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第4章 苦海の章
第120話 織田と松平の和睦、成る
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中島城、岡城、山中城がことごとく松平勢によって占拠されたことは時を置かずして判明し、憤懣やるかたない板倉弾正重定や作手の奥平監物からの訴えは吉田城代・大原肥前守資良を通じて駿府館へ報じられた。
「関口刑部少輔!朝比奈丹波守!蔵人佐が中島城、岡城、山中城をことごとく制圧したと報せが届いた!これはいかなることぞ!」
怒気溢れる今川治部太輔氏真の言葉に返す言葉もない元康の舅である関口刑部少輔氏純も後見役と務める朝比奈丹波守親徳。その場に同席している北条助五郎氏規もまた、きまりの悪い様子であった。
関口刑部少輔と朝比奈丹波守は関東ばかり見て一向に西三河へ援軍を寄こさないことへの不満の表れであろうと推測していた。だが、それを面と向かって、『氏真様の不手際でございます』と指摘するわけにもいかない。
北条助五郎も、舅の関口刑部少輔より元康が再三再四西三河への援軍を要請していることは聞いていた。それだけに、自分の実家である北条家が長尾弾正少弼景虎に攻められてしまったがために援軍に動けなかったことを複雑な思いで受け止めていた。
「恐れながら申し上げます」
「なんじゃ、丹波守!」
「此度、奪われた三つの城にございまするが、いずれも十四年前にご当家が三河へ侵攻するまでは松平家の城にございました。ゆえに、あくまでも旧領回復の動きにすぎぬかと」
「されど、予の許可なく味方の城を攻めるなど逆心意外の何物でもないぞ!」
そう、旧領回復という点で朝比奈丹波守の意見は正しかった。だが、この場において氏真を納得させる理由足り得なかったのだ。
「御屋形様」
「おお、助五郎か。なんじゃ、申してみよ」
「はい。こうもあっさりと城を制圧されるとは守り手の不手際にございます。攻めたのが織田であったならば、これらの城には織田軍が入っていたことにもなりまする。気の緩んでいる味方に代わり、己が城を守るというのが蔵人佐殿が考えと某には取れまする」
「むぅ、助五郎の申す通りやもしれぬ。蔵人佐のことじゃ、逆心ではなく、不甲斐ない味方に代わり、己が手勢で守ろうとしただけやもしれぬ」
もとより元康のことを信頼している氏真なのである。何も疑いたくて疑っているのではないし、怒りたくて怒っているのではない。それを敏感に察知した北条助五郎の言葉は氏真の心に沁み込むようであった。
「何よりも、これで御屋形様が蔵人佐殿の逆心であると断定して討伐の号令を下したとすれば、一大事となりまする」
「まことに蔵人佐が裏切らねばならなくなる、とかように申したいのか」
「はい」
真っ直ぐな視線とともに先の発言を肯定する北条助五郎の姿に、氏真は自然笑みがこぼれていた。
「よし、逆心と決めかかってはならぬか」
「はい。これで西三河が乱れれば、御屋形様が考えておられる関東への援軍派兵も難しくなりましょうゆえ」
「うむ。関東の事が片付き次第、ただちに西三河へは援軍を派遣するのみでなく、予自らが織田征伐軍を率いて参るゆえな。それまでは蔵人佐には踏みとどまってもらわねばならぬな」
紛れもない氏真の本心。されど、それが肝心の元康には通じていないのだ。ほんの些細なすれ違いが、西三河情勢を激変させることになってしまうのである。
如月も下旬ともなると、春がすぐ隣にまで来ているように感じられる気候ともなってきていた。
織田備後守信秀と今川三河守義元の存命時より角逐の場となっていた三河と尾張の国境も永禄四年となって以来、静かなものであった。
元康はまず生母・於大の方の実家である水野家と和睦。その水野家の当主である水野下野守信元を介して清洲の織田上総介信長との和睦へと交渉を進めていた。
この松平、水野、織田の三者が和睦することは三者にとって利害の一致からなっていた。
松平にとっては水野家をはじめ、織田方と後詰めなき戦をして無益な消耗をせずに済む。
水野にとっては松平との争いの中で、水野の緒川領も苅谷領も侵されずに済み、領民の生活を領主として守ることができること。加えて、貴重な将兵を失わずに済む。何より、緒川と苅谷の両水野氏が併合されたばかりで不安定な今の水野家をまとめることに時間と労力を割けることが大きかった。
そして、織田にとっては先代の信秀以来、長らく継続されていた尾張国東部・西三河をめぐる駿河今川氏との対立に区切りをもたらすことになったことを意味する。信長としても残る尾張北部のにおける反勢力の平定と、その背後に控える美濃一色氏との戦いに専念することができるのが大きかった。
とはいえ、互いに利益が生ずる和睦とはいえ、以後は仲睦まじくやっていこうというのには時期尚早であった。
松平蔵人佐元康が織田弾正忠家と和睦するにあたって、大事な大事な課題が未解決のままとなっているからである。
その重大な課題を解決するべく、元康は交渉役として家老の石川与七郎数正と植村新六郎改め出羽守栄政の両名と、豪勇で知られる本多百助光俊の三名を尾三国境の寺院へと向かわせたのであった。
派遣された三名の中で最年長は二十九歳の石川与七郎。続いて、齢二十七の本多百助、二十一歳の植村出羽守と、若者衆ばかりであった。
「与七郎殿、此度の交渉に赴くのは殿の伯父であられる水野下野守信元殿に加え、織田家からも代表の者が三名参られるのであったか」
「そうじゃ。百助殿、くれぐれも血気に逸って使者を斬ろうなどとはゆめゆめ考えてはならぬぞ」
「たわけ!分かっておるわ!一年前の敵対しておった頃ならばともかく、今は味方ではないが敵でもないのじゃ。むやみやたらに斬ったりはせぬ!」
石川与七郎としては、待ち時間の暇つぶしに少々からかったつもりであったのだが、これ以上揶揄しては本多百助が本当に激高しかねないと思い、目線を右から左へと移す。
「ははは、それが分かっておればよろしゅうござる。出羽守殿も当家の家老なのじゃ、もそっと肩の力を抜いて堂々となされるがよい」
「う、うむ。そういたそう。じゃが、こうも若者ばかりが重要な使者として派遣されてきたのを見て、松平家はこのような大事な交渉の場に若者ばかり送り込んで参るとは我らを侮っておるとか、織田の者らが心証を害することはなかろうか」
「それはなかろう。確かに我らは若いし、織田にまで名の知れた猛者というわけでもない。じゃが、三名のうち二名は家老なのじゃ。それだけで交渉が吹っ飛ぶことはないゆえ、案ずるな。交渉を成功裏に終わらせることのみ考えようぞ」
さすがは年長者であった。戦場では槍を振るって武功を挙げ、交渉の場では堂々と望む姿は、大きく植村出羽守の心を打った。それからまもなくして、仲介人である水野下野守が到着し、残すは織田家中の代表者が到着するのを待つばかり。
「水野下野守殿、此度はご同席を賜り、まこと感謝申し上げます」
「石川与七郎殿、感謝されるには及ばぬ。わしとしても、松平と織田が争わずに済むことは望外の喜び。そのためならば、犬馬の労も惜しまぬ」
「かたじけござらぬ」
石川与七郎としても、この水野下野守同席というのは有り難いことであった。つい先日までは敵視していた相手ではあるが、味方となればこの上なく頼りになる御仁だと内心で感服していた。
「そうじゃ、石川与七郎殿。昨年の石ヶ瀬川での合戦の折、当家の高木主水助清秀との一騎打ちはお見事でござった。高木主水助もあれ以来、貴殿の事を事あるごとに褒めちぎっておる」
「それは、恐縮なこと。されど、高木主水助殿の槍捌きも類まれなもの、あれほどの槍術の使い手と出会う機会はそうそうございませぬ」
「そうかそうか」
水野下野守と石川与七郎が談笑していると、侍僧より『織田家の方々、ご到着なされました』との取次を受け、その場にいる四名ともが胸を張りなおし、呼吸を整える。
そんな場に現れたのは三十代後半くらいの髭を綺麗に整えた壮年を先頭に、二番目に三十代半ばくらいの虎髭を生やした豪傑風な壮年。三番手には烏帽子を被った公家風の青年。そうして最後に入室したのはうつむきがちな、石川与七郎とさほど齢は変わらぬと見える人物が入室し、計四名であった
最後に入ってきた人物に面食らった様子の水野下野守による進行により、互いが何者であるのか、名乗り始める。家格的には国衆である松平側が名乗るのが筋であったため、石川与七郎、植村出羽守、本多百助の順に名乗っていく。
松平側が名乗り終わると、次は織田側の代表者たちが自己紹介していく番であった。入室してきた順に名乗るつもりなのか、最年長らしき髭を綺麗に整えた壮年から名乗り始める。
「某、滝川左近将監一益にございまする。まだ家中ではまだまだ新参者ではございまするが、主命を帯びて参上いたしました」
低いながらも落ち着いた雰囲気の声音に、思わず石川与七郎らも息を呑んだ。年の功とも言うべきか、何とも言えない存在感。そして、鼻の良い者にはかすかにかぎ取れる程度の火縄の香りが漂っている。
ともあれ、滝川左近将監が名乗り終えると、虎髭を生やした豪傑風な人物が名乗っていく。
「某は先代信秀公より諱の一字を拝領いたした、河尻与四郎秀隆にござる。此度は滝川左近将監ともども、交渉事に慣れた方が良いとの主より命を受けて参上仕った。今後とも松平家の方々とは良好な間柄を築いていきたいと思うておりまするゆえ、何卒よろしくお願い申し上げる」
雰囲気でいえば本多百助に似たものを感じさせる。長らく戦場を往来して鍛え上げられたのであろう体つきからは、腕に自信のある本多百助すらも怯ませる何かがあった。
滝川左近将監、河尻与四郎と挨拶を済ませていくと、次は一番若いと見受けられる公家風の青年が名乗り始める。
石川与七郎はどこか既視感のある青年を前に、どこで会ったことがあるのではないかと記憶を辿っていたのだが、その名を聞き、三名ともが瞬時に何者であるのかを理解させられる。
「吉良三郎義安じゃ。たしか、ご家老の両名とは六年前の蔵人佐殿が元服なされた折に会うた覚えがあるの」
「はっ、ただいま思い出してございます。あの折は我らが主の理髪の役を務めていただき、ありがとうございまする」
「ほほほ、よいよい。松平宗家嫡男の烏帽子親は代々当家が担って参ったゆえな。本来ならば、蔵人佐殿にも我が諱より一字を与えてやりたかったが、それは叶わずであった。岡崎城へ戻られたら、予がまた会って話をしたがっておったと蔵人佐殿へお伝えくだされよ」
「それは、もちろん!しっかりと伝えさせていただきまする!」
吉良三郎義安は足利御一家衆の吉良家の御仁。石川与七郎としては、織田家との交渉以上に緊張するやり取りであったことは言うまでもない。家格でいえば、松平や水野、織田とは比べ物にならないほど上の人物なのであるから。
そして、吉良三郎義安の次――入室時に水野下野守が目を見開き仰天していた人物が静寂を破った。
「此度、織田弾正忠家より松平家との領国の国分について談合しに参った、織田上総介信長である」
その予想だにしなかった言葉に、植村出羽守や本多百助は無論のこと、最年長の石川与七郎も思わず体を硬直させてしまった。
「ふふふ、その反応が見たかったのだ。なに、蔵人佐殿が来ておれば、十二年ぶりの再会となったが、そうは参らぬか。まぁ、国分の確定となれば当主であるおれが出向いた方が無駄な手間が省けて早かろうと思うて参ったまでのこと」
信長の申すことは理にかなっている。だが、まだ味方でもない松平家との交渉事に重臣らを派遣するにとどまらず、当主自ら出向いてくるとは肝が据わっているという次元を超越していた。
「此度、滝川左近将監と河尻与四郎を連れて参ったは今後のやり取りは両名を介して行わせたいがため、すなわち顔合わせじゃ。そして、こちらにおられる吉良三郎様がかつての西条城、今は牧野民部丞成定が在番しておる西尾城へ帰還できるよう計らってほしい旨を松平殿へ頼まんがためじゃ」
「なるほど、織田殿よりの申し出は理解いたしてございまする。して、国分はいかがいたしましょう」
「それについては、この書状に記した。異存なければ、蔵人佐殿よりの起請文を届けてもらいたい。無論、その折にはおれからも蔵人佐殿へ宛てた起請文を発給するゆえ、この起請文の交換で和睦成立としたい」
かくして信長よりの国分案が元康に届けられ、起請文を取り交わすことで和睦は成就となった。
これにて後顧の憂いを断った元康のもとへある人物より便りが届けられる。
「関口刑部少輔!朝比奈丹波守!蔵人佐が中島城、岡城、山中城をことごとく制圧したと報せが届いた!これはいかなることぞ!」
怒気溢れる今川治部太輔氏真の言葉に返す言葉もない元康の舅である関口刑部少輔氏純も後見役と務める朝比奈丹波守親徳。その場に同席している北条助五郎氏規もまた、きまりの悪い様子であった。
関口刑部少輔と朝比奈丹波守は関東ばかり見て一向に西三河へ援軍を寄こさないことへの不満の表れであろうと推測していた。だが、それを面と向かって、『氏真様の不手際でございます』と指摘するわけにもいかない。
北条助五郎も、舅の関口刑部少輔より元康が再三再四西三河への援軍を要請していることは聞いていた。それだけに、自分の実家である北条家が長尾弾正少弼景虎に攻められてしまったがために援軍に動けなかったことを複雑な思いで受け止めていた。
「恐れながら申し上げます」
「なんじゃ、丹波守!」
「此度、奪われた三つの城にございまするが、いずれも十四年前にご当家が三河へ侵攻するまでは松平家の城にございました。ゆえに、あくまでも旧領回復の動きにすぎぬかと」
「されど、予の許可なく味方の城を攻めるなど逆心意外の何物でもないぞ!」
そう、旧領回復という点で朝比奈丹波守の意見は正しかった。だが、この場において氏真を納得させる理由足り得なかったのだ。
「御屋形様」
「おお、助五郎か。なんじゃ、申してみよ」
「はい。こうもあっさりと城を制圧されるとは守り手の不手際にございます。攻めたのが織田であったならば、これらの城には織田軍が入っていたことにもなりまする。気の緩んでいる味方に代わり、己が城を守るというのが蔵人佐殿が考えと某には取れまする」
「むぅ、助五郎の申す通りやもしれぬ。蔵人佐のことじゃ、逆心ではなく、不甲斐ない味方に代わり、己が手勢で守ろうとしただけやもしれぬ」
もとより元康のことを信頼している氏真なのである。何も疑いたくて疑っているのではないし、怒りたくて怒っているのではない。それを敏感に察知した北条助五郎の言葉は氏真の心に沁み込むようであった。
「何よりも、これで御屋形様が蔵人佐殿の逆心であると断定して討伐の号令を下したとすれば、一大事となりまする」
「まことに蔵人佐が裏切らねばならなくなる、とかように申したいのか」
「はい」
真っ直ぐな視線とともに先の発言を肯定する北条助五郎の姿に、氏真は自然笑みがこぼれていた。
「よし、逆心と決めかかってはならぬか」
「はい。これで西三河が乱れれば、御屋形様が考えておられる関東への援軍派兵も難しくなりましょうゆえ」
「うむ。関東の事が片付き次第、ただちに西三河へは援軍を派遣するのみでなく、予自らが織田征伐軍を率いて参るゆえな。それまでは蔵人佐には踏みとどまってもらわねばならぬな」
紛れもない氏真の本心。されど、それが肝心の元康には通じていないのだ。ほんの些細なすれ違いが、西三河情勢を激変させることになってしまうのである。
如月も下旬ともなると、春がすぐ隣にまで来ているように感じられる気候ともなってきていた。
織田備後守信秀と今川三河守義元の存命時より角逐の場となっていた三河と尾張の国境も永禄四年となって以来、静かなものであった。
元康はまず生母・於大の方の実家である水野家と和睦。その水野家の当主である水野下野守信元を介して清洲の織田上総介信長との和睦へと交渉を進めていた。
この松平、水野、織田の三者が和睦することは三者にとって利害の一致からなっていた。
松平にとっては水野家をはじめ、織田方と後詰めなき戦をして無益な消耗をせずに済む。
水野にとっては松平との争いの中で、水野の緒川領も苅谷領も侵されずに済み、領民の生活を領主として守ることができること。加えて、貴重な将兵を失わずに済む。何より、緒川と苅谷の両水野氏が併合されたばかりで不安定な今の水野家をまとめることに時間と労力を割けることが大きかった。
そして、織田にとっては先代の信秀以来、長らく継続されていた尾張国東部・西三河をめぐる駿河今川氏との対立に区切りをもたらすことになったことを意味する。信長としても残る尾張北部のにおける反勢力の平定と、その背後に控える美濃一色氏との戦いに専念することができるのが大きかった。
とはいえ、互いに利益が生ずる和睦とはいえ、以後は仲睦まじくやっていこうというのには時期尚早であった。
松平蔵人佐元康が織田弾正忠家と和睦するにあたって、大事な大事な課題が未解決のままとなっているからである。
その重大な課題を解決するべく、元康は交渉役として家老の石川与七郎数正と植村新六郎改め出羽守栄政の両名と、豪勇で知られる本多百助光俊の三名を尾三国境の寺院へと向かわせたのであった。
派遣された三名の中で最年長は二十九歳の石川与七郎。続いて、齢二十七の本多百助、二十一歳の植村出羽守と、若者衆ばかりであった。
「与七郎殿、此度の交渉に赴くのは殿の伯父であられる水野下野守信元殿に加え、織田家からも代表の者が三名参られるのであったか」
「そうじゃ。百助殿、くれぐれも血気に逸って使者を斬ろうなどとはゆめゆめ考えてはならぬぞ」
「たわけ!分かっておるわ!一年前の敵対しておった頃ならばともかく、今は味方ではないが敵でもないのじゃ。むやみやたらに斬ったりはせぬ!」
石川与七郎としては、待ち時間の暇つぶしに少々からかったつもりであったのだが、これ以上揶揄しては本多百助が本当に激高しかねないと思い、目線を右から左へと移す。
「ははは、それが分かっておればよろしゅうござる。出羽守殿も当家の家老なのじゃ、もそっと肩の力を抜いて堂々となされるがよい」
「う、うむ。そういたそう。じゃが、こうも若者ばかりが重要な使者として派遣されてきたのを見て、松平家はこのような大事な交渉の場に若者ばかり送り込んで参るとは我らを侮っておるとか、織田の者らが心証を害することはなかろうか」
「それはなかろう。確かに我らは若いし、織田にまで名の知れた猛者というわけでもない。じゃが、三名のうち二名は家老なのじゃ。それだけで交渉が吹っ飛ぶことはないゆえ、案ずるな。交渉を成功裏に終わらせることのみ考えようぞ」
さすがは年長者であった。戦場では槍を振るって武功を挙げ、交渉の場では堂々と望む姿は、大きく植村出羽守の心を打った。それからまもなくして、仲介人である水野下野守が到着し、残すは織田家中の代表者が到着するのを待つばかり。
「水野下野守殿、此度はご同席を賜り、まこと感謝申し上げます」
「石川与七郎殿、感謝されるには及ばぬ。わしとしても、松平と織田が争わずに済むことは望外の喜び。そのためならば、犬馬の労も惜しまぬ」
「かたじけござらぬ」
石川与七郎としても、この水野下野守同席というのは有り難いことであった。つい先日までは敵視していた相手ではあるが、味方となればこの上なく頼りになる御仁だと内心で感服していた。
「そうじゃ、石川与七郎殿。昨年の石ヶ瀬川での合戦の折、当家の高木主水助清秀との一騎打ちはお見事でござった。高木主水助もあれ以来、貴殿の事を事あるごとに褒めちぎっておる」
「それは、恐縮なこと。されど、高木主水助殿の槍捌きも類まれなもの、あれほどの槍術の使い手と出会う機会はそうそうございませぬ」
「そうかそうか」
水野下野守と石川与七郎が談笑していると、侍僧より『織田家の方々、ご到着なされました』との取次を受け、その場にいる四名ともが胸を張りなおし、呼吸を整える。
そんな場に現れたのは三十代後半くらいの髭を綺麗に整えた壮年を先頭に、二番目に三十代半ばくらいの虎髭を生やした豪傑風な壮年。三番手には烏帽子を被った公家風の青年。そうして最後に入室したのはうつむきがちな、石川与七郎とさほど齢は変わらぬと見える人物が入室し、計四名であった
最後に入ってきた人物に面食らった様子の水野下野守による進行により、互いが何者であるのか、名乗り始める。家格的には国衆である松平側が名乗るのが筋であったため、石川与七郎、植村出羽守、本多百助の順に名乗っていく。
松平側が名乗り終わると、次は織田側の代表者たちが自己紹介していく番であった。入室してきた順に名乗るつもりなのか、最年長らしき髭を綺麗に整えた壮年から名乗り始める。
「某、滝川左近将監一益にございまする。まだ家中ではまだまだ新参者ではございまするが、主命を帯びて参上いたしました」
低いながらも落ち着いた雰囲気の声音に、思わず石川与七郎らも息を呑んだ。年の功とも言うべきか、何とも言えない存在感。そして、鼻の良い者にはかすかにかぎ取れる程度の火縄の香りが漂っている。
ともあれ、滝川左近将監が名乗り終えると、虎髭を生やした豪傑風な人物が名乗っていく。
「某は先代信秀公より諱の一字を拝領いたした、河尻与四郎秀隆にござる。此度は滝川左近将監ともども、交渉事に慣れた方が良いとの主より命を受けて参上仕った。今後とも松平家の方々とは良好な間柄を築いていきたいと思うておりまするゆえ、何卒よろしくお願い申し上げる」
雰囲気でいえば本多百助に似たものを感じさせる。長らく戦場を往来して鍛え上げられたのであろう体つきからは、腕に自信のある本多百助すらも怯ませる何かがあった。
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「吉良三郎義安じゃ。たしか、ご家老の両名とは六年前の蔵人佐殿が元服なされた折に会うた覚えがあるの」
「はっ、ただいま思い出してございます。あの折は我らが主の理髪の役を務めていただき、ありがとうございまする」
「ほほほ、よいよい。松平宗家嫡男の烏帽子親は代々当家が担って参ったゆえな。本来ならば、蔵人佐殿にも我が諱より一字を与えてやりたかったが、それは叶わずであった。岡崎城へ戻られたら、予がまた会って話をしたがっておったと蔵人佐殿へお伝えくだされよ」
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そして、吉良三郎義安の次――入室時に水野下野守が目を見開き仰天していた人物が静寂を破った。
「此度、織田弾正忠家より松平家との領国の国分について談合しに参った、織田上総介信長である」
その予想だにしなかった言葉に、植村出羽守や本多百助は無論のこと、最年長の石川与七郎も思わず体を硬直させてしまった。
「ふふふ、その反応が見たかったのだ。なに、蔵人佐殿が来ておれば、十二年ぶりの再会となったが、そうは参らぬか。まぁ、国分の確定となれば当主であるおれが出向いた方が無駄な手間が省けて早かろうと思うて参ったまでのこと」
信長の申すことは理にかなっている。だが、まだ味方でもない松平家との交渉事に重臣らを派遣するにとどまらず、当主自ら出向いてくるとは肝が据わっているという次元を超越していた。
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「それについては、この書状に記した。異存なければ、蔵人佐殿よりの起請文を届けてもらいたい。無論、その折にはおれからも蔵人佐殿へ宛てた起請文を発給するゆえ、この起請文の交換で和睦成立としたい」
かくして信長よりの国分案が元康に届けられ、起請文を取り交わすことで和睦は成就となった。
これにて後顧の憂いを断った元康のもとへある人物より便りが届けられる。
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戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
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