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第4章 苦海の章
第123話 松平蔵人逆心
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すでに閏三月も下旬に入っていた。その後も元康は各国衆に対する調略に余念がなかった。
先月京の将軍足利義輝へと献上した嵐鹿毛についても、先月二十八日に仲介した泰翁慶岳に将軍より御内書が下されたこと、その内容について泰翁慶岳より元康へ報告の文も届けられていた。
「殿、その書状は泰翁慶岳と申す僧侶よりの文にございますか」
「おお、彦右衛門尉か。そうじゃ、泰翁慶岳より嵐鹿毛献上の報告が届いてな。なんでも将軍は織田上総介殿よりも早く早道馬を献上したことを大変喜んでおられるとのこと」
「それは祝着の極みに存じます。まこと、おめでとうございます」
「うむ。これで京の足利将軍とも繋がりを得られた。これは大きな一歩じゃ。あとはこの一歩を独立を果たすために繋げていけるかが肝要じゃ」
西尾城、牛久保城を同時に攻略する戦略を描いた元康はでき得る限りのことをして備えていた。
吉良三郎義安の協力も得ながら松平一族を取りまとめることにも着手し、能見松平、桜井松平、福釜松平、藤井松平、滝脇松平、竹谷松平、形原松平、長沢松平、五井松平は協力する旨を了承。
「残すは大草松平と大給松平にございますか」
「うむ。じゃが、大給松平は切り捨てる。交渉するだけ時間の無駄じゃ。すでに滝脇松平家に切り取り勝手とする旨を伝えたゆえな」
「然らば、大草松平にございまするか。されど、大草松平は幾度と当家を裏切っておりますゆえ、そう易々と従うかどうか」
「昨年の尾張侵攻では太守様御存命であったから、渋々わしに従っておったまでのこと。ましてや、当主の善兵衛尉正親殿が討ち死したこともあり、お家の混乱も静まってはおるまい」
「ならば、水野下野守殿に説かせてはいかがでしょうや。たしか、水野下野守殿にとって、大草松平家の実権を握る松平昌久殿は叔父にあたる方にございますゆえ」
「おお、それは良い手やもしれぬ。然らば、緒川の伯父に宛てて大草松平説得を依頼する書状を直ちに認めるとしようぞ」
元康は水野下野守を介して大草松平家を懐柔するという鳥居彦右衛門尉元忠の意見を容れ、すぐにも書状を送るべく、筆を走らせ始める。
「そうです、殿。今月十六日に長尾弾正少弼景虎殿が関東管領である上杉憲政殿からの要請を受けて新たな関東管領に就任し、山内上杉家の家督を相続したことはご存知でしょうや」
「うむ。京より届いた書状に将軍が長尾弾正少弼殿を関東管領の職に就くことをお認めになられたと記されてもおったゆえ、無論存じておる。名も上杉憲政殿より『政』の一字を拝領し、上杉弾正少弼政虎に改めたこともな」
「さすがは殿にございます。この新たな関東管領の誕生で関東は今しばらく荒れることにもなりましょう」
「そうじゃな。今しばらく、駿府の者らの眼が関東へ釘付けとなってくれることを祈るばかりじゃ」
元康としては駿府にいる今川氏真の眼がこれまでと変わらず、関東方面へ向けられ続けることを期待していた。そうすれば、その間に三河の敵対勢力を一つでも多く駆逐できるからである。
だが、元康にとって気がかりであったのは、駿河へ放っていた密偵の報告の内容であった。それは、今川氏真が小田原城を包囲されている北条左京大夫氏康へ自ら出陣する旨を正式に申し入れ、出陣準備が進められていたにも関わらず、実現されなかったことである。
また、別の報告では、氏真は出陣するつもりであったが、重臣たちが西三河情勢が剣呑であるから、今しばらく当主自ら関東へ出陣することは取りやめるべきだと引き留めたのだという。
「殿。いかがなされましたか」
「いや、何。駿府では当主自ら小田原へ出陣しようとしていたのが取りやめとなったであろう。やはり、我らの動きを警戒しての事なのかと思うてな」
「それもありましょう。現に当家の軍勢が長沢の鳥屋ヶ根城を攻囲しておりますゆえ。されど、東三河の国衆らに戦の備えは見られず、西遠江の方面も援軍に向かってくる様子もございませぬ」
「そうなのじゃ。我らを警戒しているのならば、東三河と西遠江の兵力を投入し、当家の領国へ攻め入ってくるはずであろう。じゃが、そのような様子が見られないゆえ、気味が悪うてな」
そう、元康としても氏真の動向や対応が不自然なのが気にかかっているのだ。気にしているのか気にしていないのか、さっぱり読めない。何かの策略であると警戒するべきなのか、単に対応が追いついていないと見るべきなのか、不安と迷いが生じてしまう。
「さりとて、今さら気にしても致し方なきこと。かくなるうえは、興亡をかけた一戦を仕掛けるまでじゃ!いよいよ来月頭より動くぞ、彦右衛門尉」
「はっ、心得ております!この鳥居彦右衛門尉元忠、殿の御為、身命を賭して働かせていただきまする!」
心強い鳥居彦右衛門尉の言葉に改めて勇気を貰い、書きかけの書状を書き進めていく元康。こうして瞬く間に時は過ぎ去り、運命の永禄四年四月を迎えたのであった。
春霞でぼやけて見える西尾城の方面を見やりながら、元康は岡崎城の大広間に重臣らを集め、かねてより企てていたことを決行に移した。
「良いか!この日をもって、松平蔵人佐元康は正式に今川家と敵対することとした!すでに今川方の城を奪い取っておるが、わし自ら今川方の城を攻め取りに参るはこれが初めてのこととなる!」
その場にいるのは阿部善九郎正勝をはじめとする近侍たち。加えて、留守居の鳥居伊賀守忠吉と石川安芸守忠成といった老臣たちに、出陣する酒井雅楽助政家、土居の本多豊後守広孝、上和田の大久保七郎左衛門忠勝率いる大久保衆といった面々であった。
「殿!いよいよにございますな!」
「おう、雅楽助!わしが竹千代であった頃より、今川家の方々から多大なご恩を受けて参ってきたこと、そなたには分かるであろう」
「はっ!それは、もう……!」
「その恩を捨てよとは申せぬ。わしも捨てきれておらぬからじゃ。じゃが、その感情にほだされてはならぬことだけ、弱いわし自身にも、そなたらにも厳命しておく。一切の情を捨て、松平家存立をかけた大博打を打つ!」
立派に鎧を着こみ、こぶしを握り演説する元康の姿を目いっぱいに貯めたものによってぼやけさせられる酒井雅楽助。
なぜなら、元康が今身に纏っているのは他ならぬ今川義元より賜った金陀美具足を身に纏い、諱の一字には『元』の一字が残されたままであるからだ。義元から受けた恩恵を身に纏い、その嫡子で兄とも慕う氏真と戦おうとしているのだと思うと、悲しく思えてならないからである。
「まずは荒川甲斐守が荒川城へ向かう!そこにて藤井松平、桜井松平、福釜松平の軍勢と合流し、西尾城攻めへ向かう!矢矧川沿いには苅谷水野勢が展開し、睨みを利かせる手筈となっておる!加えて、上野城の酒井将監と滝脇松平には大給松平の監視、能見松平には大草松平への牽制と監視。青野松平、深溝松平、形原松平には東条城の吉良義昭の動向を見張らせておる。五井松平と竹谷松平には東西から上之郷の鵜殿藤太郎を見張らせ、長沢松平には鳥屋ヶ根城への加勢を命じてもおる!万事手抜かりなく進んでおる!此度の西尾城攻め、時はかけられぬ!本日中に陥落させる気概で臨め!出陣!」
元康が勇み足で大広間を出ると、近侍たちが寸時も遅れることなく太刀や兜、馬印を持って後ろへ続く。その後ろには酒井雅楽助、本多豊後守、大久保七郎左衛門らが続き、留守居の鳥居伊賀守と石川安芸守は全員が広間を去るまで白髪頭を下げたまま動かなかった。
元康率いる松平本隊はおよそ二千。休むことなく荒川甲斐守が待つ荒川城までの三里の道のりを踏破し、荒川城へ入城した。
「これは松平蔵人佐殿!此度は要請にお応えくださり、まことかたじけござらぬ!」
「荒川甲斐守殿。お初にお目にかかりまする。某も同じ思いにございます。弘治三年より五年間西尾城へ在城するよう命じられておきながら、永禄四年となってなお、吉良様の城を出ぬとは不届き至極。牧野民部丞はこの手で成敗せねばなりませぬ」
「そうじゃな、亡き義元公は満五年のつもりであったのやもしれぬが、五年としか命じておらぬ」
「ええ、いかにも。今年で弘治三年より数えで五年となりますゆえ、城より退去願っても差し支えございますまい」
対面した当初は爽やかに挨拶をかわしていた元康と荒川甲斐守であったが、徐々に悪だくみをする人間の顔になっていく。
「当家からも援軍を派遣したいとの申し出を断られたのは、もしや東条城のことを気にしてのことでしょうや」
「いかにも。それに、幡豆小笠原氏の動向も不穏にございますゆえ、荒川甲斐守殿には引き続き荒川城と八ツ面城の守備をお頼みいたしたい」
「うむ、承知いたしましたぞ。然らば、蔵人佐殿。西尾城のことは、何卒よろしくお願い申し上げます」
「お任せくだされ」
胸をどんっと強く叩き、自信を示す元康を荒川甲斐守は心底より頼もしく思った。会うまでは今川義元から寵愛を受けた小童程度にしか認識していなかったが、当初の予想は裏切られる形となっていた。
「蔵人佐殿。厳しい戦いになるであろうこと、重々承知しておりましょうな」
「無論にございます。何分にも当家は西三河の国衆。対するは駿河、遠江、三河の三国を統べる東海道一の大大名。背後にも強力な同盟先が二つございまする。決して勝てると言い切れる戦ではございませぬ」
「然らば、何ゆえに無謀な賭けに出ることを決められたのか。蔵人佐殿が存念を承りたく」
「第一に松平のためにございます。このままでは今川の援軍が来るまでに使い捨てにされる。されど、今の状況であれば、これまで戦ってきた強者たちを後ろ盾に、当家の窮地を対岸の火事としか捉えていなかったかつての味方と一戦を交え、松平の未来を切り拓くことができまする」
元康の信念は揺るぎなかった。ここまで来たのだ。
たとえ瀬名や於亀から竹千代を見殺しにしたと憎悪されようが、かつての味方から恩知らずと罵られようが、これまで自分を庇護し薫陶を授けてくれた故人たちと死して後も憎まれようとも、松平の未来はここで今川家を離反することでしか松平存立の道はないのだ。
荒川甲斐守に己の心の内を明かす中で決意を新たにした元康は荒川城を発し、西尾城を指呼の間に捉えた。
「者共、あれが牧野民部丞が在城する西尾城じゃ!我らはこれより吉良三郎義安様へ西尾城を返上すべく、城を接収しに参る!」
主君・元康の命を受け、松平勢の弓隊、鉄炮隊が攻撃する支度に入り、慣れた手つきで準備を終えて元康の号令を待っているのである。
牧野家の丸に三つ柏の旗が翻る西尾城へ、丸に三つ葉葵を筆頭に山桜、丸に酢漿草、丸に対い梅の旗の下、幾百もの矢じりや銃口が向けられる。
「今じゃ!放てっ!」
号令一下、幾重にも重なる銃声と幾十もの弓弦の音。突然の北東寄りの攻撃に西尾城の牧野兵は戦慄する。外を見れば、今川家親類衆である松平蔵人佐元康の旗をはじめ、松平勢の旗が視界に移るのである。
敵は織田でも水野でもなく、松平なのである。そのことに驚いた城兵らからたちまち城を預かる牧野民部丞へ伝えられていく。
「馬鹿なっ!まこと、松平勢が攻めてきたと申すか!」
「お疑いとあらば、城北東をご覧くださいませ!」
信じられぬ、といった様子で一段と高い位置へ移動し、北東を見やる。すると、報告の通りの光景が眼下に広がっているではないか。
「松平勢が作手奥平氏の山中領や板倉弾正らが在する中島城や岡城を奪ったことは知っておったが、いずれも十数年前まで松平家の持ち城であった。されど、この西尾城はそうではない!一体、松平蔵人佐殿は、いや、松平蔵人佐めは何を考えておるのか!」
「殿!敵が門側へ殺到し、お味方が苦戦しておりまする!」
「案ずるな、しばし防ぐのじゃ!敵の攻撃も夜にもなれば収まるはずじゃ!それまで死ぬ気で守れっ!」
西尾城を預かる牧野民部丞。攻められたからには応戦せざるを得まいと武士の意地を見せつけんと徹底抗戦するも、松平勢の猛攻は陽が落ちて後も継続された。
「殿、攻撃がやみませぬ……」
「申し上げます!外郭が敵に突破されました!お味方も、逃亡する者が相次いでおります!」
「これはいかん。本領の牛久保城まで落ちることといたすっ!こんなところで死んでたまるものかっ!」
そもそも西尾城は預かっている城。それを守るために死ぬことは、牧野民部丞にはできなかった。夜陰に紛れて西尾城を脱した牧野民部丞は本領である東三河の牛久保城へと落ち延びていくのであった――
先月京の将軍足利義輝へと献上した嵐鹿毛についても、先月二十八日に仲介した泰翁慶岳に将軍より御内書が下されたこと、その内容について泰翁慶岳より元康へ報告の文も届けられていた。
「殿、その書状は泰翁慶岳と申す僧侶よりの文にございますか」
「おお、彦右衛門尉か。そうじゃ、泰翁慶岳より嵐鹿毛献上の報告が届いてな。なんでも将軍は織田上総介殿よりも早く早道馬を献上したことを大変喜んでおられるとのこと」
「それは祝着の極みに存じます。まこと、おめでとうございます」
「うむ。これで京の足利将軍とも繋がりを得られた。これは大きな一歩じゃ。あとはこの一歩を独立を果たすために繋げていけるかが肝要じゃ」
西尾城、牛久保城を同時に攻略する戦略を描いた元康はでき得る限りのことをして備えていた。
吉良三郎義安の協力も得ながら松平一族を取りまとめることにも着手し、能見松平、桜井松平、福釜松平、藤井松平、滝脇松平、竹谷松平、形原松平、長沢松平、五井松平は協力する旨を了承。
「残すは大草松平と大給松平にございますか」
「うむ。じゃが、大給松平は切り捨てる。交渉するだけ時間の無駄じゃ。すでに滝脇松平家に切り取り勝手とする旨を伝えたゆえな」
「然らば、大草松平にございまするか。されど、大草松平は幾度と当家を裏切っておりますゆえ、そう易々と従うかどうか」
「昨年の尾張侵攻では太守様御存命であったから、渋々わしに従っておったまでのこと。ましてや、当主の善兵衛尉正親殿が討ち死したこともあり、お家の混乱も静まってはおるまい」
「ならば、水野下野守殿に説かせてはいかがでしょうや。たしか、水野下野守殿にとって、大草松平家の実権を握る松平昌久殿は叔父にあたる方にございますゆえ」
「おお、それは良い手やもしれぬ。然らば、緒川の伯父に宛てて大草松平説得を依頼する書状を直ちに認めるとしようぞ」
元康は水野下野守を介して大草松平家を懐柔するという鳥居彦右衛門尉元忠の意見を容れ、すぐにも書状を送るべく、筆を走らせ始める。
「そうです、殿。今月十六日に長尾弾正少弼景虎殿が関東管領である上杉憲政殿からの要請を受けて新たな関東管領に就任し、山内上杉家の家督を相続したことはご存知でしょうや」
「うむ。京より届いた書状に将軍が長尾弾正少弼殿を関東管領の職に就くことをお認めになられたと記されてもおったゆえ、無論存じておる。名も上杉憲政殿より『政』の一字を拝領し、上杉弾正少弼政虎に改めたこともな」
「さすがは殿にございます。この新たな関東管領の誕生で関東は今しばらく荒れることにもなりましょう」
「そうじゃな。今しばらく、駿府の者らの眼が関東へ釘付けとなってくれることを祈るばかりじゃ」
元康としては駿府にいる今川氏真の眼がこれまでと変わらず、関東方面へ向けられ続けることを期待していた。そうすれば、その間に三河の敵対勢力を一つでも多く駆逐できるからである。
だが、元康にとって気がかりであったのは、駿河へ放っていた密偵の報告の内容であった。それは、今川氏真が小田原城を包囲されている北条左京大夫氏康へ自ら出陣する旨を正式に申し入れ、出陣準備が進められていたにも関わらず、実現されなかったことである。
また、別の報告では、氏真は出陣するつもりであったが、重臣たちが西三河情勢が剣呑であるから、今しばらく当主自ら関東へ出陣することは取りやめるべきだと引き留めたのだという。
「殿。いかがなされましたか」
「いや、何。駿府では当主自ら小田原へ出陣しようとしていたのが取りやめとなったであろう。やはり、我らの動きを警戒しての事なのかと思うてな」
「それもありましょう。現に当家の軍勢が長沢の鳥屋ヶ根城を攻囲しておりますゆえ。されど、東三河の国衆らに戦の備えは見られず、西遠江の方面も援軍に向かってくる様子もございませぬ」
「そうなのじゃ。我らを警戒しているのならば、東三河と西遠江の兵力を投入し、当家の領国へ攻め入ってくるはずであろう。じゃが、そのような様子が見られないゆえ、気味が悪うてな」
そう、元康としても氏真の動向や対応が不自然なのが気にかかっているのだ。気にしているのか気にしていないのか、さっぱり読めない。何かの策略であると警戒するべきなのか、単に対応が追いついていないと見るべきなのか、不安と迷いが生じてしまう。
「さりとて、今さら気にしても致し方なきこと。かくなるうえは、興亡をかけた一戦を仕掛けるまでじゃ!いよいよ来月頭より動くぞ、彦右衛門尉」
「はっ、心得ております!この鳥居彦右衛門尉元忠、殿の御為、身命を賭して働かせていただきまする!」
心強い鳥居彦右衛門尉の言葉に改めて勇気を貰い、書きかけの書状を書き進めていく元康。こうして瞬く間に時は過ぎ去り、運命の永禄四年四月を迎えたのであった。
春霞でぼやけて見える西尾城の方面を見やりながら、元康は岡崎城の大広間に重臣らを集め、かねてより企てていたことを決行に移した。
「良いか!この日をもって、松平蔵人佐元康は正式に今川家と敵対することとした!すでに今川方の城を奪い取っておるが、わし自ら今川方の城を攻め取りに参るはこれが初めてのこととなる!」
その場にいるのは阿部善九郎正勝をはじめとする近侍たち。加えて、留守居の鳥居伊賀守忠吉と石川安芸守忠成といった老臣たちに、出陣する酒井雅楽助政家、土居の本多豊後守広孝、上和田の大久保七郎左衛門忠勝率いる大久保衆といった面々であった。
「殿!いよいよにございますな!」
「おう、雅楽助!わしが竹千代であった頃より、今川家の方々から多大なご恩を受けて参ってきたこと、そなたには分かるであろう」
「はっ!それは、もう……!」
「その恩を捨てよとは申せぬ。わしも捨てきれておらぬからじゃ。じゃが、その感情にほだされてはならぬことだけ、弱いわし自身にも、そなたらにも厳命しておく。一切の情を捨て、松平家存立をかけた大博打を打つ!」
立派に鎧を着こみ、こぶしを握り演説する元康の姿を目いっぱいに貯めたものによってぼやけさせられる酒井雅楽助。
なぜなら、元康が今身に纏っているのは他ならぬ今川義元より賜った金陀美具足を身に纏い、諱の一字には『元』の一字が残されたままであるからだ。義元から受けた恩恵を身に纏い、その嫡子で兄とも慕う氏真と戦おうとしているのだと思うと、悲しく思えてならないからである。
「まずは荒川甲斐守が荒川城へ向かう!そこにて藤井松平、桜井松平、福釜松平の軍勢と合流し、西尾城攻めへ向かう!矢矧川沿いには苅谷水野勢が展開し、睨みを利かせる手筈となっておる!加えて、上野城の酒井将監と滝脇松平には大給松平の監視、能見松平には大草松平への牽制と監視。青野松平、深溝松平、形原松平には東条城の吉良義昭の動向を見張らせておる。五井松平と竹谷松平には東西から上之郷の鵜殿藤太郎を見張らせ、長沢松平には鳥屋ヶ根城への加勢を命じてもおる!万事手抜かりなく進んでおる!此度の西尾城攻め、時はかけられぬ!本日中に陥落させる気概で臨め!出陣!」
元康が勇み足で大広間を出ると、近侍たちが寸時も遅れることなく太刀や兜、馬印を持って後ろへ続く。その後ろには酒井雅楽助、本多豊後守、大久保七郎左衛門らが続き、留守居の鳥居伊賀守と石川安芸守は全員が広間を去るまで白髪頭を下げたまま動かなかった。
元康率いる松平本隊はおよそ二千。休むことなく荒川甲斐守が待つ荒川城までの三里の道のりを踏破し、荒川城へ入城した。
「これは松平蔵人佐殿!此度は要請にお応えくださり、まことかたじけござらぬ!」
「荒川甲斐守殿。お初にお目にかかりまする。某も同じ思いにございます。弘治三年より五年間西尾城へ在城するよう命じられておきながら、永禄四年となってなお、吉良様の城を出ぬとは不届き至極。牧野民部丞はこの手で成敗せねばなりませぬ」
「そうじゃな、亡き義元公は満五年のつもりであったのやもしれぬが、五年としか命じておらぬ」
「ええ、いかにも。今年で弘治三年より数えで五年となりますゆえ、城より退去願っても差し支えございますまい」
対面した当初は爽やかに挨拶をかわしていた元康と荒川甲斐守であったが、徐々に悪だくみをする人間の顔になっていく。
「当家からも援軍を派遣したいとの申し出を断られたのは、もしや東条城のことを気にしてのことでしょうや」
「いかにも。それに、幡豆小笠原氏の動向も不穏にございますゆえ、荒川甲斐守殿には引き続き荒川城と八ツ面城の守備をお頼みいたしたい」
「うむ、承知いたしましたぞ。然らば、蔵人佐殿。西尾城のことは、何卒よろしくお願い申し上げます」
「お任せくだされ」
胸をどんっと強く叩き、自信を示す元康を荒川甲斐守は心底より頼もしく思った。会うまでは今川義元から寵愛を受けた小童程度にしか認識していなかったが、当初の予想は裏切られる形となっていた。
「蔵人佐殿。厳しい戦いになるであろうこと、重々承知しておりましょうな」
「無論にございます。何分にも当家は西三河の国衆。対するは駿河、遠江、三河の三国を統べる東海道一の大大名。背後にも強力な同盟先が二つございまする。決して勝てると言い切れる戦ではございませぬ」
「然らば、何ゆえに無謀な賭けに出ることを決められたのか。蔵人佐殿が存念を承りたく」
「第一に松平のためにございます。このままでは今川の援軍が来るまでに使い捨てにされる。されど、今の状況であれば、これまで戦ってきた強者たちを後ろ盾に、当家の窮地を対岸の火事としか捉えていなかったかつての味方と一戦を交え、松平の未来を切り拓くことができまする」
元康の信念は揺るぎなかった。ここまで来たのだ。
たとえ瀬名や於亀から竹千代を見殺しにしたと憎悪されようが、かつての味方から恩知らずと罵られようが、これまで自分を庇護し薫陶を授けてくれた故人たちと死して後も憎まれようとも、松平の未来はここで今川家を離反することでしか松平存立の道はないのだ。
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「今じゃ!放てっ!」
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「馬鹿なっ!まこと、松平勢が攻めてきたと申すか!」
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「殿!敵が門側へ殺到し、お味方が苦戦しておりまする!」
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「殿、攻撃がやみませぬ……」
「申し上げます!外郭が敵に突破されました!お味方も、逃亡する者が相次いでおります!」
「これはいかん。本領の牛久保城まで落ちることといたすっ!こんなところで死んでたまるものかっ!」
そもそも西尾城は預かっている城。それを守るために死ぬことは、牧野民部丞にはできなかった。夜陰に紛れて西尾城を脱した牧野民部丞は本領である東三河の牛久保城へと落ち延びていくのであった――
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対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
影武者の天下盗り
井上シオ
歴史・時代
「影武者が、本物を超えてしまった——」
百姓の男が“信長”を演じ続けた。
やがて彼は、歴史さえ書き換える“もう一人の信長”になる。
貧しい百姓・十兵衛は、織田信長の影武者として拾われた。
戦場で命を賭け、演じ続けた先に待っていたのは――本能寺の変。
炎の中、信長は死に、十兵衛だけが生き残った。
家臣たちは彼を“信長”と信じ、十兵衛もまた“信長として生きる”ことを選ぶ。
偽物だった男が、やがて本物を凌ぐ采配で天下を動かしていく。
「俺が、信長だ」
虚構と真実が交差するとき、“天下を盗る”のは誰か。
時は戦国。
貧しい百姓の青年・十兵衛は、戦火に焼かれた村で家も家族も失い、彷徨っていた。
そんな彼を拾ったのは、天下人・織田信長の家臣団だった。
その驚くべき理由は——「あまりにも、信長様に似ている」から。
歴史そのものを塗り替える——“影武者が本物を超える”成り上がり戦国譚。
(このドラマは史実を基にしたフィクションです)
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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