし、藤二郎。そなたはただちに清洲へ戻り、ただちに松平を撃滅すべく挙兵すると儂からの返答を伝えてくれい」

「はっ、承知いたしました!」

 水野藤二郎が清洲へ引き返していくと、水野下野守は異母弟・藤十郎と養嗣子・元茂に重臣一同を招集するよう命じ、ただちに挙兵の支度にかかった。

 緊急で集められた者たちは高木主水助清秀、浅井六之助忠久の両名。そうした五名ばかりで緊急の軍評定を開いた水野下野守は、さっそく己が考えるところを述べていく。

「清洲の織田殿より松平蔵人佐を討伐せよとの命を受けた。これにより、当家は松平領へと出兵することといたす」

「して、殿は何処に兵を向かわせるご所存か」

「おお、まずは矢矧川以西の桜井へ兵を出し、桜井城の松平監物を下す。その戦には、高木主水助。そなたも連れてゆく」

「ははっ!委細承知!」

 水野下野守より名指しで戦へ連れていくと言われた高木主水助は気合十分であった。先の苅谷城での岡部元信との戦いでは苦い想いをしたのだから、此度はその汚名を返上する絶好の機会でもあったのだ。

「この苅谷城の守備は藤十郎と浅井六之助、そなたらに任せる」

「何っ、某は戦場へ連れていかぬと仰せか!」

「たわけ、そなたまで連れて行っては誰が苅谷城を守るというのだ。次に戦があれば連れて参るゆえ、それまで大人しく城を守備しておれ!」

 不服な態度は変わらずであったが、兄・下野守よりきつく申し付けられては、さすがの藤十郎も従うほかなかった。

「浅井六之助、そなたも守備に残すこととなるが、しかと藤十郎を補佐し、城を守り抜くのだ」

「しょ、承知仕りました!」

 浅井六之助としては、これから戦うことになる元康がいかなる人物であるのか、大高城から逃がす手引きをした折に嫌というほど接した。それゆえに、これから始まる合戦に対する緊張感は人一倍であったのだ。

「父上!某は留守居にございまするか!」

「うむ。わしの後を継ぐそなたを前線においてはおけぬゆえ、緒川城へ入ってもらう。緒川の城には頼りになる我が異母弟、水野織部がおる。そなたは織部叔父の指示に従って城を守り抜くのじゃ。また、久松佐渡守をはじめ、知多郡の国衆らにも戦支度をするよう、申し伝えておくように」

「しょ、承知いたしました!然らば、この水野元茂、緒川よりしかと父上を支援させていただきまする!」

「おう、頼むぞ」

 こうして一通り指示を出し終えると、水野下野守は迅速に出兵。緒川城へ養嗣子の元茂を向かわせたうえで、苅谷城に水野藤十郎と浅井六之助を残し、赤松の地を経由して桜井へ出兵したのである。

「良いか、主水助。まずは桜井城を一挙に制圧。その後に福釜や藤井を攻める流れじゃ。抜かるでないぞ」

「はっ、松平蔵人佐の援軍が来るより先に攻め落としてご覧にいれまするぞ!さぁ者共!城攻めの始まりじゃ!かかれぇ!」

 水野下野守より激励された高木主水助は槍を城方向へ突き出し、城攻めの号令を下す。水野沢瀉の旗を掲げた軍勢は山桜の旗が翻る桜井城への攻撃を開始したのである。

 そんな水野の軍勢が向かってくる様子を櫓から確認した桜井松平の兵士によって、このことは城主・松平監物へと伝えられた。

「なにっ!水野が攻め込んできたか!」

「ははっ!その数、およそ千五百!おそらくは、苅谷近辺の兵力のみで攻め込んできたものと見受けられまする!」

「左様か。じゃが、水野下野守がこと、緒川の方からも援軍は呼んでおろうで、近いうちに三千近くにまで敵勢は増えると算段しておくべきであろう。よし、そなたはただちに岡崎城の蔵人佐殿へ援軍を要請して参れ!」

「ははっ!」

 ただちに岡崎への使者を立てた後、松平監物は城兵らに大手門へ集まるよう命を出す。突然の敵襲に狼狽えることなく、冷静に戦況を判断していく度胸は間違いなく経験に裏打ちされたものである。

「父上!岡崎から援軍を呼んでは時もかかりましょう!まずは福釜や藤井へ援軍要請の使者を送りましょうぞ!」

 そう言って、父・監物へ己の意見を述べたのは、齢十七の嫡男・与一郎忠正であった。だが、そんな息子からの献策に父は否を突きつける。

「たわけ!福釜や藤井から援軍を呼んでいかがする!両家が援軍をこちらへ寄こせば、その分福釜と藤井は手薄となる。そこを未だに姿を見せぬ知多郡の軍勢が急襲したとすれば、容易く二つの城が水野の手中に落ちることとなるではないか!」

 父の攻め立てるような口調に、松平与一郎は泣きだしそうになりながらも、その言葉の意味や重みを受け止めることに努めた。

 たしかに、改めて考えてみると、父・監物が申していることはもっともなこと。援軍を桜井城へ派遣させることが狙いであったら、瞬く間に福釜・藤井の両城が攻め落とされ、矢矧川西岸にてこの城は孤立することとなる。

 そうして孤立無援ともなれば、城兵の士気はだだ下がりとなり、降伏開城へ追い込まれることにもなってしまう。それを危惧しているからこそ、松平監物は近隣の福釜と藤井に援軍は要請しなかったのである。

「父上、この与一郎は考え足らずにございました。分かればよい。さて、支度は整った。そなたはこの城に残れ」

「父上はいかがなされるので?」

「城外へ打って出る。城しか見えておらぬ奴らに一太刀も浴びせず城に籠っておっては敵からとんだ腰抜けじゃと笑われようが」

 与一郎は父を信じ、籠城するうえで気をつけるべき箇所を父より伝授されると、父を野外へと送り出した。

「よし、者共!城しか見えておらぬ水野の阿呆共に一太刀浴びせに参るぞ!さぁ、桜井松平の強者たちよ!我が背を見失うでないぞ!全軍突撃じゃあ!」

 松平監物率いる数百の桜井松平勢は城めがけて突っ込んでいく水野勢を双眸に捉えると、その横っ腹めがけて勢いよく突っ込んだ。

 今から城攻めだと意気込んでいた水野勢も、よもや側面から城兵が打って出てくるなど想定もしておらず、たちまち隊列は突き崩されていく。

 先陣が桜井松平勢の突撃によって支離滅裂となっている状況を後方で見ていた水野下野守は舌打ちしながら、一時撤退の命令を下す。あくまでも態勢を立て直す意味での後退命令であったが、城方の兵はまるで勝利したかのような歓声を上げる。

 水野勢の神経を逆なでするような歓声に、水野下野守もまた、思わず舌打ちしてしまうのであった。

 そんな水野下野守が矢矧川の方を遠望していると、面妖な旗を掲げた軍勢が桜井城から見れば北東に位置する川の東岸に集結し、渡河の用意をしているのが視認できたのである。

 ただちに物見を派遣して、何者の軍勢で、数はどの程度かを確かめさせると、水野下野守を驚愕させる一方が入ったのである。

「い、い、い、一大事にございまする!」

「して、どうであった!」

「丸に三つ葉葵の旗や五葉雪笹の旗を確認!その数、およそ千!」

「ちっ、蔵人佐がもう来よったか。それに、能見松平も参陣しているとなれば、少々厄介じゃな。それに、あの位置から渡河してくるとすれば、西野へ回り込んで、我らを背後より襲う策と見える」

 舌打ちしながら彼我の戦力差を分析する水野下野守。彼の頭の中では戦闘継続か撤退かの判断はすでに決まりきっていた。しかし、その号令を下す前に、物見をしてきた兵が慌てた様子で口を開く。

「加えて、見慣れぬ漢字八文字が記された旗もあり、新手が加わっておるのやもしれませぬ!」

「漢字八文字の旗?はて、聞いたこともないが、どのような文字が書かれておった」

「そ、それが難解な文字にございまして」

「読めなかったか」

 水野下野守の言葉に黙ってうなずく物見。このような非常時でなければ、旗に何と記されているかを改めて確認させに向かうのだが、今は呑気に旗に記された八文字の漢字など読解している場合ではないのだ。

「者ども!まもなく敵の援軍が来る!挟撃される前に苅谷へ退く!皆の者、急ぎ陣払いせよ!」

 援軍が到着すれば水野勢と松平勢の兵数はほぼ互角。野戦に持ち込めば、水野下野守としても元康に負ける気などしなかったが、その後に城を奪取する兵力を温存することは難しいことが予想された。

 すなわち、兵を無駄死にさせないためにも、ここは速やかに撤退することこそが肝要であったのだ。

 そうして岡崎より急行してきた元康率いる援軍が桜井城へ進出した頃には、すでに水野勢など一兵たりとも見当たらなかったのである。

「蔵人佐殿、此度は援軍まことかたじけない!能見の二郎右衛門殿にも御礼を申し上げたいのですが、二郎右衛門殿は何処におられまするか」

「ははは、監物殿の眼をも欺いたか」

「さては、能見松平の援軍は見せかけにございまするか!」

「いかにも。ちょうど水野攻めのことで二郎右衛門殿と岡崎にて打ち合わせておったところゆえ、その場に二郎右衛門殿が持参していた能見松平家の五葉雪笹の旗をお借りして能見松平勢が参陣しているように見せかけたのです」

「ははは、蔵人佐殿はまこと切れ者にございまするな」

「いやいや、水野勢に攻められて城外へ兵を押し出して敵を攪乱させた監物殿の手腕には遠く及びませぬ」

 心底より称賛の言葉が漏れ出た松平監物へ、労いもかねて世辞を述べる元康。そんな両名はその後も軽く挨拶をしながら、今後とも水野の侵攻には協力して対処することを誓い合い、その日は別れた。

「大久保藤五郎、水野には先手を打たれてしもうた」

 岡崎へ帰城する途中、元康は自らの乗馬の傍らで槍を担いでいる大久保忠茂の末子・藤五郎忠行へと話しかける。大久保藤五郎も突然名を呼ばれたのには驚いた様子であったが、相槌を打ちながら上手く話に乗っかっていく。

「殿のことです、苅谷へ引き揚げた水野下野守を野放しになされるつもりなど毛頭ございますまい」

「ほう、藤五郎がわしの考えを読んだか。そうじゃ、もう一度伯父と一戦交えに参る。吉田城代の大原肥前守殿より書状が届き、渥美郡二連木城主の戸田勢が数百の兵を率いて援軍へ参ると報せがあった」

「数百とはこれまた少ないですな。されど、二連木の戸田氏といえば、田原御前様の縁者にございましょう」

「そうじゃ。此度参るのは戸田甚五郎宣光の長男である主殿助重貞と申して、継母上の甥にあたる者じゃ」

「このこと、田原御前様へお知らせすれば、お喜びになられましょう」

「いかにもじゃ。ゆえに、岡崎城へ戻ったらすぐにでも伝えるつもりでおる」

 戦続きで血なまぐさい話題が絶えない中、元康は大久保藤五郎の口から聞いた田原御前の名に笑顔をみせる。やはり家族の話題というものは、戦場にあっても武士の心を和ませるものであった。

 かくして、再び矢矧川を渡河して岡崎城へと戻った元康は、帰着して早々に田原御前へ二連木より甥の戸田主殿助重貞が援軍としてやって来る胸を報告。

 実家の軍勢が嫁ぎ先の援軍にやって来る。そう聞かされた田原御前は涙を流しながら喜んだ。そんな継母の様子に、松平と戸田の絆が今後とも続いていくよう、元康も祈りたくなるのであった――
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