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第4章 苦海の章
第122話 斧を研いで針にする
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永禄四年三月もすでに下旬。ついに長尾弾正少弼景虎率いる長尾勢も酒匂川付近に迫り、居城・小田原城を包囲したのである。
「父上、これほどの敵に囲まれるとは壮観にございますな」
「いかにも。さりとて、寄せ集めの連合軍ではこの堅城を攻略できまい」
「左様ですな」
ここは三河より遥か東、相模国小田原城。当主・北条新九郎は呑気に包囲する大軍を眺め、嘲笑していた。傍らに控える御隠居・氏康もまた、じっと戦局を窺っている様子。
「そうじゃ、昨日二十四日、駿河の婿殿より書状が届いた」
「それはいかなる書状にございましょうか」
「うむ。自ら小田原へ向けて出馬する、とな」
「おお、それは有り難き事。まこと頼りになる義弟殿じゃ」
今川氏真に嫁いだ春姫は北条家先代当主・氏康の娘であり、現当主・氏政の妹。北条家にとって、今川家は義元を失ってなお、積極的に支援してくれる頼りになる同盟先であった。
「加えて、甲斐の徳栄軒信玄殿も昨日二十四日に富士吉田まで出陣してきており、5日のうちに河村に着陣するとの便りも届いておりますれば」
「ふっ、恐らくは駿河と甲斐の両当主示し合わせての出陣であろう。となれば、三国同盟の三当主揃い踏みで長尾弾正少弼めと対峙することとなるか」
「そうなりまするな。我らに越後へ追い落とされた関東管領に現古河公方の異母弟を担ぎ出し、関白まで引っ張り出してきた長尾弾正少弼との決戦!これほどの大戦、後世に語り継がれる戦となるに相違ございませぬ!」
嫌味を交えながらも、決戦に心躍らせる二十四歳の若き当主・氏政を横目に、四十七にもなる御隠居はあまり良い顔をしなかった。
そんな父の様子を怪訝そうに見つめた後、再び城外にひしめく大軍勢へと視線を移す北条新九郎なのであった。
ともあれ、大人しく居城・小田原城の包囲を許した北条左京大夫氏康・新九郎氏政父子であったが、父子の思惑通り、長尾勢は守りの堅い小田原城攻略に難航。一向に陥落する気配を見せなかった。
それに加えて、駿河今川氏と甲斐武田氏の援軍が小田原へ向かってくるとの情報が流布されたこともあり、包囲から一週間ほどで連合軍内にて崩壊への不協和音が鳴り響く。
小田原城外、「毘」の軍旗が翻る本陣にて『源氏物語』を愛読している壮年――長尾弾正少弼景虎のもとへ、家臣より報せがもたらされる。
「御実城様、一大事にございます」
「いかがした。佐竹家をはじめ、撤兵要求が届いておることは存じておる」
「いえ、忍城の成田氏が無断で陣を払い、忍城へ引き揚げてしまい、それに続く者が出始めております」
「ふむ、やはり飢饉が続発しておる関東で長期間の遠征は維持できぬか」
すでに予測出来ていた事態であったことから、そこまで動揺した様子も見せない長尾弾正少弼景虎。されど、次に報告された事態には、余裕を維持することなどできなかった。
「また、越後本国にて留守居をしておられる直江大和守景綱様より早馬が」
「急ぎの報せであろう。申してみよ」
「はっ、どうやら武田方が北信濃川中島に海津城の築城を進めておるとのこと。加えて、越中では一向一揆が放棄したとのこと!」
「おそらくは、越中一向一揆も武田が仕組んだことであろう。こう都合よく蜂起するとは裏で暗躍している者がおらねば成立し得ぬ」
上野国厩橋城にて越年し、武蔵国を突っ切って相模国まで進軍してきて、北条家の本城・小田原城を攻め落とさぬまま撤退する。
ここまで来て、小田原城を攻めあぐねて撤退となるのは長尾弾正少弼にとっても無念の極みであった。だが、すでに味方が一枚岩でなく、強硬姿勢を貫けば敵地にて孤立することにもなりかねない。これは断じて景虎にとって許容できることではなかった。
「よし、斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家の両名に通達。ただちに我らも陣払いし、本国越後へ帰還する、とな!」
「はっ、ははっ!」
かくして、長尾弾正少弼による小田原城攻囲は十日も経たずして幕引きとなった。されど、小田原城を攻略できずとも、大軍でもって包囲したという事実だけでも、関東の諸豪族に与えた影響は大きなものがあった。
この三月下旬から閏三月にかけての一大事は、数日の時を要したものの、遠く三河の松平蔵人佐元康の元へも届けられていた。
「そうか、長尾弾正少弼殿は小田原城を攻囲したか!」
「はっ、包囲は十日と経たずに解消されたとのことにございますが、近隣諸国へ与える影響は小さからず」
「であろうな。となれば、越後長尾軍は軍勢を越後へ戻した後の北条軍の巻き返し如何によっては、今後の武田家と今川家の動きも変わって参ろうぞ」
元康が知っているのは長尾軍が小田原城包囲を解き、撤退を開始したところまで。北信濃や越中で起こったことが原因であろうとは、知る由もなかった。
「左衛門尉、加茂郡の阿摺衆は当家に味方するとのことじゃ」
「それは祝着至極に存じます。やはり簗瀬家弘、原田種久、原田藤左衛門らに足助鱸氏と敵対する意思を明確にしたことが大きかったのでしょうか」
「そうであろう。わしも三名に与えた起請文にて『足助鱸越後は容赦せぬ』と誓約してあるゆえ、かの者らに刺さったとすればその文言であろう」
元康の話に深く頷きながら、酒井左衛門尉忠次はいかにも申し訳なさそうに報告すべき旨を述べ始める。
「殿、まこと面目次第もございませぬ。山中城攻略までは順当に進みましたが、長沢の鳥屋ヶ根城を未だ陥落させられておりませぬ」
「それは存じておる。さすがに容易くは落とせぬか」
「はっ、されど豊川三人衆の調略は成せました」
「なんと!」
酒井左衛門尉が持参した書状三通を一読した元康の表情は書院の中に漂う寒気を吹き飛ばしてしまうのではないかというほど、誰に隠すこともなく喜んだ。
この豊川三人衆とは野田城の菅沼新八郎定盈、八名郡月ヶ谷城の西郷弾正左衛門正勝、川路城の設楽越中守貞通の三名である。
「最も早く応じたのは設楽越中守殿。されど、間髪入れず菅沼新八郎殿、西郷弾正左衛門殿も当家に与するとの返答がございました」
「わしの記憶が正しければ、西郷弾正左衛門が正室は野田菅沼氏の出ではなかったか」
「はい。野田城の菅沼新八郎殿にとって西郷弾正左衛門殿は叔母婿に当たりまする。加えて、西郷弾正左衛門殿が次男である孫九郎清員殿には某の妹が嫁いでおりますれば」
「そうであったな。たしか、嫡子も産まれておるとか以前申しておらなんだか」
元康の言葉に首肯する酒井左衛門尉。遠く東三河において豊川三人衆という味方を得たのは実に心強いと感じてもいた。
元康が酒井左衛門尉との間に広げている三河の絵図のうえに、味方として新たに野田城の菅沼新八郎、月ヶ谷城の西郷弾正左衛門、川路城の設楽越中守の名が記される。味方と確定しているのは青野松平家、深溝松平家と豊川三人衆、それに加えて阿摺衆とまだまだ心許なかった。
「まだ桜井松平、福釜松平、藤井松平といった矢矧川以西の者らや大給松平と敵対している滝脇松平、能見松平、大草松平、形原松平、竹谷松平、五井松平、長沢松平といった他の松平家からの返答も届いておらぬ」
「おそらく、今川へ提出した人質の身を案じて動けぬのでしょう」
「そうであろうな。皆、証人として妻子を出しているのだ。安易に離反などと口にはできぬか」
そう言う元康もまた、駿府へ人質として嫡男・竹千代を出しているのである。だが、その身を案じていないわけではない。ただただ、当主として振る舞う以上、我が子のことなど歯牙にもかけていないように演じなければならないだけであった。
「逆に敵対するであろう者らはおおよそ予想がつく。まず、今も攻囲している鳥屋ヶ根城に籠る糟屋宗益ら今川被官衆は無論のこと、義元公のおかげで当主の座に就いた牛久保城主で西尾城へ在番している牧野民部丞成定。東条城の吉良義昭様も我らが吉良三郎様を擁立したと知れば敵対してくるであろうゆえ、厄介じゃ」
「加えて、宝飯郡上之郷城の鵜殿藤太郎長照殿も今川家への忠誠心は高い御仁。なにせ、あれほど織田軍に追い詰められながらも降伏することなく大高城を守り抜いた傑物にございますれば、徹底抗戦して参ろうかと。他にも、先般山中領より某が叩き出した設楽郡の作手奥平監物も山中領の支配回復を目論んでおりましょうし、宗家への対抗意識の高い大給松平和泉守親乗と、その縁戚である足助真弓山城の鈴木重直も手向かうことは必定」
「うむ。遠江との国境に近い白倉城の山吉田鈴木重勝は地理的にも今川方であろうし、伊奈城の本多助太夫忠俊も当然今川へ付くであろう。今川譜代では吉田城代の大原肥前守資良、田原城代の朝比奈元智も抗戦してくることは間違いない」
「こうしてみると、お味方よりも敵の方が数が多うございますな」
まさしく酒井左衛門尉の申す通り、味方よりも遥かに敵の方が多い。何より、日和見を決め込んでいる三河国衆も数多いる状況なのだ。この状況下で、何よりも松平一族すら一丸となっていないことであった。
さてどうしたものかと元康と酒井左衛門尉が頭を抱えているところへ、酒井雅楽助政家と石川与七郎数正が興奮気味に元康と酒井左衛門尉のいる書院へとやって来た。
「おお、雅楽助に与七郎か。何事かあったか」
元康の「何事かあったか」という言葉に同時に頷いてみせた酒井雅楽助と石川与七郎は互いに顔を見合わせたうえで、石川与七郎から口を開いた。
「殿!宝飯郡の牧野平左衛門入道父子、牧野弥次右兵衛尉、牧野助兵衛正重らの調略が成せました!」
「なにっ、牧野一族の調略が成せたか!」
「はいっ!もともと義元公の意向を受けて当主となった牧野民部丞を快く思っておらぬとのことで、内応を確約いたしました!」
「よしっ!でかしたぞ、与七郎!これにて、牛久保城を攻めとることもできようぞ!」
これまで東三河経略において決定打を欠いていたために決行を指示できず、腹案に留めていた胸中の策を実行できることに元康は歓喜した。子供のようにはしゃぐ元康を慈父の眼差しで見つめていた酒井雅楽助より、次なる朗報がもたらされる。
「殿、朗報にございまする!」
「雅楽助、大儀であった!」
「ま、まだ何もお知らせしておりませぬが……」
「朗報と申したではないか」
「そ、そうなのですが。それは良いです。荒川城の荒川甲斐守義広殿が我らに味方したいとの申し出がございました!」
その酒井雅楽助の報告に、元康も目の色を変えた。なにせ、荒川甲斐守といえば、れっきとした吉良一族。何より、元康が信長からの依頼を受けて擁立しようとしている吉良三郎義安から見れば、養父・吉良持広の実弟にあたる人物である。
「じゃが、荒川甲斐守殿ともあろう方が何の見返りもなしに協力するとは申すまい。何ぞ申してきてはおらぬか」
「はっ、西尾城より牧野民部丞成定を追い出し、兄の養子である吉良三郎義安を西尾城へ入れることが条件であるとのこと。おそらくは、裏で吉良三郎様の働きかけもあったのではないかと。おそらく、書状の文面を見るに、西尾城に吉良家に縁のない者が闊歩しておるのが気に入らぬのでしょう」
「なるほど、それならば志は同じであるな。よし、これにて西尾城の北東が開けた。今の報せで西尾城と牛久保城を一挙に攻略する目途が立った!」
牛久保牧野氏の居城・牛久保城と牛久保牧野氏当主・牧野民部丞が在番する西尾城の同時攻略。そのような大胆不敵な策などあるのかと、その場に同席する重臣三名は前のめりになる。
「よいか、この長沢の鳥屋ヶ根城が攻略できぬ限り、牛久保城を攻められぬと考えていた。されど、離反が明るみに出る前の豊川三人衆の手勢と僅かばかりではあるが当家の手勢を割き、牛久保城を攻める」
「なるほど、道中の鳥屋ヶ根城が落ちぬ限り、牛久保城を落とすだけの兵力は送り込めませぬが、豊川三人衆の手勢を加えれば落とせるやもしれませぬなぁ」
「甘いぞ雅楽助。与七郎が先ほど申したことを思い出してみよ。調略が成せた牧野一族らも離反となれば、当主不在の牛久保城など、『ひとへに風の前の塵に同じ』であろうが」
当主不在、一族の離反。そこへ松平勢と豊川三人衆による牛久保城襲撃。ともすれば、本当に攻略できるやもしれぬと、皆が希望を抱いた。それに加えて元康が披露した西尾城攻めの秘策もまた、三名の度肝を抜くに相応しいものであった――
「父上、これほどの敵に囲まれるとは壮観にございますな」
「いかにも。さりとて、寄せ集めの連合軍ではこの堅城を攻略できまい」
「左様ですな」
ここは三河より遥か東、相模国小田原城。当主・北条新九郎は呑気に包囲する大軍を眺め、嘲笑していた。傍らに控える御隠居・氏康もまた、じっと戦局を窺っている様子。
「そうじゃ、昨日二十四日、駿河の婿殿より書状が届いた」
「それはいかなる書状にございましょうか」
「うむ。自ら小田原へ向けて出馬する、とな」
「おお、それは有り難き事。まこと頼りになる義弟殿じゃ」
今川氏真に嫁いだ春姫は北条家先代当主・氏康の娘であり、現当主・氏政の妹。北条家にとって、今川家は義元を失ってなお、積極的に支援してくれる頼りになる同盟先であった。
「加えて、甲斐の徳栄軒信玄殿も昨日二十四日に富士吉田まで出陣してきており、5日のうちに河村に着陣するとの便りも届いておりますれば」
「ふっ、恐らくは駿河と甲斐の両当主示し合わせての出陣であろう。となれば、三国同盟の三当主揃い踏みで長尾弾正少弼めと対峙することとなるか」
「そうなりまするな。我らに越後へ追い落とされた関東管領に現古河公方の異母弟を担ぎ出し、関白まで引っ張り出してきた長尾弾正少弼との決戦!これほどの大戦、後世に語り継がれる戦となるに相違ございませぬ!」
嫌味を交えながらも、決戦に心躍らせる二十四歳の若き当主・氏政を横目に、四十七にもなる御隠居はあまり良い顔をしなかった。
そんな父の様子を怪訝そうに見つめた後、再び城外にひしめく大軍勢へと視線を移す北条新九郎なのであった。
ともあれ、大人しく居城・小田原城の包囲を許した北条左京大夫氏康・新九郎氏政父子であったが、父子の思惑通り、長尾勢は守りの堅い小田原城攻略に難航。一向に陥落する気配を見せなかった。
それに加えて、駿河今川氏と甲斐武田氏の援軍が小田原へ向かってくるとの情報が流布されたこともあり、包囲から一週間ほどで連合軍内にて崩壊への不協和音が鳴り響く。
小田原城外、「毘」の軍旗が翻る本陣にて『源氏物語』を愛読している壮年――長尾弾正少弼景虎のもとへ、家臣より報せがもたらされる。
「御実城様、一大事にございます」
「いかがした。佐竹家をはじめ、撤兵要求が届いておることは存じておる」
「いえ、忍城の成田氏が無断で陣を払い、忍城へ引き揚げてしまい、それに続く者が出始めております」
「ふむ、やはり飢饉が続発しておる関東で長期間の遠征は維持できぬか」
すでに予測出来ていた事態であったことから、そこまで動揺した様子も見せない長尾弾正少弼景虎。されど、次に報告された事態には、余裕を維持することなどできなかった。
「また、越後本国にて留守居をしておられる直江大和守景綱様より早馬が」
「急ぎの報せであろう。申してみよ」
「はっ、どうやら武田方が北信濃川中島に海津城の築城を進めておるとのこと。加えて、越中では一向一揆が放棄したとのこと!」
「おそらくは、越中一向一揆も武田が仕組んだことであろう。こう都合よく蜂起するとは裏で暗躍している者がおらねば成立し得ぬ」
上野国厩橋城にて越年し、武蔵国を突っ切って相模国まで進軍してきて、北条家の本城・小田原城を攻め落とさぬまま撤退する。
ここまで来て、小田原城を攻めあぐねて撤退となるのは長尾弾正少弼にとっても無念の極みであった。だが、すでに味方が一枚岩でなく、強硬姿勢を貫けば敵地にて孤立することにもなりかねない。これは断じて景虎にとって許容できることではなかった。
「よし、斎藤下野守朝信、柿崎和泉守景家の両名に通達。ただちに我らも陣払いし、本国越後へ帰還する、とな!」
「はっ、ははっ!」
かくして、長尾弾正少弼による小田原城攻囲は十日も経たずして幕引きとなった。されど、小田原城を攻略できずとも、大軍でもって包囲したという事実だけでも、関東の諸豪族に与えた影響は大きなものがあった。
この三月下旬から閏三月にかけての一大事は、数日の時を要したものの、遠く三河の松平蔵人佐元康の元へも届けられていた。
「そうか、長尾弾正少弼殿は小田原城を攻囲したか!」
「はっ、包囲は十日と経たずに解消されたとのことにございますが、近隣諸国へ与える影響は小さからず」
「であろうな。となれば、越後長尾軍は軍勢を越後へ戻した後の北条軍の巻き返し如何によっては、今後の武田家と今川家の動きも変わって参ろうぞ」
元康が知っているのは長尾軍が小田原城包囲を解き、撤退を開始したところまで。北信濃や越中で起こったことが原因であろうとは、知る由もなかった。
「左衛門尉、加茂郡の阿摺衆は当家に味方するとのことじゃ」
「それは祝着至極に存じます。やはり簗瀬家弘、原田種久、原田藤左衛門らに足助鱸氏と敵対する意思を明確にしたことが大きかったのでしょうか」
「そうであろう。わしも三名に与えた起請文にて『足助鱸越後は容赦せぬ』と誓約してあるゆえ、かの者らに刺さったとすればその文言であろう」
元康の話に深く頷きながら、酒井左衛門尉忠次はいかにも申し訳なさそうに報告すべき旨を述べ始める。
「殿、まこと面目次第もございませぬ。山中城攻略までは順当に進みましたが、長沢の鳥屋ヶ根城を未だ陥落させられておりませぬ」
「それは存じておる。さすがに容易くは落とせぬか」
「はっ、されど豊川三人衆の調略は成せました」
「なんと!」
酒井左衛門尉が持参した書状三通を一読した元康の表情は書院の中に漂う寒気を吹き飛ばしてしまうのではないかというほど、誰に隠すこともなく喜んだ。
この豊川三人衆とは野田城の菅沼新八郎定盈、八名郡月ヶ谷城の西郷弾正左衛門正勝、川路城の設楽越中守貞通の三名である。
「最も早く応じたのは設楽越中守殿。されど、間髪入れず菅沼新八郎殿、西郷弾正左衛門殿も当家に与するとの返答がございました」
「わしの記憶が正しければ、西郷弾正左衛門が正室は野田菅沼氏の出ではなかったか」
「はい。野田城の菅沼新八郎殿にとって西郷弾正左衛門殿は叔母婿に当たりまする。加えて、西郷弾正左衛門殿が次男である孫九郎清員殿には某の妹が嫁いでおりますれば」
「そうであったな。たしか、嫡子も産まれておるとか以前申しておらなんだか」
元康の言葉に首肯する酒井左衛門尉。遠く東三河において豊川三人衆という味方を得たのは実に心強いと感じてもいた。
元康が酒井左衛門尉との間に広げている三河の絵図のうえに、味方として新たに野田城の菅沼新八郎、月ヶ谷城の西郷弾正左衛門、川路城の設楽越中守の名が記される。味方と確定しているのは青野松平家、深溝松平家と豊川三人衆、それに加えて阿摺衆とまだまだ心許なかった。
「まだ桜井松平、福釜松平、藤井松平といった矢矧川以西の者らや大給松平と敵対している滝脇松平、能見松平、大草松平、形原松平、竹谷松平、五井松平、長沢松平といった他の松平家からの返答も届いておらぬ」
「おそらく、今川へ提出した人質の身を案じて動けぬのでしょう」
「そうであろうな。皆、証人として妻子を出しているのだ。安易に離反などと口にはできぬか」
そう言う元康もまた、駿府へ人質として嫡男・竹千代を出しているのである。だが、その身を案じていないわけではない。ただただ、当主として振る舞う以上、我が子のことなど歯牙にもかけていないように演じなければならないだけであった。
「逆に敵対するであろう者らはおおよそ予想がつく。まず、今も攻囲している鳥屋ヶ根城に籠る糟屋宗益ら今川被官衆は無論のこと、義元公のおかげで当主の座に就いた牛久保城主で西尾城へ在番している牧野民部丞成定。東条城の吉良義昭様も我らが吉良三郎様を擁立したと知れば敵対してくるであろうゆえ、厄介じゃ」
「加えて、宝飯郡上之郷城の鵜殿藤太郎長照殿も今川家への忠誠心は高い御仁。なにせ、あれほど織田軍に追い詰められながらも降伏することなく大高城を守り抜いた傑物にございますれば、徹底抗戦して参ろうかと。他にも、先般山中領より某が叩き出した設楽郡の作手奥平監物も山中領の支配回復を目論んでおりましょうし、宗家への対抗意識の高い大給松平和泉守親乗と、その縁戚である足助真弓山城の鈴木重直も手向かうことは必定」
「うむ。遠江との国境に近い白倉城の山吉田鈴木重勝は地理的にも今川方であろうし、伊奈城の本多助太夫忠俊も当然今川へ付くであろう。今川譜代では吉田城代の大原肥前守資良、田原城代の朝比奈元智も抗戦してくることは間違いない」
「こうしてみると、お味方よりも敵の方が数が多うございますな」
まさしく酒井左衛門尉の申す通り、味方よりも遥かに敵の方が多い。何より、日和見を決め込んでいる三河国衆も数多いる状況なのだ。この状況下で、何よりも松平一族すら一丸となっていないことであった。
さてどうしたものかと元康と酒井左衛門尉が頭を抱えているところへ、酒井雅楽助政家と石川与七郎数正が興奮気味に元康と酒井左衛門尉のいる書院へとやって来た。
「おお、雅楽助に与七郎か。何事かあったか」
元康の「何事かあったか」という言葉に同時に頷いてみせた酒井雅楽助と石川与七郎は互いに顔を見合わせたうえで、石川与七郎から口を開いた。
「殿!宝飯郡の牧野平左衛門入道父子、牧野弥次右兵衛尉、牧野助兵衛正重らの調略が成せました!」
「なにっ、牧野一族の調略が成せたか!」
「はいっ!もともと義元公の意向を受けて当主となった牧野民部丞を快く思っておらぬとのことで、内応を確約いたしました!」
「よしっ!でかしたぞ、与七郎!これにて、牛久保城を攻めとることもできようぞ!」
これまで東三河経略において決定打を欠いていたために決行を指示できず、腹案に留めていた胸中の策を実行できることに元康は歓喜した。子供のようにはしゃぐ元康を慈父の眼差しで見つめていた酒井雅楽助より、次なる朗報がもたらされる。
「殿、朗報にございまする!」
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「じゃが、荒川甲斐守殿ともあろう方が何の見返りもなしに協力するとは申すまい。何ぞ申してきてはおらぬか」
「はっ、西尾城より牧野民部丞成定を追い出し、兄の養子である吉良三郎義安を西尾城へ入れることが条件であるとのこと。おそらくは、裏で吉良三郎様の働きかけもあったのではないかと。おそらく、書状の文面を見るに、西尾城に吉良家に縁のない者が闊歩しておるのが気に入らぬのでしょう」
「なるほど、それならば志は同じであるな。よし、これにて西尾城の北東が開けた。今の報せで西尾城と牛久保城を一挙に攻略する目途が立った!」
牛久保牧野氏の居城・牛久保城と牛久保牧野氏当主・牧野民部丞が在番する西尾城の同時攻略。そのような大胆不敵な策などあるのかと、その場に同席する重臣三名は前のめりになる。
「よいか、この長沢の鳥屋ヶ根城が攻略できぬ限り、牛久保城を攻められぬと考えていた。されど、離反が明るみに出る前の豊川三人衆の手勢と僅かばかりではあるが当家の手勢を割き、牛久保城を攻める」
「なるほど、道中の鳥屋ヶ根城が落ちぬ限り、牛久保城を落とすだけの兵力は送り込めませぬが、豊川三人衆の手勢を加えれば落とせるやもしれませぬなぁ」
「甘いぞ雅楽助。与七郎が先ほど申したことを思い出してみよ。調略が成せた牧野一族らも離反となれば、当主不在の牛久保城など、『ひとへに風の前の塵に同じ』であろうが」
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HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
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影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
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