不屈の葵

ヌマサン

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第4章 苦海の章

第121話 嵐鹿毛

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 織田弾正忠家との和睦成立、国分交渉について織田方より提示された案のことなど、一通り元康は石川与七郎数正、植村出羽守栄政、本多百助信俊より説明を受けていた。

「国分についてはこれで良かろう。一色丹羽氏は我らに従属を願っておるが、織田へ従属して貰いたいというのがわしの考えじゃ。無論、与えた三河の所領はそのまま安堵といたす」

「然らば、織田からの要望を飲む、ということでよろしゅうございますか」

「良い。一色丹羽氏を我らが従属させては、かえって尾張の所領を我らが得ることとなる。ここは、織田殿の顔を立てるべきであろう」

「なるほど、承知いたしました」

 尾張・三河に所領がまたがる国衆・一色丹羽氏をどちらが従属させるか。そこも争点の一つと石川与七郎は睨んでいたが、元康は固執することなく手放したことに、驚かされてもいた。

「与七郎、良いのじゃ。一色丹羽氏の有する所領は我らが有するよりも織田が有している方が有益。何も、松平領を差し出せと言われたのではない」

「それゆえに断る理由もない、と」

 石川与七郎の言葉に元康は静かに頷いてみせる。下手に国分交渉で揉めて長引くことの方が元康にとって危ういことになりかねない。その点を考慮しての政治的判断でもあった。

「それはそうと、植村出羽守。そなた、上総介殿より二振りの行光の太刀を拝領したとのことであったな」

「はっ、こちらにございます。勝手なことをいたしましたこと、詫びようもございませぬ」

「構わぬ。むしろ、あの織田上総介殿から見込まれたのじゃと思うて、その太刀に劣らぬよう自己の研鑽に励めばよいこと」

「はっ、ははっ!」

 てっきり、和睦相手の当主から太刀を与えられたなど、元康から叱られる。そう思っていただけに、植村出羽守の心配は杞憂に終わった。

「そして、本多百助光俊。いや、信俊と名を改めたのであったな」

「はっ、交渉後に織田家の通字である『信』の一字を与えると申され……」

「それも、植村出羽守と同じこと。織田上総介殿の名を一字戴いたのじゃ、文字通りその名に恥じぬ働きをしてみせよ」

「しょ、承知!この本多百助、今後とも殿の御為、好みを投げ打ち奉公いたす所存!」

 信長より太刀を授けられた植村出羽守も、信長から『信』の一字を与えられた本多百助も、元康は咎めることはしなかった。

 それは咎めるほどの事でもないと判断したからでもあり、君主としての器の広さを信長から試されたのだと思うことにしたからでもあった。

「そうじゃ、交渉の場には織田上総介殿だけでなく、吉良三郎様もお越しになられておったと聞いたが……」

「はっ、今川方と戦に及ぶならば、吉良三郎様をかつての西条城、今日の西尾城へ戻れるよう尽力してもらいたいとのことでしたが」

「うむ、わしにとっては元服の折に理髪の役を務めていただいた恩人じゃ。三河追放を命じられた太守様もおられぬ今、三河へ戻しても差し支えあるまい。ただ、そうなれば東条城の吉良義昭様との戦は避けられぬか」

「もとより、東条城の吉良様は吉良三郎様の弟君にございます。三男よりも次男の方が家督を継ぐに相応しいと考えるは、道理に反した行いではござらぬかと」

 石川与七郎の言葉は一々説得力があった。元康としても、今後三河における今川方と戦うことになれば、吉良三郎義安が背後に控えていることを三河の国衆らに示すことは正当性を主張するうえで欠かせないことでもあった。

「然らば、織田上総介殿へ国分案に同意した旨の起請文と吉良三郎様を西尾城へお戻しすることに合意した旨を記した書状を清洲城へ届けることといたそう」

 そうして松平家と織田家との和睦交渉は無事にまとまり、吉良家という後ろ盾を得たことから、元康は次なる一手を模索していくことになる。

 月が替わって永禄四年三月のことであった。京都誓願寺の住持・泰翁慶岳よりの書状が届けられたのは。

「殿、泰翁慶岳と申す僧侶より急ぎの書状が届いておりまする」

「おお、七之助か。うむ、ご苦労であった」

 元康も泰翁慶岳という僧侶が京都誓願寺の住持であること、何より三河国岡崎出身であることを知ってもいたため、同郷で自身が帰依する浄土宗の僧侶から一体いかなる内容の書状が届けられたのかと思いながら、平岩七之助より受け取った書状を開く。

「ほう、将軍足利義輝様が良馬を秘かに求めておられる、と」

 早道馬、すなわち駿馬を京都におわす室町幕府十三代将軍・足利義輝が求めている。その情報を入手した泰翁慶岳は、急ぎ元康へと報じてきたものであった。

「京の公方様へ献上する良馬となれば、良馬は良馬でも並みの良馬ではならぬか。それこそ、三河一の良馬を献上せねばならぬな」

 泰翁慶岳の書状には、将軍は尾張の織田信長にも良馬を所望しているとも記されていた。

 となれば、信長よりも先に将軍を唸らせる良馬を献上すれば、三河の一国衆にすぎない松平家が将軍家との繋がりを得られるまたとない機会でもあるのだ。

 そうと決まれば、元康とて俄然やる気になるというもの。今までは今川家の従属国衆なのだから、従属先である今川家を飛び越えてやり取りするなど、身の程を弁えない出過ぎた真似であった。

 だが、その今川家との従属関係を見直す方向へ舵を切った以上、元康は父・広忠や祖父・清康の頃のような独立国衆に戻るのだから、将軍と直接的な繫がりを得ることに、誰の許しを得る必要もないのだ。

「加えて、此度の長尾弾正少弼が関東侵攻は公方様は支持する立場を示されておられる。であるならば、公方様と繋がりを得られれば、関東侵攻と同調する機会を得られるやもしれぬ」

 幼少の頃より駿府で共に研鑽し、目をかけて貰った今川氏真を裏切ることになるのだ。すなわち、今川家は敵。その敵の同盟先・北条家と戦う長尾弾正少弼は味方。

 敵の敵は味方とする。そのためにも、京の室町幕府将軍と繋がることは、損を生じることは少なく、むしろ利の方が大きい。

「父上の十三回忌法要もまもなく行わねばならぬし、加えて将軍へ献上する良馬の支度とは、これまた忙しくなりそうじゃ」

 どちらも家臣たちの補佐を受けられるのだが、それでも政務に忙殺される己の姿を思い描くことは容易なことであった。

 そうして父・広忠の十三回忌法要を滞りなく執り行い、将軍へ献上する良馬のことで頭を悩ませる元康のもとへ、本多平八郎忠勝が駆け込んできたのである。

「殿!」

「おう、平八郎ではないか。いかがいたした!そなたとて、父の十三回忌の支度があろうに」

「はっ、関東にて大事が起こったとのことにございます」

「ほう、聞かせよ」

 父・忠高の十三回忌法要を今月十九日に控えている本多平八郎から告げられた関東情勢は関東から旅してきた商人たちから得たものらしかった。

 一つは長尾弾正少弼景虎の号令で結集した反北条連合軍の先陣は去る三月三日に相模国当麻へ着陣したこと。

 もう一つは駿府の今川氏真が派遣した小倉内蔵助・畑彦十郎率いる今川軍が、すでに地黄八幡と呼ばれて畏怖される北条上総介綱成が守備する武蔵国河越城での籠城戦に加わり、激闘を繰り広げていること。

 元康にとって、どちらも驚くべき内容に違いなかったが、後者の報せは駿府の今川氏真に失望せざるを得ないほどの衝撃的な内容であった。

「やはり今川を見限ったのは正しき選択にございました。腐った駿府のうつけどもは我らを使い捨ての駒としか思っておらぬのです!我らが織田と水野と戦って疲弊しきったところを背後より攻め、西三河を直轄地にせんとの陰謀なのでしょう!」

「やめぬか!平八郎!」

「じゃが、そうとしか思えぬ仕打ちじゃ!三河へ寄こす援軍はないくせに、武蔵へ派遣する援軍はあったのだ!殿へむごい仕打ちしたことの報いは必ず某が受けさせまする!駿府攻めの折は、拙者に先陣をお命じくだされ!憎たらしい今川氏真が首を殿へ献上してご覧にいれまする!」

「平八郎!だまらっしゃい!」

 悲痛な叫びとも取れる元康の言葉に、言い過ぎたと自覚した本多平八郎は口をつぐんだ。

 しかし、元康は心の中で涙を流しながらも、本多平八郎の言い分はもっともだということは理解してもいた。いや、理解できるからこそ、辛く悲しくなってしまうのである。

「良いか、平八郎。わしは駿府の仕打ちを憎んでおる。再三再四、援軍を要請したにもかかわらず、二連木戸田氏が手勢を率いて援軍を寄こした一回きりじゃ。そのほかは、我らが単独で事に当たっておる」

「はっ、そのことは存じておりますれば」

「じゃが、駿府におわす御屋形様や亡き今川義元公と崇孚和尚、舅の関口刑部少輔殿や後見役の朝比奈丹波守殿、義弟の北条助五郎殿といった方々から頂いた恩義を忘れたわけではない。ゆえ、憎いと思っても憎み切れぬわしの気持ちを、汲んではくれぬか」

 今、元康が名を挙げた人物のことなど、平八郎にとっては見ず知らずの人間。それゆえに此度のむごい仕打ちに対しての怒りが今川家への心証として勝る。

 だが、元康にとってはそうではないのだということを、本多平八郎も理解せざるを得なかった。

「殿、先ほどは身の程も弁えず、無礼なことを申しました」

「よい、わしも怒鳴るなど、君主にあるまじき失態であった。平八郎が悪いのではない。じゃが、今後は今川家を悪く言うことだけは許さぬからな」

「はっ!しかし、某をはじめ、駿府でふんぞり返っている方々のことを、家中の者の大半は知らぬのだということを、殿も何卒ご理解くださいませ」

 この一件は元康にとっても、本多平八郎にとっても、前提条件の違いによってこうまで見え方が異なるのだということを痛感する出来事でもあった。

「そうじゃ、殿。殿がお探しになっておられる良馬がことにございますが」

「おう、それがいかがしたというのじゃ」

「はい。それほどの良馬ならば、五年ほど前に殿へ献上されたとかいう嵐鹿毛しかおらぬのではないかと、某は考えます」

「なるほど、嵐鹿毛か」

 嵐鹿毛ならば、並ぶものなしの駿馬である。本多平八郎の申す通り、嵐鹿毛であれば将軍に献上する良馬として申し分ない。

「よし、わしよりも馬の目利きができる平八郎が申す通りといたそうぞ。よし、京におわす公方様へ献上する良馬も決まった!あとは、泰翁慶岳を通じて嵐鹿毛を納めるのみじゃ!」

 無事に将軍へ献上する良馬のことも解決した元康。あとは人事を尽くして天命を待つのみ。将軍である足利義輝が嵐鹿毛を気に入るかどうかは、もはや元康がどうこうできる問題ではなくなっているのだから。

 元康は嵐鹿毛を京へ送る手筈と、泰翁慶岳へ宛てて取次を懇ろに依頼する旨の書状をしたためていく。

「そうじゃ、まだ一つ課題が残っておった」

「課題とは三河国衆の調略にございますな」

「おお、平八郎にも分かったか!」

「いえ、榊原小平太が申しておったことの受け売りにござる」

 そこを自分の手柄とせず、受け売りだと素直に認めるところは本多平八郎の人となりが良く表れている。それをにこにこと笑みをたたえる元康は調略について思案を巡らせていく。

「まずは加茂郡の簗瀬家弘、原田種久、原田藤左衛門ら阿摺衆は半ば引き入れに成功しておる。彼らは足助鱸氏は激しく対立しておるゆえ、足助鱸氏は引き込まず、今川方として抗わせる。なにより、足助鱸氏はわしに従わぬ大給松平と縁戚ゆえな」

「真弓山城の足助鱸氏の鈴木重直は離縁したとはいえ、随念院様の夫。大給城の松平和泉守親乗は随念院様が鈴木重直に嫁する前に松平乗勝との間にもうけた男子にございまするからな」

「平八郎、詳しいではないか」

「叔父がそう申しておりましたゆえ」

 これまた正直に人づてに聞いたのだと答える本多平八郎。だが、その説明は正しい。育ての母と呼べる随念院の元夫と息子が相手といえど、それで臆してしまうようであれば、はなから今川家を離反するべきではない。

「両名は必ずや成敗する。大叔母上より恨まれようとも、西三河より膿を取り除かねば話にならぬ」

 また、確実に味方として見込めるのは亀千代と松井左近忠次がいる青野松平家、中島城を奪取した深溝松平家、大給松平家を不俱戴天の仇と認識している滝脇松平家。残る松平家がどう動くかは読めないが、そこは交渉次第。

 西三河では誰と誰が味方に取り込めるか、敵対してくるのは誰になるのか。加えて、東三河において今川家から離反しそうな国衆はどこか、頑なに抵抗してくるのはどこなのか、しっかりと見極める必要もある。

 今しばらくは休むことも許されない、元康なのであった――
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